①子爵、探偵小説を嗜む
全十六話予定
「お母様、私は決めました。必ず、あの人を幸せにして見せます」
「あら、素晴らしい心掛けですこと」
向かい側の席に座る末娘の声には、静かな決意が秘められている。シャロンには発言に至る経緯がわからなかったものの、とりあえず励まし労わるような返事に聞こえるように努めておいた。
良く晴れた午後の穏やかな時間帯、街から少し離れた場所に立つ子爵邸。食堂には真新しいカップが並べられている。離れて暮らす孫達がわざわざ贈ってくれたものだ。使い心地を試してみるため、一揃いしっかりと用意していたところである。
さて、普段はおっとりとした末娘だが、のどかなお茶の席にそぐわない妙に勇ましい宣誓だ。
末娘ルイーズは、この春に結婚している。今はやや硬い表情を浮かべ、目を閉じて心を落ち着けているらしい。それ以上は何も口にしないまま、じっと考え込んでいる。何かしらの問題は発生した様子だけれど、こちらに相談や仲裁を求める段階ではないらしい。
「……淹れ直しましょうか? ルイーズの好きな香りのものを用意してくれてあるけれど」
「いえ、すぐに戻ります。一段落したら一緒に連れてきますから、またその時に」
それではごちそうさまでした、とルイーズはいくらもしないうちに席を立って退室した。階段を上がって自室へ戻る足音が微かに耳に届く。
末娘は結婚してから、以前よりずっとしっかりした振る舞いをするようになった気がしている。自分の子供はいくつになって可愛いものだと、感慨と頼もしさにシャロンは改めて目を細めた。そのタイミングで、隣に座っていた夫がわざとらしく咳ばらいする。
「あなた、可愛い娘があれほど張り切っているのですから。父親として助言の一つや二つ差し上げたらいかが?」
「……それは、双方時間をかけて慣れてもらうしかないのでは。意見の相違があったとして、擦り合わせるのにも回数を重ねなければ難しいだろう」
シャロンの夫、クロードは夫婦となって日が浅い二人に対する、極めて無難な意見を述べた。彼は子爵として領地一帯を長く治める立場にある。色味の薄い金髪碧眼は、冷たい印象を周囲に与える事が多い。 階上を気にしているそぶりはあるものの、結局は黙ってお茶を味わっている。
娘がこっそり教えてくれたところによると、義理の息子曰く、クロードは数学の先生のようだと言っていたらしい。新鮮かつ率直な感想を聞いて、シャロンはそれでしばらく笑ってしまった。もちろん、夫には内緒である。
その数学教師のような容貌を持つクロードは決して、娘達に無関心というわけではない。あくまで夫婦二人で話し合って解決するべきだと考えているらしい。シャロンも、その意見に大いに賛成していた。
娘が結婚して屋敷には四人で暮らす事になったが、外から入って来た人間にはこの上なくやりにくい環境に違いない。下手に介入して三対一、となるよりはできる限り娘と協力し合うような関係を目指してもらいたいところだ。
義理とはいえ、息子という存在はシャロンの生活にも大きな影響を与えた。上の娘二人が嫁いだ後の夫と末娘との静かな暮らしが一転、屋敷の中が明るく活気づいたような気がする。
そして結婚した娘だけでなくクロードもまた、後継と直接やり取りできる環境がようやく整ったので、随分と張り切っていた。
「……あなたは思っていたよりも静かだな。もっとルイーズにあれこれと助言するのかと思っていた」
現在、シャロンは静観を決め込んでいる。新しい環境下で一気に三人も相手にするのはさぞかし気疲れするだろうから、しばらく様子見に徹するつもりだった。領主の後継として、そして夫婦としての足固めが終わってから、ゆっくり話してみようとシャロンは思っている。
「ご安心を。必要な事はとっくに教えてありますから。とにかく、若い二人はそっとしておいて、……私の相手はあなたがしてくれないと」
