59話 グレインという男③
グレインは平凡な男だった。
一方で多くを望む男でもあった。
姫を幸せにしたい。
だから勇者になりたい。
魔物共を蹴散らして、姫を柵から救い出したい。
その身に宿した大炎は、常に無力を知らしめた。
故に虚勢を張り、自分を大きく見せようとした。
野望を叶えられる男になろうと、努力を続けた。
しかし、彼は勇者になれなかった。
非凡な才を持つ友が選ばれた。
いくら大望を胸に秘めようが、日々研鑽を重ねようが、凡夫は凡夫でしかなかった。
グレインは野望へと続く長い長い階段の一段目すら、登ることが出来なかった。
夢が潰えたかに思えた。
だが、非凡な友に勇者を譲られた。
偽の紋様を胸に刻み、酷く歪な形で一段目を登ることとなった。
グレインは偽者の勇者として、アイリスと再会する。
アイリスもまた非凡な才と強き心を持ち、それでいて囚われていた。
――彼女を救わなければならない。
グレインの大炎はより一層に燃え上がる。
自分は平凡、望みは遥か彼方。
それを重々承知した上で、必ず成し遂げるのだと、自分に言い聞かせた。
アイリスを安心させようと、明るく強く、振る舞った。
その結果、アイリスの覚悟を醸成させてしまった。
グレインの無力さが、アイリスに全てを背負わせた。
決して救い出せぬ場所へ、一人向かわせてしまった。
高望みした凡夫の生き様こそが、アイリスを不幸にしたのだ。
だが、またしても夢は紡がれる。
無力な凡夫へ初めて、神の視線が降り注ぐ。
再生の祝福を得て、グレインは凡夫ではなくなった。
アイリスを取り囲む魔物を根絶やしに出来る力を得た。
グレインは魔物に殺されながら、殺し続けた。
その胸にアイリスを救うという大望を抱き続け、一心不乱に剣を振るう。
そして、魔物を狩り尽くした。
偽物の勇者は、これまで本物の勇者達が成しえなかった大業を成し遂げた。
――アイリスという犠牲を伴って。
いくら世界に平和をもたらそうと、いくら権能を与えられようとも、アイリスを救うことが出来なかった。
その事実が、グレインに無力さを突きつけ続ける。
グレインの生涯は、無力感という重い枷をかけられたまま、叶うとも分からぬ望みを目指して登り続ける、永遠と続く階段のようであった。
救えなかった事実に苛まれながら、それでも僅かな希望を胸に抱き、諦めることが出来ない。
グレインは役立たずと自らを侮蔑しながら、平和となった世を生きた。
「アイリスを待て」という友の言葉だけを頼りに、ただ待ち続ける日々を送ってきた。
――やるべきことをなせ。
センドの言葉が、傷一つない身体に秘められし燻りを煽る。
グレインがやるべきことは、ずっと昔から決まっている。
アイリスを幸せにする。
勇者と姫の悲しい歴史を知った幼少の頃に抱き、アイリスの笑顔を見て燃え上がらせた大炎の如き野望。
これまでは叶えることが出来なかった。
それでも、諦めることも出来なかった。
アイリスに決断させてしまった。
アイリスを救えなかった。
アイリスを魔物にさせてしまった。
彼女の苦しみを拭ってあげられなかった。
これまで積み上げてきた失敗は、グレインに無力を知らしめる。
どう足掻こうが叶わないのだと、現実を突きつけてくる。
だが、望みを完全に捨て去ることだけは決して無かった。
夫婦となった夜のことを思い出す。
あの日、グレインはアイリスに約束をした。
『やりたくねえことをしなくてもいいように。やりたいことができるように。お前が泣かなくて済むように。俺がただの女に戻してやる』
平和になった。
アイリスはもう姫じゃない。
今はニョロだ。
でも、ニョロは今、やりたくないことをやっている。
また一人、悲しみを背負っている。
辛い目に遭って、惨い現実を自覚して、きっと泣いている。
だから、今こそ約束を果たす時。
グレインの心に再び、大炎が起こる。
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「グレイン殿、私があの子をここにお連れします」
微笑みを携えたボックスが言った。
そこには確かな自信が見えて、グレインは頷きだけを返す。
両手を掲げたボックスから、規格外の魔力が放たれる。
しかし、そこには負の感情が一切込められていないばかりか、暖かみさえ感じさせるものだった。
「……見つけましたぞ。お嬢さん」
手のひらを柔らかく結び、一層朗らかに表情を緩めた。
かつて幼少のアイリスに向けていた表情と重なる。
アイリスを幸せにした男の笑顔だった。
少しすると、ふわふわと空を浮かぶ桃色の一筋が見えた。
長い身体をしきりに動かして、触れられぬ手のひらから懸命に逃れようとしているのが分かった。
ボックスが手を動かすと、ゆっくりとグレインの元に降りてくる。
「よぉ、ニョロ。どこいくつもりだよ?」
今まで通りを意識して、語りかける。
返事が来ないことは分かっていた。
桃色の触手には目も口も鼻も、何も無い。
寄生した生物の身体機能を拝借することを前提として作られているかのようだ。
