55話 追憶⑤
グレインとデートをした日の夜。
久しぶりに絵本が見たくて、寝室の戸棚から一冊を取る。
「ふふ……ほんと、全然違う」
表紙に書かれた金髪の勇者を見て、思わず笑う。
勇者アーサーとグレイン。
気高くも無いし、カッコ悪いし、顔もなんだか狂暴だし、絵本の勇者とちっとも似てない。
もし私の代の勇者がアーサーみたいな人だったら、と考える。
優しくて、カッコよくて、私はきっと彼の冒険を応援してしまうだろう。
それで、彼は旅に出て、死ぬ。
私は毎日アーサーのことを考えて、たくさん泣く。
でも、いつかはアーサーの死を受け入れる。
そういうものだからと、自分に言い聞かせる。
「ほんっと、なんでかなぁ……?」
絵本をパラパラとめくりながら、呟く。
グレインが死ぬのは、絶対に受け入れられない。
そんな確信がある。
カッコ悪い私の勇者様には、どうしても生きていてほしい。
そう思ってしまう。
ベッドに腰かけ、戸棚から封筒と、今日グレインから貰った指輪を取り出す。
封筒に入れる前にもう一度、じっくりと眺める。
『錆びる前に帰ってくる』
『ただの女にする』
貰った時の彼の言葉が思い起こされて、少し泣く。
ただの女になりたかった。
グレインの奥さんになりたかった。
アイリス・ランゲイルになりたかった。
決して叶わぬ未来を思い描いて、決心が曇りそうになる。
でも、決めたから。
彼を死なせないと、私が助けると、そう決めたから。
私は指輪を封筒に仕舞い、保護の魔法を刻印する。
「これで、錆びない」
彼から貰った大事な指輪だから、キレイなまま、平和な世界に連れていってあげたい。
「よし」
封筒を絵本に挟み、表紙を少し撫でてから、立ち上がる。
今日、私は、
――結界の外に出る。
窓から音を立てないように飛び降りて、城門へ向かう。
守衛がいるから、透明化の魔法を予め施して、駆け足で庭園を進む。
城門をくぐろうとして、ふと城の方を振り返る。
もうここに帰ってくることはないのだと思うと、胸が張り裂けそうになる。
なにより、これまでずっと私を育て、守ってくれたじいじに申し訳なくて。
それが、一番辛い。
――じいじ、ごめんね?
それだけ、心の中で想った。
加速魔法で夜の王都を駆け抜け、西の大門へ。
大門を抜けてからは、先日吸収した馬を呼び出す魔法。
馬に乗り、結界を目指す。
結界の刻印を目前に控えた時、月夜の中に佇む影を捉える。
何故こんな時間にここにいるの?
一体何の用で?
疑問が次々と浮かぶ中、透明化の魔法を信じ、結界のすぐ傍まで馬を走らせる。
「行くのか?」
馬を降りた時、影が声を掛けてきた。
歩みよる影の正体は、黒いフードを深々と被る男――センド・フューツだった。
「えぇ。行くわ」
気付かれたことよりも、なぜここにいるのかということよりも、まるで「止める気はない」とでも言いたげな空気を醸していることに面食らう。
でも、それを表情にも言葉にも出さないように答えた。
「そうか」
「えっ、それだけ!?」
思わず声を上ずらせてしまう。
「なんだ? 引き留めて欲しいワケではあるまい」
「それはそうだけど! 待ち伏せしてたのならなんか言ってくると思うのは当然じゃない!」
「そうか」
気まずい沈黙が流れ、意図の見えないセンドの態度に腹が立ってきた。
「何の用なのよ?」
「見送りだ」
「見送り……それだけ?」
「そうだ。魔王を討ち倒すべく旅立つ勇敢な者に見送りがいないのはもの寂しいかと思ってな」
この男は全てを知っている。
そう予感させる物言いに、疑問を覚える。
人詠の祝福は触れた人の過去と未来を数時間程度詠むことが出来る、とこの男は言っていたから、彼の未来予知的な言動に今更驚くことはない。
しかし、今日彼に私が触れたのはデートの時。少なくとも十時間は前だ。
ここに来るまで透明化していた為に誰かの未来から間接的に知り得たとも考え辛く、これではまるで……。
「貴方……もしかして嘘をついていたの?」
フードの奥にあるであろう眸を睨みつける。
すると、
「あぁ。その通りだ。俺が詠める過去と未来に制限は無い」
さも平然と答えた。
表情は見えないが、嘘ではないと思った。
今この場所でそのような嘘を言う利点が何一つないから。
「じゃああの日、わざわざ結界の傍まで行ったのはどうして?」
「お前にあの光景を見せる必要があったからだ。酒場で言えばグレインが断固として止めようとすると考えた」
「……私が結界の外に出るよう仕向けていた、ってコト?」
「それは語弊がある。俺はあくまで詠んだ未来から外れぬよう努めていただけだ」
「……一体いつから、私の未来を詠んでいたの?」
「酒場で言っただろう? 幼少の頃に会ったことがあると」
私の質問に対し、センドは思考する時間すら必要としていないようだった。
まるで、聞かれることも言うこともあらかじめ知っているかのように。
センドが真実を語っているのだと確信して、一つ欲望が浮かぶ。
――グレインは助かるのか?
