⑬クロード、逃げ回る
その後クロードは父の様子や屋敷、海の向こうへ向かった友人を気にしつつ、領地内や周辺を回って過ごしていた。穏やかな気候に恵まれ、避寒や保養地を目当てにやって来る人々はそれなりにいる。そして今まで父が熱心に領地を運営してくれていたので、途中まで大きな問題は発生しなかった。
しかしある時に、にこやかに声を掛けて来る者があった。
「いやはや、お若い身で爵位を継いだとなればさぞかし、不安も多い事でしょう。ここで行き合ったのもご縁でしょうから、どうかお見知りおきくださいませ」
相手はスペンス商会と名乗った。元からいくつかの貴族家と繋がりがあり、王都周辺で土地を売買して利益を上げていると語った。初対面のような口ぶりで応じつつ、クロードには聞き覚えのある名前だった。
少し前、かつてグレイセルを放逐した生家がどうなっているのか、密かに調べていた。本人には伝えていないが、昔と考えが変わって交流や支援に繋がる道筋ができるのではないかと考えた。ところが既に、絵に描いたような没落の一途を辿った後である。
そうなると海の向こうにいる相手に、わざわざ手紙で知らせるまでもないと判断し、心の中にしまってあった。
没落のきっかけは、領地内で作物の病害による収入の減少である。しかし資金繰りに困っているところにスペンス商会が投資話を持ち掛け、屋敷や土地を失う一連の流れに関わっていたという噂だった。素行の良くない連中を抱えているという話もある。彼らだけが悪いというわけではないにしろ、近づかない方がいいと王都周辺で出会った人々からも忠告されていた。
その相手と偶然のように行き会った事実を、クロードは無視できなかった。予定外の事情で当主となった経緯から、簡単に利益を上げられる相手だと目を付けられたらしい。子爵領が王都から遠い田舎としても、隣国と行き来のある港は魅力的に違いない。
スペンス商会の会頭とは度々遭遇し、領地付近で新しく取引をはじめたいという話だったが、クロードは許可を出さなかった。応じないとなると、港や領地内のいくつかの商会に接触を始める。決して聞く耳を持たないように、とクロードは直接出向いて経緯を説明し、強く要請した。
しかし、彼らの反応は危機感に欠けているものだった。各地で大きな影響力を持つ商会が現れている流れに後れを取ってはならない、という意識が根底にあるようだった。
何より子爵領に隣接しているメイベル男爵領の存在がある。隣国との交易で得た利益で国庫に貢献を果たし、爵位と領地を得たという成功例だった。
クロードが領主として一帯から締め出す処分も辞さない、という最終手段をちらつかせてようやく、こちらの本気を悟ったらしい。
他にも注意喚起も兼ね、スペンス商会が王都で何をしていたのか、名指しで噂を流した。冬が近くなって避寒のために王都からやって来る者達からも証言が広まると、あちらもやりづらさを感じたようだ。ようやくこの辺りでの商売は手を引いたらしい。
クロードは領地を継いだ直後の数年を、彼らを追い払うのに費やした。胸をなでおろしたものの、目に見える形という成果はない。ただ疲弊して数年を無為にしてしまったような感覚だった。
その上、領地内の商会のいくつかはクロードが強く要請した一幕を、自分達の利益が妨げられたと受け取ったらしい。父の時代にそのような出来事が発生した事はないので、彼らの反応は致し方ない面もある。
新しい領主は身分だけが取り柄で商売人が嫌い、そして古いやり方に固執する気難しい人物として知れ渡っていた。
流石に直接悪くは言えないのか、クロードが社交の場に出向くとあからさまに談笑が止んでしまう。他にも屋敷に住まわせていた友人が自分より優秀と分かるや否や、苛めて追い出したという噂まであった。それを聞いた時、怒りより諦めの気持ちが勝ってしまった。
今は何をやっても悪く言われるばかりである。結局は成果を出すしかないのだと言い聞かせて、クロードは仕事に注力するという名目で人の輪から遠ざかる道を選んでしまった。
一方、海の向こうへ旅立った友人グレイセルは、新天地でのらりくらりとやっているらしい。既に数年経過している中で、手紙だけが唯一の生存報告というありさまだった。生活は順調で、自分の発明を評価してくれる人がでてきたと明るい話題が書かれている。しかし隣国から帰国してきた者に話を聞いても、グレイセルには会っておらず、噂も聞かなかったという。
