⑫クロード、断念する
さて、子爵邸で長く過ごす事になったグレイセルだが、いつまでも居候の身に甘んじていたわけではない。住み込みの家庭教師で割のいい仕事が見つかったと言い、街へ出て暮らすようになった。
「ほら、そろそろ僕達二人で旅に出る許可が下りそうな年齢になりそうじゃないか。旅費は自分で貯めて出したいからさ」
子爵邸に身を置いていたとなれば必要な知識や振る舞いは充分に、そして信頼に足る人物に違いないというお墨付きをもらっているそうだ。また、他の教師が匙を投げた問題児が何人かいるらしい。そのような子供の相手を積極的に引き受けると、給金を弾んでもらえるのだと嬉しそうに説明してくれた。
グレイセルはそれなりの頻度で屋敷へ戻って、両親やクロードに近況や仕事ぶりについて話してくれた。成長しても相変わらず、人と話すのが好きなようだった。
「クロードと一緒に行くなら、船はもちろん一等客室でないと。子爵家の令息が雑魚寝の三等室は実によろしくない」
二人で庭を散策しながら、グレイセルは冗談めかして言う。クロードは何等室でも構わなかったが、それを口に出すとまたわかっていないと言われそうな気がした。とりあえず楽しみだ、という返答に留めておく。
「その魔法だったか発明だったか、良い影響を受けられるといいな」
「そうだね。家庭教師も結構楽しいけれど、いつかは美しい作品を創り出して生活していけたらいいよね」
彼にしては珍しく、堅実とは言い難いふわふわした想像の生活を楽しそうに語った。次期領主としての今後が定まっているクロードには絶対にできない生き方だが、想像力を駆使して思いを馳せるのは楽しい。
次に会う時は一緒に港へ行き、そろそろ向こうへ渡る手続きを進めようという打ち合わせをする。またね、とグレイセルは手を振って街へ戻って行った。
それから数日後、クロードは外出先から屋敷へ戻った。するとそこへ、医者の先生が慌ただしくやって来たところである。グレイセルがまだ屋敷にいた頃、よく診てくれていた人だった。彼は成長して病気が良くなったので、顔を合わせるのは久しぶりである。
クロードがお久しぶりです、と声を掛けた時、使用人が走ってやって来た。旦那様が、と青い顔をしている。
「階段を踏み外して……」
父は寝台から起き上がれないまま看病を受けていた。腰を打った、と母が囁く。当の本人は頭だけは打たなかった、とクロードに向かってしきりに強調した。しかし診察を進める医者の先生は、依然として難しい表情のままであった。とりあえず数日は安静にして、と患者を宥めている。クロードは意を決し口を開いた。
「私が代わりを務めますよ、父さん。なんでしたら家を継ぐ時期を早めます。その方が領民からの心証も得られるでしょう。私がまだ経験不足な若輩である以上、家と領地を守っていくのだという気概と姿勢を積極的に示さなければ」
形式上、クロードが領主という態をとって父には療養に専念してもらう。しばらくの間は相談と報告をこまめに行いながら業務を進めるのが、最も自然な形に思えた。形だけでも息子が当主という形式を整えておけば、混乱は少ないはずだ。
しかし急な展開のためか、父は迷っているらしい。急な怪我で、精神的にも参っているに違いない。とりあえず今日はもう遅いから、と母に任せてクロードは私室へ戻ったけれど、あまり眠れなかった。色々な事が頭を過って、不安が尽きる事はない。自分は一人息子で、仕事を継ぐ心構えができていたつもりだった。それでも急に心細く、足元が不安定になったような気さえする。
制度上は問題ないが、自分より若い年齢で家を継いだ者は聞いた事がない。不安は尽きないが、やるしかないのだ。
「クロード、非常に申し訳ないが任せる」
翌朝様子を見に行くと、父が自ら口にした。どうやら昨晩のうちに、母が上手に言いくるめたようだ。息子の決意を汲んでやって欲しい、と説得した様子である。腰痛には温泉が効くというので、近いうちに保養所内に所有している別邸に移ってもらう方針を決めた。
王都で行う手続は家令が詳しいそうで、父に代わって同行してくれるらしい。あちらに領地を有する親類にも便りを出し、子爵領内にも正式に告示する事になった。話を進めながら、父がふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、クロード。たしか、グレイセル君と近々、隣国へ行くと計画していたね。餞別を用意しているから、今度彼も連れて来て一緒に……」
「私は今回、出立を見送る事にします。グレイセルがどうするかはまだわかりませんが、私の事は気にしないように伝えるつもりです」
「しかし……」
父はしばらく目を伏せ、ますます申し訳なさそうな表情を浮かべている。しかしこの状況では、一人息子が遊学にうつつを抜かしている場合ではないと見る者が大半に違いない。
本当はクロードも行きたい気持ちが強かった。グレイセルと二人で、年単位で計画を進めていたのだ。隣国をゆっくりと見て回る機会は、それこそ大人になって本格的に家を継いだ後では難しい。
海を渡って、隣国の先進的な芸術文化に触れる事は、裕福な階級の青少年に盛んに推奨されていた。クロードも港を出て行く船に、自分と親友とで乗り込む瞬間を何度夢見ただろう。短くても数か月、長ければ半年程度はあちらに滞在する計画だった。
グレイセルの方は仕事の調整も進めていたので、クロードに付き合って今更取りやめるより、一人でも向かう方が彼の今後のためになるはずだ。
「父さん、母さん。多少誇張してでも、グレイセルに上手く説明しておいてください。こちらは何一つ問題なく、これは息子の仕事であると。せっかく旅費や仕事の都合までつけていたのに、私に付き合ってまで取りやめる必要はないですよ」
グレイセルはクロードに義理立てして行かないと言い出すかもしれない。できるだけ早く戻って、手助けしようとしてくるはずだ。慣れない仕事の話を気兼ねなく話せる相手がいるだけでも、精神的な負担は軽くなる。
しかし今、行かずに残って欲しいとクロードが言い出すのは違うような気がする。今となっては心を許せる数少ない親友である。子爵家に何かあった時に便利に使うために、ここへ置いていたわけではない。
何より友人は美しいものを、クロードに惜しみなく見せてくれた。あの不思議な魔法のような何かが形になるのではないかと密かに楽しみにしていた。
「私が言ったとなると、また気を遣うでしょうから。未練が残らないように説得してください」
くれぐれも、と両親に頼み、クロードはそれから忙しい日々が続いた。領地を離れて王都で手続きやあいさつ回りをしている間に、グレイセルからは手紙が届いた。
隣国へしばらく滞在する事に決めた、という内容だった。父を見舞い、それから顔を合わせないまま一人で旅立つ不義理が詫びてある。本当は一緒に行くのが楽しみで、療養していた頃の支えだったと、こちらに気を遣った内容だった。
クロードは無理やり都合をつけて、なんとか彼の見送りに間に合った。相手は突然現れたためか面食らっている。文句を言ってやりたかったが、出航の時間が迫っていた。二言三言やり取りをしただけだったけれど、きちんと送り出せた事で気持ちの整理がついた。
行ってらっしゃい、さようなら、元気でいて。
行ってきます、また会おう、どうか無事で。
船に乗り込んだ友人とは対照的に、クロードは港に残って船を見送る人々の輪に加わった。周囲では別れを惜しむ声と、誰かの名前が絶え間なく呼ばれ続けている。船が岸を離れていくのを、最後の一人になるまでじっと見送る。そうしてようやく、クロードは踵を返した。