8話 ヒメの正体
――俺は眠っていたのか?
ふと我に返ると、ニョロは画廊の床に倒れていた。
突然の昏倒になんらかの身体の異常を懸念するが、寝起きの気怠さ以外はまるで変わりない。
ニョロは上体を起こして窓を覗くが、まだ日は高い。ごく短時間の昏倒だったようだ。
(ニョロちゃん、今の見た!?)
ヒメの上ずった声が寝ぼけた頭に響く。
「ああ。見た。どうやらこの絵を描いた時の記憶だったようだが、同じものか?」
(うん! ニョロちゃんも見てたんだね!すごかったね!)
アイリス・エンシャンティア、と書かれた女の肖像画を目にした途端、脳内にあふれ出した情景。
内容はアイリスの視点で、アイリスの肖像を描く中年執事ボックスと会話する、というもの。
ヒメは見た、と言っているが、見たというよりは追体験した、というほうが正しい表現だ。
というのも、ニョロがその記憶から感じたものは光景や音だけでなく、感情や想起した記憶、記憶の主がその時に触れた全てだったのだ。
その異常なまでの鮮明さは、まるでつい先ほど自分が本当に経験したかのような心地さえ思わせるほどで、魔物のニョロでさえも記憶を見ている間は紛れもなく人間の姫だった。
実のところ、ニョロにとって記憶の内容は興味の外だ。
しかしこの身体で記憶を見た、という事実こそ、ニョロの求めていたものだ。
――ヒメの正体は、かつてこの国の姫だったアイリス・エンシャンティアである。
これが、ニョロの出した結論であった。
ヒメは死ぬ間際も、そしてこの城に来る前も、「私はお姫様だ」と言っていたこと。
ヒメの中にあった、城で暮らしていた記憶。
そしてヒメの身体が追体験したかつての姫の記憶。
これらの事実から見て、ヒメはアイリス、というのは疑いようもない。
つまり、初めから期待されていた通り、この城こそがヒメの家なのだ。
そして、今ニョロは姫との約束通り、共にヒメの家を探し当て、連れてきた。
ヒメの願いを叶えたのだ。
あとは新たな身体を見繕ったうえで寄生解除をするだけ。
ニョロは呪縛からの解放を確信する。
「これからはアイリス、と呼んだ方がいいか?」
ニョロは尻尾を景気よく振りながら、ヒメに確信めいた物言いをするが、
(うーん。ヒメでいいかな……)
以外にもヒメの反応は素っ気ない。その上、心なしかいつもの陽気で短慮な様子が聞き受けられない。
あれほど騒がしくひめひめと言っていたのに、と訝しむニョロ。
「お前もアイリスの記憶を見たのだろう? ならばお前はもうヒメではない。自分でも分かっているはずだが」
(なんだかあんまりピンとこなくって。たぶんそうなのかな~?とは思うんだけどね? でも……)
「でも?」
ニョロの急かすような問いに、ヒメは沈黙する。
ニョロは理解することが出来なかった。
「あれほどに家に帰りたいと泣き叫び、自分は姫なのだ、城に住んでいたのだと意気揚々と話していたお前が、なぜここへきて、なぜ自分の正体と帰る場所を見つけたというのにも関わらず、そのような態度をとる? 」
口調も表情も至って冷静。普段と同じように無表情で無感情な態度を貫く。
しかし、鼻先に捉えているはずの目的地が急に霞を帯びたような心地がして、ニョロの心中は穏やかではない。
「答えてくれ、ヒメ。お前はアイリスだ。そうだろう?」
(うん……。たぶん、私はアイリスなんだと思う)
「ならばどうしてだ? その煮え切らない理由を言ってくれ」
ヒメはあの、その、としばらく言い淀んだ後、
「……怒らないで、聞いてくれる?」
と、何かに怯えたように呟く。
まるで次の言葉がニョロにとって不都合なことです、と言っているようなものだが、脳に爆弾を抱えるニョロにとって選択肢はない。
「俺はお前に怒ることは決して無い」
そう答えると、ニョロは少しずつ言葉を紡ぎ始める。
まるで初めに約束したように。
(あのね……? 私ね? まだ、分からないの。自分がアイリスちゃんなのかな、っておもったけど、なんでアイリスちゃんは金髪なのに、とか、アイリスちゃんはもっとおっきかったのに、とか、思っちゃって。ぜんぜん自分のことをアイリスちゃんです!って思えなくて)
ヒメが疑問に思っていることは、なぜアイリスが今のヒメになったのか?ということだろう。
ヒメは赤髪赤目の小柄な幼女だが、一方のアイリスは金髪碧眼の女性。
肖像画に描かれたアイリスと、ヒメの容姿が何一つ一致していないのは、ニョロも気がかりではあった。
それを考え始めると、ヒメとアイリスの間には謎が多すぎる。
髪や目、身体の大きさ、性格――何から何まで異なる二人を繋ぐのは、姫だったという共通の記憶だけ。
そもそもどうして記憶を失ったのか? なぜヒメは人里離れた森にいたのか?
