5話 はむふれっど
魔物は人間とは異なり、成長しない。
その代わりに生まれながらにして言葉と知識を持つ。
ゆえにニョロは森の外に人間が住むことも、それらが二本足で歩き文明を築く種族であることも知っていた。
しかしそれはあくまで知識としてであり、詰所を飛び出したニョロを待ち受けていたのは、膨大な量の未だ見ぬ経験であった。
まずニョロに衝撃を与えたのは、闊歩する大勢の人。その数と質である。
人間、人間、亜人、人間、亜人、人間、人間……驚くべきことに、全部腐っていない上に動いている。
揃った四肢、健康的な肌、活力を宿した眸。これまで死体しか知らなかったニョロにとってはもはや現実的な光景ではなかった。
次に、門から街の中央へ伸びた幅広の石畳。そして中央から放射状に立ち並ぶ多様な建造物。
そのいずれもが整った外見をしており、人間という種を魔物に匹敵させるに至った技術力をひしひしと感じさせる。
そんな精巧な建造物がこの広大な壁の中に所狭しと並んでいるのだから、人間が文明を持つ、という意味を改めて思い知らされる。
「おい。いくぞ」
きょろきょろと辺りを見渡しているニョロに、肩越しに顎を引いてみせたクリンカー。
声に尻尾を飛び上げたニョロは、小さく頷いて歩き出す。
幼女の背後で踊る桃色の尻尾が行き交う街人の視線を集める中、杖をついた老婆が近づく。
「そんなに泥んこでどうしたの?大丈夫かい?」
老婆は泥まみれで街を歩く幼女を不憫に思ってか、皺だらけの顔に汗が伝う。
皺枯れた人間が水分を漏出する様を見たニョロはその汗を手で拭ってやると、
「干からびてしまうぞ」
と老婆の口にねじ込んだ。
「おいお前!何やってんだぁ!?」
老婆の籠った呻き声に咄嗟に反応したクリンカーがニョロを抱え上げるが、当の本人は素知らぬ顔。
「見たらわかるだろう? 漏れ出た水を返してやったのだ」
ニョロは今死体になられても寄生出来ないから、と仕方なく生きながらえさせただけだったのだが、クリンカーは老婆に頭を下げる。
すると、命を繋いだ老婆がひきつった笑顔を浮かべる。
「あ、ありがとねぇ。命拾いしたよ」
「構わん。それよりもお前はもっと水分を取ったほうがいい」
「え……?」
クリンカーは呆気にとられた老婆を見かね、
「すまねえな婆さん。忘れてくれ!あとこいつは俺が面倒見てっから心配いらねえ!それじゃあな!」
再度頭を下げた後、ニョロを小脇に抱えて小走りで退散する。
「面倒を見られた覚えはないが」
「それはてめえがバカだから覚えてねえだけだ」
「バカじゃないが」
「いいやバカだ。誰がどう見てもバカだてめえは」
「それはおかしいぞ。誰が見てもということは他の人間に聞いて回ったのか?そうには見えなかったが?」
「うるせえうるせえ!」
「俺のことをバカだというのはただのお前の印象であって、実際に俺がバカかどうかは」
「分かった!!分かったからもう黙ってろ!」
目的地に着くまでの十分間、走る衛兵と小脇の幼女の言い合いは続いた。
目的地は、家屋が立ち並ぶ一角の空き地であった。
三人掛けのベンチが二つ置いてあるくらいの簡素な場所だが、数人の子供が地面を掘り返したり走り回ったりと忙しなく動いている。
「ここは『フューツ公園』っつってな。昼メシはいつもここで食ってんだ」
地面にニョロを降ろすと、何やら物憂げに公園を見渡すクリンカー。
「なぜここで食べる必要があるのだ? あの毛無しの男も言っていたが」
ニョロは詰所にいた彼の同僚とのやり取りを思い出しながら、疑問を投げかける。
「……教えてやんねえ」
クリンカーはそう吐き捨てると、隅に置いてあるベンチに腰かける。
後を追って隣に座ると、彼は小袋を開け、中から取り出したものをニョロに渡す。
「ほらハムフレッドだ。食えよ」
(パンだ! 美味しそ~!)
ハムフレッドとは、パンに具材を挟んだ軽食である。
ニョロは、ふわふわした綿?らしき何かに草と肉を挟んだ「はむふれっど」なるものを慎重に口に運ぶ。
柔らかなパンを嚙みしめると、優しい甘味の中から刺激的な辛みが顔を覗かせた。
辛みの正体はソース。様々なスパイスの多様な刺激が空腹を刺激し、煮込んだ果実の甘味がそれらに一体感を与えている。
そして迎えるは厚切りのハム。確かな噛み応えとジューシーな旨味が充実感をもたらし、最後に新鮮な野菜の爽やかな食感が次の一口を誘う。
手のひらサイズで携帯に適していながらもそのインパクトある味わいは、まさに昼下がりのお供。なのだが………
「どうだ美味えだろ? 今世界で一番美味え自信があるぜ」
(うんま~い!)
「複雑な味わいゆえ、今すぐ評価することは出来ない」
ニョロには難しかった。
すると、視線をニョロの背後に回したクリンカーが笑う。
「尻尾揺らしといて何言ってんだよ」
「尻尾が揺れているからどうしたというのだ?」
ニョロの問いに驚いたように視線を返すと、新たに取り出したハムフレッドにかじりつく。
「そりゃあ、美味えってことだろ?」
「しかしそれは……」
お前の印象だ、と続けようとしたニョロであったが、
(おしゃべりしてないで食べて!)
