⑩クロード、諍いをする
グレイセルが子爵邸で暮らすようになって、半年ほどが過ぎた。医者が定期的に通って診察し、適切な治療が提供されている。そのおかげで少しずつ、起きて過ごせる日が目に見えて多くなった。
そうなってくると、彼は話好きな一面があると知った。一緒に暮らすようになって、まるで屋敷全体が明るくなったような気がする。
グレイセルは時間を持て余すようになったため、父が子爵邸に招く様々な分野の先生による講義に、いそいそと同席するようになった。
クロードが領主として将来必要となるの知識の他、楽器や絵の手ほどきをしてくれる先生なども、クロードは両親に頼んで屋敷へ来てもらっていた。グレイセルも芸術の分野には大いに興味があるらしく、しげしげと作品や出来栄えを鑑賞しようとする。その時間だけ恥ずかしかったので追い出したが、後は隣で聞いていてもよろしいというのが暗黙の了解である。
やがて屋敷の外に、一緒に出掛けて行くようになった。取引のある商会や街の市場、港の景色。友人は興味深そうに見入っている。また、最近はチェスの同好会の活動が盛んで、大人が近隣の子供達を集めて指導してくれたりもする。自分達の年齢くらいになると、既に社交場の一部としても機能していた。グレイセルにクロードしか話す相手がいないというのも退屈すると思い、ここ数日は特に調子の良い日が続いていたので一緒に行く事になった。
初参加だったので主催している大人達が、実力を測る場を兼ねて一局設けてくれる事になった。クロードも初めは後ろから対局を見守っていたけれど、途中で他の子供に誘われて中座した。
「あのさ、クロード。ちょっといいかな?」
邸宅内は集まった子供達のために広く開放されている。最初に通される広間を出て、廊下を進んだ別の部屋までわざわざ移動した。そこではせっかく数人集まっているのに、誰も遊んでいないという妙な空気が流れている。クロードがここへ来るのを、皆で待っていたらしい。
少し前まで、自分達は分け隔てなく遊びに加わる仲だった。気兼ねなく冗談を言い合っていたのがしかし、最近は生家の事情や力関係が少しずつ表に出始めている。それはクロードもよく理解しているつもりだった。
「クロード、あの彼の事なんだけどさ。君の屋敷に居候している」
「グレイセルが、何?」
居候ではなくて友人、とクロードが訂正する前に子供の一人が口を開いた。
「こちらで療養、というのは建前だろう?」
「……それは?」
あまりいい話ではない、というのは部屋の空気から大方察せられていたので、クロードは端的な返答に努めた。すると目配せがわざとらしく交わされて、潜められた声には明らかな嘲笑が混じった。
「……彼はそれなりの家柄の出身なのに、勘当されて行く場所がないんだってね。子爵邸には、君の使用人として入ったと聞いたのだけれど、父君はどのようなお考えを?」
クロードはあくまで無表情を取り繕った。どのような状況においても、時期領主として振る舞わなければならない。真偽はともかく知らない情報が耳に入った事より、相手の言葉の選び方に潜む悪意が透けて、思わず顔をしかめたくなったけれど我慢した。
「最近は集まりにもよく来ているのを見掛けるから。治療や生活の面倒を見てもらっているような状態で、まるでクロードと友人であるような顔で暮らせるものだと」
彼らはその後も、好き勝手に様々な噂話に興じ始めた。総合するとグレイセルは、ある貴族の跡継ぎ息子だった。ところが何らかの理由で家を追い出され、現在は子爵邸に身を置いている。
しかし普通は勘当などされない。長男であれば尚更である。素行が悪い者が家を追い出される場合があるけれど、それはもう少し上の年齢である。十二、三で追い出されるとしたら相当な悪行をしでかしたのだというのが、彼らの噂話の大部分を占めていた。
裕福な階級の青少年が、見聞を広める面目で海の向こうへ渡るのは推奨されている。しかし中には別に理由が隠れている場合がある。醜聞や素行が悪い者が居づらくなって、ほとぼりが冷めるまで海の向こうで時間が過ぎるのを待つ者もいるというのは、時折耳にする噂だった。
グレイセルも似たようなものだと、周囲の子供達から見られているようだ。
「それで、結局……」