森で出会った時の謎は未だ分からないままな上、正体と帰る場所が分かった今の方がずっと分からないことが増えた。
よくよく考えてみると、ヒメは身体を乗っ取られている状態で、家に帰って何をしたかったのだろうか?
ニョロは「家に帰りたい」という言葉をそのまま解釈したが、人格だけの少女が出来ることなど精々家の様子見るくらいで、それだけを望むとは思えない。
知能も高くない少女の言いたいことをもっとかみ砕いて理解するべきだったのだ。
だが、ニョロは今にして、ようやく辿り着くことができた。
――ヒメが本当にしたかったことは「記憶を取り戻すこと」なのではないだろうか?
現に、「家に帰る」という目的を達成したというのにも関わらず、ヒメと約束した際に感じた「身体を拘束する錠のイメージ」が今も拭えないままなのだ。
これが意味することはつまり、ヒメとの約束は未だ果たされていない、ということである。
記憶を取り戻すことこそが、ニョロの拘束を解く鍵なのだ。
「はぁ」
旅の終点にいたはずが、急に遠くに変更されたような気がして、ニョロは大きなため息をつく。
しかし、改めて言うがニョロに約束を反故にする選択肢は無い。
「つまり、『全ての記憶を取り戻す』まで付き合ってほしい。そういうことだな?」
相変わらずの無感情な言葉。しかし、そこに内なる呆れが微かに漏れる。
仕方がない、やむを得ない。
そう自分に言い訳して取り繕った言葉に対し、ヒメの返答は、
(うんっ!!!)
いつもと同じ、陽気で快活な少女の声だ。
――どうやらこの旅はまだ続くらしい。
ニョロはパタパタと床を尻尾で叩く。
それはヒメに対する応答であり、自分に対する発破でもある。
立ち上がる前にもう一度息を大きく吐くと、
「まずはここから逃げなければな」
少し気怠い身体を持ち上げ、ちょうど割りやすい位置にあるガラスに相対する。
(あー!またガラス割るんでしょー! ダメだからね!ぜ~ったいダメ!)
「緊急事態だ。割らねばならない時はある」
そうして尻尾を振りかぶり、硬質化させようと魔力を込めたその時。
『ねえ』
突如、背後から女の声が聞こえ、咄嗟に身体を翻す。
が、部屋には何もいない。
『貴方、さっきから誰と話しているのかしら?』
この声は間違いなく聞こえている。
ヒメのように脳内に直接響くものではなく、部屋の中のどこかを発信源とした、実在する音だ。
『お前はアイリスだ~とか、絵を描いた時の記憶を見た~とか』
『まるでアイリス様、かもしれない人と話しているみたい』
「お前は誰だ?」
ニョロは誰もいないはずの室内に視線を配りながら、尻尾を構えて問いかける。
女の声はやけに確信めいた口調をしており、内容から考えてニョロが目を覚ました時には既に室内にいたらしい。
すると、扉の前の空間が突然歪むように見えたかと思うと、透明な人型が歩み寄ってきた。
『私の名は、レイラ』
人型は徐々に色を帯びていき、ものの数秒で全裸の女が顕現する。
その女はウェーブ掛かった金髪を柔らかく靡かせ、まだあどけなさを残した顔を得意げにし、理知的な碧眼でニョロを見据えて歩み寄る。
全裸の女は充分に近づいて膝を折り、ニョロに目線を合わせると、
「レイラ・エンシャンティア。面白いことと謎が大好きな――この国のお姫様よ」
悪戯な笑みを浮かべて名乗った。