隣国の大きな港街には、向こうへ渡った者の多くが滞在する一画がある。こちらの言語も通じる治安の良い場所で、まだ二人で向かう計画を立てていた段階では、安全を優先してそこで過ごす案が上がっていた。
クロードはそのあたりを手紙で問いただしてみた。しかし返信には家賃の関係上、安いところを借りているとしか書かれていない。
「……手紙には都合の良い話しか書かないつもりだな、グレイセルめ」
本当に大丈夫なのかと、クロードがどれだけ気を遣ったとしても、手紙のやり取りだけでは伝わりにくい。身を案じているつもりの文面で、行き違ってしまう事態は大いが目に浮かぶようだった。ここでまた諍いに発展すると、便りすら送って寄越さなくなる可能性も高い。
本人なりに楽しくやっていると信じる事にしたが、心配する以外にできる事はない。
「なるほど、クロードも大変だったようだね。私がもう少し動く事ができていれば」
「いえ。父さんには、療養に専念してもらわなければなりませんでしたから」
ここ数年で唯一良かったと手放しで口にできるのは、父が随分と回復したという事実だけだった。息子の動きを耳に入れた者がいたようで、事情を聞かれるままに説明した。父は息子の一連の行動に納得してくれたけれど、次はもう少し上手く動く以上の事は言えなかった。
それ以降も、会う人すべてに距離を置かれているような気がしてならない。流石に領主は招待しておかなければ、という態で届く誘いに最低限応じる日々が続いた。
そうしてしばらく経った頃、集まりに顔を出してもすぐに帰ってしまう若い領主として遠巻きにされている中、にこやかに声を掛けて来る者があった。
「お久しゅうございます、子爵殿」
「……メイベル殿」
形式に則ったやり取りの後、アスティン殿はお元気ですか、と尋ねられる。腕の良い庭師は引退し、街で夫婦二人ゆっくりと暮らす分には困っていないようです、と近況を口にした。
「それはよかった。貴殿とはあれ以来、なかなかゆっくりと話をする機会がなかったものですから。お父君の容態はいかがでしょう?」
数年ぶりに直接言葉を交わす男爵は饒舌である。やり手だという評判以外にも、子爵邸に努める庭師一家のため、わざわざ心を砕いてくれたあの日の事は覚えていた。
「……ちょうど私の娘もそろそろ年頃で、良いお話がないかと。シャロン、ご挨拶を」
そして美しく聡明だと評判の令嬢が、社交界へ仲間入りを控えている。明るい性格で交友関係も広く、あちこちから求婚の申し出が相次いでいるという。今はやや緊張している様子だが、品の良さと人目を惹きつける華やかな美貌は噂通りだった。将来は早くも、一帯における女性達のまとめ役として目されている。
数年前、目の前の相手と早朝の教会で他愛のないやり取りをした記憶が、脳裏に甦った。冷たい空気と、冬らしい空模様。こちらの申し出に逡巡し、そして不思議な青い薔薇の花に目を瞠る横顔を、クロードは覚えていた。
メイベル側の思惑を察するのは難しくない。商売で成功した次は足元を固めるため、貴族階級との親交を深めておきたいのだろう。
商人から領主となってからも、メイベル家は上手く領地を運営していると評判だった。もし味方になってくれるのであれば、どれほど心強いだろうというとも思う。気難しい領主として固まってしまった自分の立ち位置を改善してくれる味方が、今はどうしても必要だった。
しかしこの場でぜひ、と即答するのはあまりに短絡的な気がしてしまう。せめて前向きな姿勢が伝わる言葉の選び方で応じようとした時、クロードははたと言葉に詰まった。
「子爵殿?」
「……」
話が出来過ぎているのではないか、というここ数年ですっかり根付いてしまった警戒心が首をもたげた。所謂キツツキ作戦というやつで、今までの者は単なる囮、メイベル男爵こそがスペンス商会と手を結んだ本命なのではないかという疑いにクロードは青ざめた。
「子爵殿、おひさしゅう……」
「評判通りの、大変に美しいご令嬢でいらっしゃる」
