7話 追憶①
「退屈だわ」
絵の具の匂いが鼻をつく室内。
祭事用のドレスが窮屈な上、椅子に座って膝に手を添えたまま、身じろぎ一つ許してもらえない。
私に「淑やかでありながら威厳を感じさせる」らしいポーズを強制する初老の男に、わざと聞こえるように呟いた。
「そう仰いますな。まだ描き始めたばかりですので、しばし我慢をお願いしますぞ? アイリス様は聡明ですから、我慢できますな?」
キャンバスの後ろから穏やかな笑顔を覗かせて、まるで子供でもあやすように言う男。
白髪の混じった黒髪に、くっきり刻まれた笑い皺。
大きく削がれた両の耳が視線を誘うが、それが彼の穏やかさを損なうことはない。
人生経験を丸ごと笑顔に還元したような、誰もが好意的な印象を受けるであろう風体。
エンシャンティア王家に仕える執事長――ボックスである。
「あとどれぐらいかかりそう? 私紅茶が飲みたいわ」
「二時間後には爺がとびきりの茶葉でお淹れいたしますので、お楽しみにお待ちくだされい。甘い茶菓子も用意してございますぞ?」
想定を超える長時間につい声をあげてしまいそうになったが、「はしたないですぞ」なんて小言を言われるのが目に見えている。
「……そのころにはきっと干からびているだろうから、お水が先ね」
澄ました顔を作ってそう言うと、「その時はとびきり澄んだ水をご用意いたします」とキャンバスの裏から声が聞こえてきた。
どうやら私を待たせまいと、肖像画に集中するようだ。
ボックス曰く、私の肖像画を描くのは王家の歴史を残す為らしい。
王家の女系に連綿と受け継がれてきた「姫」は「結界の祝福者」であり次期国王であり、まさに王国の歴史そのもの。
その「姫」のうら若き姿を肖像画に残すことは国にとって欠かせないことなのだ、と彼は言っていた。
つい先日、先代「姫」である母様からこの右手甲に浮かぶ「祝福紋」を継承し、「結界」の力と「姫」の称号を与えられたばかりの私とて、どうやらとっくに王国史の一部らしい。
しかし、画家に頼むわけでもなく、やけにポーズにこだわったり、子供のように目を輝かせながら筆を走らせる様子から見て、これは長い人生を送る彼の楽しみの一つなのだろう。
「仕方ないわね」
私は絵に没頭する長生き男にため息をついた。
「それにしても、ご立派になられましたなぁ」
しばらく筆の音だけが聞こえていた時、ボックスが感慨深げに呟いた。
「そうだといいのだけれど」
そう言うと、彼は作業ついでに話し始める。
「ついこの前までは爺や爺やと四六時中追い回されたというのに、全く時の流れは早い早い」
「それ十年は前の話でしょ? 私もう十六歳よ?」
「たった十年、たった十年です。十年なんて実質一日ですぞ?」
「違うわよ?」
ボックスは見た目こそ上品な中年男性といったところだが、齢四百を超えたれっきとしたお爺ちゃんである。
長生きの秘訣は笑顔だ、と彼は言うが、実のところは私達「姫」が持つ結界の力と同じ、神に与えられた「祝福紋」の権能によるものだ。
だからこうやって昔の話をついこないだのように話すのも、姫の大事な二時間を絵に費やしてしまうのも、尋常ならざる長命ゆえの性である。
「昨日なんて『爺やのお顔書いた~』って似顔絵まで書いてくれて、ああこんな愛くるしい生き物が他にいるか!?と思いましたぞ」
「十年前のことを昨日って呼ぶのやめなさい」
「否!断じて否!貴方ほど愛らしい生き物はおりませんぞ!ご安心くだされい!」
「話聞きなさいよ」
「ですが可愛らしいのと同じくらいやんちゃでしてなぁ、本当に手を焼かされました」
「まーた始まったわ」
ボックスのいつものパターンに入ってしまった。
こうなると日が暮れるまで昔話をし続けかねないわ。
まあ絵を描き終えるまでなら仕方なく付き合ってあげてもいいのだけれど。
……あっ、筆置きやがった。