「訂正しておくと、彼の身体が良くないのは本当。ただ、ずっと屋敷に籠りきりでは息が詰まると思って、最近はなるべく連れ出すようにしている。父がそう決めたから、心配する必要はない」
クロードは要点のみを返答した。ここで詳細な説明したとしても正確な事情は上手く伝わらず、妙な尾ひれがついて広まるだけなのは目に見えていた。
「もういい? 最近忙しくて、せっかく作った時間を無駄にしたくないから」
クロードは昔からよく知る友人としてではなく、子爵家の令息として返答した。教えるつもりはない、という明確に一線を引いた返答で意図は察したらしい。後はお互い適当な雑談を流し、白々しい冗談を言い合ってから、クロードはその場を後にした。
「……まったく」
廊下を戻りながらため息をついた。男女問わず、他人の醜聞は驚くべき速さで広まってしまうものだ。彼らの噂話がどこまで事実なのか、クロードは知らない。けれど父には報告しておかなければならないだろう。領主が理由もなくよそ者を厚遇しているように見えるのは、傍から見て面白くないのかもしれない。
身分とはこのようなものだと、クロードも最近ようやく理解し始めた頃だった。これから自分の全てに、必ず立場が付いて回る。真に心の底から本音で話す事はなく、取り巻く人々も利害によって動くのだと、それが当たり前なのだと受け入れなければならない。
「……すごいな、これほど逸材なのに、どうして隠しているのだい?」
クロードが元の広間に戻ってくると、大人たちは楽しそうに興奮した様子でグレイセルを取り巻いている。一方の彼は普段うるさいくらい話好きにも拘らず、今は返答に困っているらしい。
「いや、あの……僕は……」
「もったいない。クロード君に遠慮しているのかい? 私から彼に話してあげようか」
大人に手放しで褒められて狼狽えているというわけでもない。決まりの悪そうな表情のまま、離席する機会を窺っているかのようだった。そこへちょうどクロードが戻って来て、彼は目に見えて表情が強張った。
「先生方、せっかくお招きいただいて恐縮なのですが、今日は他に用事がありまして。早めに帰らせていただきます。……行こう、グレイセル」
何も聞こえていなかったという態で、誰の表情も顧みることなくクロードは友人を連れ出した。馬車まで戻ると御者は驚いていて、けれど即座に用意を整え馬車を出してくれた。
「……グレイセル、君の言動や一挙手一投足が気になって仕方がない者がいるようだ、気を付けた方がいい。治療方針ということで誤魔化しておいたけれど」
彼の境遇に関する繊細な話を、この場で直接問いただす気にはなれなかった。クロードは気を遣って慎重に言葉を選ぶ。グレイセルは顔を上げない。饒舌な彼だが、珍しく押し黙ってうつむいたままである。
「それから、……別に嘘をつく必要があったとは思えないが。たかが遊びの話じゃないか」
このまま何も気が付かなかったふりをしてしまおうか、とクロードは悩んだ。けれどこれからも友人として関係を続くとしたら、いつかは話をしなければならない。
チェスはどう? とクロードは最初に彼に尋ねた事を記憶している。少しだけ、と相手は返答し、自分達は同じくらいの実力だと認識していた。ところが実際は、グレイセルはわざと不正して勝つのではなく、クロードが負けすぎないように調整していたのである。
少し前から薄々気が付いていた。毎回ではないが、対戦中に彼らしからぬ不自然なミスがしばしば見て取れた。それに相手は大人が感心するほど、クロードよりずっとたくさんの事を知っている。それが妙だと思い始めたのは最近なので、クロードは日々様々な事を見逃して生きている人間に違いない。それでも、どう切り出せば言い合いにならずに済むのかずっと考えていた。
「……」
グレイセルは黙ったままだった。彼は今まで器用で如才ない姿を大人の前では見せていたので、取り繕う余裕がないのは意外な反応だった。
「別に僕は、君の方がずっと強いからと言って不貞腐れたり、父上に屋敷から追い出すように進言したりするような意地悪な人間ではないつもりだ」
「……」
だから気を遣わなくていい、とクロードは何気なく続けるつもりだった。
「……ま、まあまあ。お坊ちゃん落ち着いて。どちらかが勝ちばかりではつまらないでしょう? 上手く立ち回る、誰でも使う処世術みたいなもので……」