それを聞きたいと思った。
でも、聞かなかった。
聞けば、結界の外に出れなくなるから。
私が口ごもっていると、
「グレインは死なない」
センドは言った。
「それを言いに来た」
「そっか……!」
気付くと、私は頬を緩ませていた。
グレインは助かる。
それだけで、私は頑張れる。
身体の強張りが、すっと解けていく。
「行くわ」
「あぁ」
あと一歩で結界に触れるというところで、立ち止まる。
怖いからじゃない。
やり残したことはたくさんあるけれど、引き返したいとは思っていない。
グレイン、ボックス、お母様、侍女のみんな。
私が居なくなって寂しがる人達への罪悪感を今一度噛みしめておきたかった。
――ごめんなさい。
――幸せに生きてください。
――行ってきます。
心の中で、何度も念じる。
その時、後ろで何も言わず見つめていたセンドが、口を開いた。
「お前が今まさに踏み出そうとしている一歩は、神が定めし理から我々を救い出す、この世界で最も偉大で勇敢な一歩だ」
「……なに? 励ましてくれているのかしら?」
センドらしくなくて、茶化してやろうと笑みを含めて振り返る。
すると、フードを脱ぎ、容貌を露わにするセンドが写る。
金髪。空色の眸。
まるで、勇者アーサーのようだ。
「貴方……もしかして……」
「勇者なのではないか……とでも言いたいのか?」
「……ええ。その通りよ」
「違うに決まっているだろう?今代の勇者はグレイン・ランゲイル。それと
――アイリス・ランゲイル。その二人だけだ」
無表情に言った。
でも、微かに笑っているようにも見えて、彼の言葉はとても私の心を暖めた。
彼が勇者だったのかどうかはこの際どうでもよくなって、とにかく彼は勇気をくれた。
そのことが、嬉しかった。
「貴方みたいになりたかったわ。何事にも動じないような、冷静だけど熱い人に」
最大限の評価を送りたいと思った。
でも、
「逆だ」
そうセンドは言った。
「俺がお前のように勇敢になりたかったのだ。喋り方も態度も、お前を真似してこうなった」
正直、意味が分からなかったけれど、その言葉は特に熱を持っていた。
「なによそれ」
「気にするな」
緊張がほぐれて、勇気が湧いて、あとは足を前に出すだけ。
もう躊躇いは無い。
一つ息を吐いて、
「行ってきます」
「あぁ。あとのことは全て任せておけ」
センドの言葉に頷いて、結界の外に踏み出す。
右手甲が悍ましい光を放つ。
世界がざわめき、月がこちらを覗き込んでいるようだ。
足音、羽音、這いずる音。
幾重にも重なった悪辣な物音が近づいてくる。
でも、静かだと思えた。
まるで一人夜の庭園を散歩しているような、そんな穏やかな夜。
「さぁ、貴方達のだ~い好きなお姫様が出てきてあげたわよ? しっかりとエスコートなさい?」
私に群がる無数の眼差しに、挑戦的な笑みを見せつけた。