「ある日、執務室で仕事をしておりますと、こんこんこん。扉を叩く可愛らしい音が聞こえましてなぁ。ああアイリス様が部屋にいらっしゃったのだ。すぐに私にゃあ分かりました。何かお手伝いが必要なのだろうと部屋に招き入れますと、なんと『三倍甘い菓子を作れ』と仰られたのです! はて?もしやいつもの甘さでは足りなかったのだろうか?と思い理由を尋ねてみたのですが、アイリス様はこう答えました。『紅茶を克服する為よ』と。はて、どうゆうことだろう?詳しく聞きますと、なんでも無糖の紅茶を飲む姿をご友人の前で見せたかったらしく、その為に茶菓子の方を甘くして舌を欺きたいのだとか。こっそり紅茶自体を甘くすればいいのに、なんて野暮を言った私は厨房に監禁されましてね? それはもうとにかく甘い茶菓子を延々と作らされまして。挙句の果てにはお腹いっぱいになったから、と味見までさせられて。あの日は本当に大変でした。あーそうそう!またある日なんて……」
「後で聞いてあげるから早く描きなさい!」
エピソード②はさすがに聞いていられない。
身振り手振り熱弁するボックスを一喝すると、それはそれは口惜しそうに絵を描き始める。
「もう、ほんとにお喋りなんだから」
呆れた私が見守る中、ようやく絵に集中し始めたボックスは、きっちり二時間で絵を描き終えた。
出来上がった私の肖像画を二人で吟味していると、
「本当に大きくなられましたなぁ」
ボックスが感慨深げに呟いた。
「ちょっと、まずはお茶でしょ? もう喉カラカラよ」
またボックスの思い出話が始まってしまう。
そう思った私は部屋を出ようと席を立ったのだが、どうやら思い出話をしたいわけじゃないらしい。
「アイリス様」
いつもの冗談めいた口調ではなく、身体の芯に響くような儀礼的な呼びかけ。
不意をつかれた私が振り返ると、胸に手を当てたボックスが神妙な面持ちでこちらを見据えていた。
「どうしたの? 早く行きましょう?」
ボックスが何を言おうとしているのかはすぐに勘づいた。
勘づいたからこそ、私はすぐにここを出て、お茶と菓子を味わいながら爺やの長話にうんざりしたかったのだ。
でも、それを許さないのが、王家に仕える執事たるボックスの役目だ。
「新たな『勇者』が見つかりました」
ボックスの無機質、いや複雑な感情を無理矢理押し殺したような言葉に、しばし自分に思い巡らす。
私はとても恵まれている、と常々思う。
王家に生まれ、他の者が羨むような生活をしているし、城の皆は私が幸せに過ごせるように色々と気にかけてくれている。
結界の中は平和で、好き勝手にとはいかないが自由はある。
今代の姫として、次期国王としての責任はあるが、それに応えられるよう努力はしてきたし、自負もある。
私はとても恵まれている。それは間違いないのだ。
しかし、「勇者が見つかった」と聞いた時、どうしようもなく不幸だと思った。
この国の「姫」には「結界の祝福者」としての務め以外に、もう一つ重要な務めがある。
それは――勇者と結婚し、子を産むこと。
この国には、旅立つ前の勇者と当代の姫が婚姻し子を成すことで、世界を救う旅の成功を祈願する、という連綿と受け継がれてきた慣わしがあるのだ。
別に結婚が嫌なわけじゃない。
勇者は世界を救う為、魔王を討つべく世界に選ばれた栄光の戦士だ。男の子ならみんな真似して小枝を振るし、女の子なら皆お嫁さんになりたいと思うような憧れの的で、小さい頃の私も同じように勇者のお嫁さんを夢見たものだ。
成人を迎えた今でも、他国に嫁ぐよりはずっといいと思う。
子供を産むのだって、近頃は街の子供を見る度に自分の赤ちゃんについて考えるし、いつか私も、という思いはある。
でも、どうしても嫌なのだ。
なぜなら――世界が必ず勇者を殺すからだ。
勇者が歴史に初めて顔を出したのは一千年以上前のこととされている。それから現在に至るまでに確認された勇者の数は総勢四十九名。
彼らは皆、世界を救えなかった。
世界が生み出した魔王という怪物に、一人残らず殺されたのだ。
エンシャンティア王家が女系なのはこのためだ。
若くして未亡人となった姫は王となり、また次の姫を産む。そうして新たな勇者と子を成して、また未亡人となる。
その繰り返し。
これは、この世界の在り様なのだと、私は思う。
だから変えられないし、変わらない。
私はもうすぐ勇者と結婚し、子供を作る。
そして、旦那を死ぬと分かりきった旅に送り出す。
それが、堪らなく嫌なのだ。
「そう」
私は短く応えた。
感情を押し殺し、拳を震わせる爺やに心配させぬよう。
応えることだけが、私に出来る精一杯だった。
右手甲に浮かぶ人型の紋様を見ては、いつも私はこう考えてしまう。
――嗚呼、これは私に課せられた「呪い」なのだ、と。