娘には、結婚前によくよく言い聞かせてあった。これまで別の場所で、全く違う人生を歩んできた二人が結婚する。すると様々な面において衝突は避けられないので、折り合いをつけていかなければならない。もちろん、相手を尊重するのは当たり前だ。しかしそれと同じくらい、自分の中の確固たる理想像を捻じ曲げて一貫性を欠くのはよろしくない。
難しいけれど、きっと楽しい日々でもあるはず。シャロンの話を聞いた娘は大真面目に、そして力強く頷いたのだった。
「……左様で」
夫は平静を装ってお茶を飲んでいるが、瞬きの瞬間に目線が泳いだのを見逃さなかった。シャロンはその様子をじっくりと楽しんでおく。クロードは娘の結婚相手を王都まで迎えに行くと言ってしばらく留守にしていた。帰って来て諸々の手続きや結婚式等に追われてようやく、一息ついたところだった。今後も各所と顔合わせが忙しく続くにしても、大切な事を忘れては困る。適度にこうして二人で向かい合う時間が必要だと理解してもらうのが、結婚生活における秘訣。結婚して何年経とうとも、そこだけは譲れない。
そしてシャロンの中で長く習慣化している、日記に記載する内容を思案するのも忘れてはならない。自分自身の内容や子供達はもちろんとして、長く生活の中心である夫の日々の暮らしを記録する事に、シャロンは並々ならぬ情熱を抱いている。クロードは呆れているが、やめるように言われた事はないので今日まで続いている、日々の生きがいでもあった。
「というわけでどうでしょう、あなた。先日届いた小説の内容などは」
「ああ。二回、目を通してようやく内容が理解できた」
娘の話が一息ついたため、シャロンは適当と思われる話題をクロードへと投げかけた。今から数年前に、隣国からの一団が子爵邸を訪れた事がある。向こうにある学院の教授が代表で、美術史と建築史の専門家であった。領主でもあるクロードが領地内のいくつかの施設を、普段は非公開の場所まで直々に案内したのである。
その中に一人、作家業を営む青年が混じっていた。探偵小説という、市井で人気がある分野を執筆しているらしい。おおむねどの話でも、奇怪な事件を主人公が解き明かす筋書きが共通している。その裏に潜む複雑な人間模様が見どころであるらしい。
その作家の先生曰く、どのような事件が起きるかは色々なアイデアがあるものの、それ以外の、たとえば主人公が訪れ滞在する建物内の描写などに苦戦してしまうらしい。子爵邸の庭園や調度品などを熱心に見学していたと記憶している。
「二回目になると、何となくわかってきた。一周目はこの男に注目しておこう、という者に限って章の終わりに退場している場合が多くてな。後は事件が起きたのにやたらと一人になりたがるとか、謎解き担当に無闇に食ってかかる者も要注意だ」
せめて歌劇のように有名な役者が演じるか、看板に重要な役どころだとわかるようにしておいて欲しい、などと夫は勝手な事を言っている。
ふむふむとクロードの話を傾聴しつつ、シャロンは別の事にも考えを巡らせていた。このように一対一であれば、夫もそれなりにくつろいだ様子を見せてくれる。しかしやはり、屋敷の新顔とクロードはまだ打ち解けていないのか、表情や態度が堅苦しく見えてしまう。
「……あなた、ようやくここまで漕ぎつけたのはよくわかりますけれど。最初はほどほどにしておいてあげてくださいな。最近の子爵殿は、まるで教師のようですよ。ここへ来たばかりの方が、気が滅入っては可哀そうですから」
「……気を付けるようにする」
シャロンはとりあえず話題を戻して、ここ数日の所見を述べておいた。生徒の側からは言い出しにくいだろう。このような指摘は当主の妻以外にはなかなかできる事ではない。
「どうでしょう、小粋な冗句を飛ばしてみるなど」
「……つまらない冗談ばかりだとあちらが反応に困るのでは」
「大丈夫です、私が良い感じの雰囲気にしますから」