おろおろと両方の顔色を窺いながら口を挟んだ使用人を、クロードは無言で下がらせた。先ほど屋敷で顔を合わせた他の子供達の態度や噂話まで思い出してしまった。
頭の良いグレイセルはクロードの顔色を常に窺い、屋敷の中で窮屈に暮らしていたに過ぎなかった。クロードなりに相手に気を遣い、体調を心配していたつもりだった。信頼のおける友人だと認識していたのはこちらだけ、という極めて単純な真実である。
「……どうせ屋敷に着いたら父さんが口を挟むだろう。今のうちに言いたい事は口にしておいた方がいいんじゃないのか、グレイセル。どうなんだ」
「クロードは結構感情的になるところがさ、あるよね。これは別に君をけなしているわけじゃないよ」
グレイセルは誤魔化して躱すと思いきや、そうしなかった。やっと顔を上げて口を開いた相手の眼差しには複雑な感情が渦巻いている。怒りや屈辱、かと思えば泣きそうな気配もあった。
「……クロードに、僕の気持ちは絶対にわかるものか」
違う意見が出ると大抵、彼は父の書斎にあるような難しい本を開いて見せた。穏やかにその場を収めるのが彼のやり方だが、今は完全に逆上している。クロードもグレイセルには言ってやりたい事が山ほどあったが、にらみ合いは長続きしなかった。
彼は口元を押さえて、座席に座り込んだ。激しくせき込んで、苦しそうに呼吸する声が耳に届く。慣れない外出と無駄に追い詰めたせいで、グレイセルは久しぶりに発作を起こしてしまったらしい。
クロードは座席の下から温かいひざ掛けを引っ張り出した。そして万が一のために持ってきていた薬で、一通り聞いている応急処置を使用人と共に行った。
「……グレイセル」
健康上何の問題も抱えていないクロードですらたまに誤って気管へ何かが入ってしまい、ひどく咳き込む事がごくたまにある。風邪を引いて熱を出せば身体は辛く苦しいのに、背中をさすって薬が効くのを待つしかない。
予定よりかなり早く戻った二人に、何かあったのだと心配したらしい。父や他の使用人達が慌てて駆け付け、グレイセルはそのまま抱えて運ばれていった。
「病人をあんなに興奮させて。身体に障りがあるのだと、これでよくわかっただろう?」
執務室でにらみ合っている親子へ、医者を呼びにやったという連絡が家令から来た。屋敷内は落ち着かない空気に包まれている。
「父さん、彼はさる貴族の令息というのは事実ですか。彼のご両親が治療を早々に諦めて屋敷から追い出して、治療費も払ってやらない決定をしたのは?」
今のグレイセルが、後継の責任や負担に耐えられる体調ではないという判断はともかく、治療や支援の打ち切りまではクロードには理解できなかった。
それで、他に治療費と行くあてのない彼はできる限り、この屋敷の人間が気に障るような言動を避け、日々神経をすり減らしていたというわけだ。
「……ああ、彼の両親は治療費の工面はしないと決定し、療養所の先生が困り果てて、我が屋敷へ相談を持ち込んだ。……クロード、くれぐれも彼にこの話は」
父は子供達に隠していた経緯が既に広まっている事に、少なくない衝撃を受けた様子だった。しばらく苦い表情を浮かべたままで、深いため息をつく。
「それでクロード、他には?」
「……私が彼に、わざと意地の悪い言い方をしました」
グレイセルにも、それから目の前の父にも言いたい事はあったが、クロードは白状しなかった。
自分より明らかに優秀な人間が屋敷に住むようになって、父や先生達も彼をよく褒めていた。まだ難しい、と父が息子には薦めなかった本をグレイセルにはあっさりと貸していたのも面白くなかったが、この場では口にしない。
私は悪くないなどという子供じみた言い訳をしたくなかった。そして可能性は低いと思いつつも、自分と諍いを起こしたグレイセルが不利な立場に追い込まれるような発言をしたくはない。
そもそも、時と言葉は選ぶべきだった。それは完全にクロードの落ち度である。大人に間に入ってもらえば、ここまでお互い感情的になる事はなかったはずだ。
一通りの叱責を黙って受け入れて、もう休むように言われるまで口を開かなかった。
「……体調が戻った時に、グレイセル何を言い出すかはわかりませんが、こちらから追い出すような事はなさらないですよね?」
しない、と父が約束してようやくクロードは執務室を後にした。