「いい子に待ってろっつったろうが?」
触手の先端を優しく撫でる。
何故かそこが頭だと思ったのだ。
触手は身体をぴくぴくと痙攣させ、それが酷く悲し気に見えた。
その時、グレインは長い体躯の中腹に紋様を見つける。
歴代の姫に刻まれた呪いの紋章ではない、円を突き抜ける矢印。
「そういうことかよ……!」
グレインは思わず笑みをこぼす。
しかし、眸は潤いを湛え、上げた口角が震えを帯びる。
グレインの培ったもの。
それは、夢を叶え続けてきた実績である。
幼少の頃、勇者になりたいと夢を持った。
そこには、姫が勇者の子を成すという慣習を壊したいという野望があった。
叶うはずのなかったその夢を、真の勇者に譲られるという歪な形ながら、叶えてみせた。
魔物共を打ち滅ぼしたいと夢を持った。
そうすれば、姫はしがらみから救い出すことが出来ると思ったからだ。
前人未踏のその夢を、再生の祝福を与えられ、三百年という長きに渡る死闘の末、叶えてみせた。
グレインはその身では到底届くはずもない夢に手を伸ばす、愚かな男だ。
しかし、グレインは望み続けることで、まるで見えない力が働いているかのように、それらを手繰り寄せてきた。
無理やり手繰り寄せられた夢は、無数の歪みを生じさせる。
姫や勇者、ボックス。
呪いというしがらみに囚われ、役割を徹することしか許されなかった人々の運命を捻じ曲げるほどに。
「なあニョロ。祝福には役目がある、って言うがよ? 俺とお前の祝福がまだ消えてねえのって、なんでだと思う?」
――お前の望みはなんだ?
アイリスを幸せにする。
――何の為にここまで生きてきた?
アイリスを幸せにする為。
――お前には何が出来る?
アイリスを幸せにしたいと、望むこと。
――何をお前に期待していると思う?
センドの問いに、グレインは行動で応えた。
「きっと――この時の為だ」
触手となったアイリスを力強く抱きしめる。
触手に刻まれた祝福紋に、自身の胸に刻まれた祝福紋を押し付けるように。
お互いの祝福紋が触れ合う。
すると、呼応するように瞬いて、やがて夜を晴らす眩い光となり、抱きあう二人を覆い隠していく。
その時、
(ほらセンドおじいちゃん! 光ったらすぐ走る、ってやくそくしたでしょ!?)
「お前が一方的にそうしたいと言っていただけだ。俺は必要ないと思うが」
(おじいちゃんのヘンタイ!キライ!)
「変態じゃないが。そしてお前の祖父でもない」
脳内の子孫と言い合いながら、城壁の傍から光に向かって歩み寄る金髪の少女。
やかましく怒られて仕方なく歩調を早めつつ、どこからともなく白いワンピースを取り出す。
「これで満足か?」
無表情に言いながら、指先をくるりと回し、ワンピースが光の中に消えていく。
(うん! これで大丈夫!)
「そうか」
光が徐々に落ち着き始める中、
(ねえおじいちゃん)
キャリーの優し気な声。
「どうした?」
(良かったね?)
棒立ちのセンドは、黙ったまま光の中を見つめる。
表情は硬く、まるで何の感慨を抱いていないような冷淡な眼差し。
だが、光が収まり、二人の姿をようやく眸に捉えた時。
「あぁ。良かった」
そう言って、僅かに表情が丸みを帯びる。
グレインが抱いていたのは、桃色の尻尾。
桃色の尻尾が生えた――金髪碧眼の幼女である。
「おかえり。ニョロ」
グレインは慈しみを湛えた面持ちで、優しく言う。
すると、幼女の顔がくしゃりと歪み、大きな涙が頬を伝う。
「おれは……まもの、だ……」
絞り出すように、言った。
「知ってるよ」
「すき、とかも……よくわからない……」
「分かってる」
「話し方も……違う……」
「全然違うなぁ」
「おれは……アイリスに……なれない……」
「そうらしいな」
グレインはニョロの悲しみに満ちた告白を一つずつ拾い上げるように頷いて、
「でも、俺が幸せにしたい女だ」
子供みたいなくしゃりとした笑みを返す。
「うぅ……うっ……。うええええん……!」
尻尾をグレインに巻きつけて、ニョロは大声で泣いた。
ニョロの頬を拭うグレインの笑みにも、次第に涙が伝う。
「ぅぐ……!うううう……!」
傍で見守っていたボックスはその場にへたりこみ、熱い涙を流す。
これは再会ではない。
当時のアイリス・エンシャンティアが戻ってきたわけではない。
そこにいるのは、ただの少女である。
ボックスに愛され、グレインに救われた、かつて姫だっただけの、ただの少女。
じいじのことが大好きで、グレインのことが気になる、尻尾の生えた、ただの少女。
ニョロという名の、少女である。
罪悪感、無力感、不安、恐怖、寂しさ。
抱えていた負の感情が喜びと安堵に押し出され、涙となって溢れ出る。
三者は各々の感情を吐き出すように、声を上げて泣いた。
やがて三人の涙は大きな響きとなって、王都の夜に解けていく。
センド・フューツはその光景を魂に刻み付けるように見つめながら、ここまでの軌跡に思いを馳せ、
「本当に……良かった」
感慨深げに呟いた。