冗談はともかく、と夫をそれとなく諭しつつシャロンもお茶に口をつけた。後でもう二人分、お茶の追加を使用人にお願いしておく。その頃には娘達も問題解決、とはいかなくても多少は進展に向かっていますように、と内心で応援しておいた。
シャロン、と夫が口を開いたので、そちらに注目する。
「……領地と家の後継を迎えるのに、予定よりも時間がかかってしまったのは悪かった。これでようやく、一息つく事ができる。随分先延ばしにしてしまったが、遠くないうちに隣国へ渡る段取りもつけるから、そのつもりで」
「まあ、素敵ですこと。海の向こうにいるマリラさん達に、また渡航中止と連絡するのは心が痛いので、もうこりごりですからね。どうかよろしくお願いしますよ」
くれぐれも、と笑みを浮かべながら、シャロンは夫に念押ししておく。海を挟んだ隣国は、情熱と優れた芸術文化を有する大国である。若い頃からずっと行きたくて、向こうに住んでいる友人夫妻を訪ねる計画を何度も立てていた。ところが巡り合わせが悪いのか、お互いの諸事情により毎回延期になってしまう。
出航を断念するほどの悪天候だったり、こちらで領地内の問題が持ち上がったり、友人側が所属する商会の都合などでやむなく延期である。仕方がないとはいえ、旅行が中止になるのは気分が沈む。今度こそ、とシャロンは張り切っていた。
「それで、あなたが見つけて気に入って、連れて来たヒューイさんですけれど」
とりとめとなく話題が移っていく中でそういえば、とシャロンは再び無言で香りを味わっている夫へ声を掛けた。
娘が戻っていた階上は静かだった。言い争う気配も、しばらくこちらに降りて来る様子もない。二人がきっと真摯に、手を取り合って課題解決に向け進んでいる証左であると願っておく。
名前を挙げた相手はこの辺りの出身ではない。貴族階級でもなく、軍に所属していたらしい。苦学生のために北の国境線で数年、任務に励む代わりに奨学金が免除されたそうだ。今の彼は、おそらくこれまでとは違う分野の仕事に取り組まなければならないが、学ぶ姿勢には熱意と誠実さを感じている。夫がどこでそのような人材を見つけたのか定かではない。けれど時間と共に肩書に相応しい人物として、これからこの土地に溶け込んで暮らしていくはずだ。
「彼がどうかしたか?」
何より、見ている限りでは娘との相性は良いらしい。いきいきと新婚生活を送る二人をそっと見守るのが、今のシャロンの楽しみである。自分や夫の若い頃を思い出す事も増えた。最近は昔の日記を見返して思わず、クロードに話を振る機会も多い。
「あなたが最良である、と判じて連れて来たわりには、……あなたにあまり似ていませんね」
「……何が言いたい?」
「なんと申しますか、……あなたの若い頃と全然違いますね」
この場に夫しかいないので、シャロンは率直な感想を述べた。シャロンはもっと気難しそうな青年、つまり若かりし頃のクロードに似た人物が、この屋敷へ来るものだとばかり思っていた。
たしかに、ヒューイも周囲が好感を持ちやすい人物像を心がけているに違いない。それを差し引いても、意外な選出だと常々思っていたところであった。
それはともかくとして、若く出身も育ちも違う人間が輪に加わると、一挙一動を新鮮に感じる。自分以外の家族が大層気に入っているとなれば尚更である。
ね、そうでしょうと見慣れた相手に話をふると、クロードは何故か衝撃を受けたような様子だった。それを無理やり取り繕うようにして、小難しい表情を浮かべている。
「いや、私は決して……」
クロードは過去の言動を思い返しているのか、眉間に皺を寄せている。シャロンの方はカップの中身に集中しているふりをして、素知らぬ顔でその表情の移り変わりを観察しておく。
とりあえず今日の日記に書くことが決まった、と内心で大喜びしておいた。字数が増えると達成感に繋がって、シャロンは機嫌よく過ごす事ができるのだから。