彼女の方が何か言い掛けたのを、無理やり遮るような形になってしまった。シャロン嬢の少し傷ついたような眼差しが、一瞬だけ浮かんだのが見えた。しかし何事もなかったように、静かに父親の後ろに控えている。慌てて謝罪しようとした時には他の者が割り込むように大勢話しかけて来て、話は中断されてしまった。
男爵親子とはその後も度々顔を合わせたけれど、クロードは話を引き延ばすしかなかった。クロードが意地を張り続けた結果が全て水泡に帰すのだけは避けなければならない。メイベル男爵がスペンス商会とは無関係だという証拠が集まるまで、動く事ができなかった。
クロードは人の好意を信じる余裕がない申し訳なさともどかしさを、これ以上なく味わう羽目になった。子供の頃に諍いをした友人の気持ちが、ようやく理解できたのだった。
「……私は本当に至らない」
そもそも自分がしっかりとしていれば、相手の思惑にすぐに取り込まれるような事態にはならないはずだ。返事を曖昧にしてしまった間に、シャロン本人はもちろんメイベル側からの心証が悪化して、話が流れてしまっていてもおかしくない。
クロードが頭を抱えていたところに、執務室が外から合図された。珍しく、子爵邸を訪れる者があったらしい。
「子爵殿、お久しぶりですね! 今、帰国したところなのですが……」
メイベル男爵家、令息のグラントは現在隣国で遊学しているはずだ。海の向こうにいるはずの青年が突然屋敷に現れたので流石に驚いてしまう。記憶より日焼けしているのは、あちらで過ごした人間によくある現象だった。
「不躾な訪問をお許しください。しかし何より、大切な商談のため急遽帰国したのです」
わざわざ戻ったのかと尋ねると、相手は力強く頷く。そして数年前にアスティンを派遣した事によって弟が快復したのだと感謝の意を示した。
奥へ通すと三等客室が大変だったという旅の思い出を、大袈裟に明るく披露し始めた。その話と共に手渡されたのは、海の向こうにいるグレイセルからの紹介状だった。手紙も預かっていますよ、とクロード宛の私信まで手にしている。失礼、とグラントにお茶とお菓子を出している間に急いで封筒を開けた。
「グレイセル殿もお元気そうで、子爵殿の様子を気にかけていました。結婚したばかり者特有の空気が漂っていまして、いやあとにかく幸せそうでしたよ」
「……それはそれは」
グラントが話を続ける横で、クロードは思わず目を見開いた。
ここ最近の手紙でのやり取りは、調子の良い文面が中心ではない。グレイセルは悩んでいるという前置きの後、長く関係の続く恋人の元に留まるべきか、一緒に帰国して子爵領で暮らすべきなのか決断しきれないと書いて寄越して来た。絶対に別れ話だけは嫌らしく、結論が出ないまま延々と綴られていた。
ところがグラントの預かって来た私信によると、大きく状況が変わったらしい。結婚を決めた、恋人改め妻も新婚旅行先としてそちらへ行く時に紹介する、と打って変わって明るく綴られている。グレイセルは自分なりの結論を出したようだった。
「……というわけですから子爵殿、このおめでたい話に我々も便乗し、よりよい両家の関係を目指しましょう!」
友人の幸せな話題の感慨にふける間もなく、グラントが矢継ぎ早に話を進めていく。グレイセルは商売に成功して随分と利益を上げていて、近々こちらにも進出する計画らしい。子爵家とメイベル家に協力を仰ぐ話を、既に交渉し取り付けたのだという。
「子爵殿、僕も今から実家に帰るところですから、ぜひご一緒に」
「いやしかし、手土産の用意もしていません。先触れも出していませんから」
クロードはすっかり気合の入っているグラントを宥めなければならなかった。メイベル家からの縁談を、話もせず無意味に疑って逃げ回った事を謝罪するのが先である。そうしてようやく交渉の席につくのが筋というものだが、客人は強引だった。
「私の父が縁談を持ち込んだそうですね。私の妹は頼りになりますよ。気立ては良い、几帳面で友人が多くて、将来きっと力になるでしょう」
グラントは兄として、ひとしきり妹君の自慢話を披露した。よほど妹を可愛がっているようだ。クロードがとりあえずこの件に関して貴殿以外と取引しない旨を一筆したためたにも拘わらず、まだ不安があるらしい。
結局、訪問客に半ば引き摺られるようにして、クロードは気まずい思いを抱えたままで、メイベル邸を強引に訪問する事になってしまったのだった。