言い返すのをやめた。
「あと二つあるからほしくなったら言えよ」
(欲しいです!)
「もらおう」
「早えよ!手に持ってるやつを食ってからにしろ!」
いつものように怒るクリンカーだが、心なしか表情が綻んで見えた。
結果的に三つのハムフレッドを平らげ、腹を鳴らすクリンカーに「全部食うやつがあるか」と叱られたニョロ。
ヒメが鼻歌混じりのゴキゲンだった為、詰所であえて中断した話を持ち出す。
「お前はこの顔を見て何か思い出すことはないか?」
「いや。まったく無えな」
顔をじっくり見られるように近づくが、すぐさま首を振るクリンカー。
「俺があの城に住んでいた、という話についてはどう思う?」
「少なくとお前は王族では無いと思うぜ? 全員もれなく金髪碧眼だからな。侍女みてえに城で働く奴ならまだ可能性はある、ってとこだ。まあその場合『お姫様』じゃなくなっちまうけどなぁ!ぎゃははははは!!」
(きらい!)
幼稚な知性のヒメが、城で働いていただけで自分のことをお姫様だと誤認していた、と考えると、死ぬ間際の言葉とも辻褄があう。
城で働いていた誰か、を第一候補としつつ、他の可能性を探ってみる。
「では他の国はどうだ?」
「その可能性はあるじゃねえか? 他の国ったって海の外だが船で往来もあるし、その中の子供がはぐれました、っていうのは不思議じゃねえ」
街の住民を見ても、ヒメのような赤髪赤目の者はいなかった。
他の国の姫様、という可能性は十分にある。
ニョロが海外渡航を視野に入れ始めた頃、
(違うもん!)
ヒメの叫びが脳を揺らす。
(絶対にここだもん!あのお城だもん!あのお城のお姫様だもん!!)
いつもの泣き叫ぶような声ではない。身体のどこにも異変は無く、尻尾も立ってはいるが脈打ってはいない。
しかし強い意思が込められた言葉が脳をつんざき、咄嗟に頭を抑える。
(絶対ぜったいぜーったい!)
「おい。また頭痛えのか?」
クリンカーが心配そうに見つめるが、ニョロの思考はそこに向けられていない。
「俺はやはりあの城に向かわなくてはいけないらしい」
ベンチから飛び降りたニョロは、遠く聳える城を見据える。
――ヒメの確信。
街に来て何かを思い出したのか。ただ願望なのか。
理由も根拠も今は分からない。そんなものはそもそも無いのかもしれないが、彼女には言い切るだけの何かがあるようだ。
とにもかくにもこの街を出ようしたら最後、ヒメの号泣により今度こそ脳髄をばら撒いてしまう可能性がある。
今や退路は無く、ただ城に向かうことだけがニョロに残された選択肢であった。
「お前、城に行ってどうするつもりだ?」
ニョロの背後から不機嫌な問い。眉を吊り上げたクリンカーである。
「城内の手がかりとなりえるものを全てあたる。あとは記憶に委ねるだけだ」
振り返り答えたニョロに対し、大きなため息を吐く。
「あのなぁ。どこから来たかも分かんねえ泥だらけのガキを王城が入れてくれるわけねえだろ」
「入れる者と入れない者がいるのか?」
「当たり前だ! 王様と『結界の祝福者』が住んでるんだぞ? 好き勝手に入れるかよ」
「では飛んで壁を超えるのは?」
平然と不法侵入を口にするニョロに「それを衛兵の俺に聞くかよ?」と苦笑のクリンカーが答える。
「それも無理だ。『結界の祝福者』が住んでるっつったろ? あの城の周りにゃあ人間だろうが動物だろうが、門以外からは入ることが出来ねえように結界が張ってあんだよ」
またしても姫様が生み出す結界、しかし城を守るのは人間すら通さないものらしい。
ニョロは尻尾を悩まし気に揺らしながら、城へ入る方法を考えるが、結界の破壊を試みるくらいしか思いつかない。
そんな中、突然ニョロの肩を抱いたクリンカーが呟く。
「忍び込むしかねえだろうが」
先ほど衛兵を自称していた男とは到底思えない発言。
悪人面を歪ませた笑顔は獲物を前にした獣の如く、城を獰猛に見据えている。
(ひぃ!)
その顔を見てニョロの中で一つ合点がいった。
クリンカーと初めに遭遇した時、なぜ一人入口が無い側の壁の外にいたのか?
そしてなぜ見知らぬ少女を食事に誘ったのか?
それは、仲間外れにされているからだ。
顔も凶悪な上に粗暴な口調。人間共は正しい判断をしている。
その上、つがいの女も忘れられず、未だに汚い指輪をつけているところが情けない。
――哀れな男だ。
そう結論づけたニョロは、クランカーの頭を尻尾で撫でながら、憐れみの視線を送る。
「お前はもっと人間の気持ちを理解するべきだ」
助言してくる無表情に、呆気にとられた様子のクランカーは口を開けたまま沈黙。
そして数秒後、目を見開いて叫んだ。
「お前だけには言われたくねえ!!」