45話 不落の壁
突如として籠の中の鳥となった街人が混乱する中を、グレインはニョロを抱いたまま貫いた。
景色がみるみるうちに彼方後方へ流れゆく間、ニョロは獰猛な笑顔を見つめ続けた。
「一体何をする気だ?」
閉じられた城門の前に舞い戻り、地面に降ろされたニョロが問う。
ボックスの結界の祝福は、まさに不落の壁。
大陸中の魔物を葬った勇者の剣でさえも、触れることすら叶わない。
それなのに、グレインの眸は確かな自信に燃えていたのだ。
「決まってンだろ? あのジジイを引きずり出すンだよ」
グレインは身体をほぐしながら、城門を見上げている。
何をしようとしているのか、ニョロには見当もつかない。
すると、グレインは鎧や服、剣など、下着以外の装備を全て脱ぎ捨てた。
(きゃっ!)
久方ぶりのヒメの声は、小さな悲鳴だった。
ニョロも呼応するように、触手で一応目を覆う。
「オラァ!」
鍛え抜かれた傷一つない身体を露わにしたグレインは、剣以外の装備を順々に城壁の上空へ放り投げる。
弧のような軌道を描いた装備達は、結界を抜け、城門の奥へ消えた。
「生物以外は抜けられるのか……。何故知っている?」
「昔センドが祝福について色々言ってたのを思い出してよォ。祝福には役目がある、だっけか? 」
グレインはそう言って剣を結界に向けて投げてみせる。
空中で静止した剣が落下して、甲高い音を響かせた。
「危ねえモンは通さねえ、ってコトみてえだな」
――祝福には役目がある。
ドムナー夫妻からも聞いた言葉に、ニョロは思考を巡らせる。
結界の祝福の役目、と考えた時、それは間違いなく「姫を守る」こと。
これまでの結界を思い返してみると、全てその役目に準じて使われたものだった。
魔物から姫を隠し守る為の、街を覆う対魔結界。
姫が住む城への侵入者を防ぐ対人結界。
姫の秘密を守る為の、書斎と聖堂を閉ざす結界。
そして、ニョロの魔法からレイラを守った結界と、アイリスであるキャリーを守った結界。
つまりボックスの結界は、姫に害を成す恐れがあるモノしか防がない、ということだ。
絶対無敵と思われた結界の僅かな隙だった。
だが、
「だからどうしたというのだ?」
グレインの意図を解することは出来ない。
「服やら鎧を投げこめば、ボックスが出てくるとでも言いたいのか?」
「ンなワケねえだろうが」
グレインは地面の剣を鞘から抜きながら言うと、
「こうすンだよ!」
自らの左手首を斬り落とした。
血しぶきが弧を描き、肉が落ちた嫌な音が響く。
「ひっ……」
小さな悲鳴を上げ、身体を縮こませたニョロを後目に、グレインは傷口に吸い寄せられるように動く左手を拾い上げ、城壁の上に投げる。
庭園の草花の上に落ちたと思われる音を鳴らした後も、動き続けているのが聞こえてきた。
「な、なんのつもりだ……!」
胸の前で寄る辺なく両手を抱きしめたニョロが声を震わせる。
「分かんねえか? これでこっちの俺がカスみてえになりゃあ、あっちの手から俺が再生するって寸法よォ」
グレインは得意げに口角を上げて答えたが、
「どうしたよ?」
ニョロの様子に首をかしげる。
左腕は既に再生し、城壁の奥からは音が聞こえなくなっていた。
「おまえっ……! いきなり……そんなこと……するな……っ!」
ニョロは顔を歪ませ、眸に大きな雫を作りながら、弱弱しく怒鳴った。
驚きと、怖さ。
突如襲った感情が、ニョロを泣かせていた。
「もしかして怖かったのか?」
「うぅ……」
「でもほら、もう治ってるから安心だろ? ほら全然痛くねえし」
「んぅ……」
ニョロはおざなりに首を振るばかりで、潤ませた眸でグレインを睨みつける。
グレインは困りはてた様子で頭を掻くが、一つ息を吐いたあと、ニョロの前に跪いて小さな肩を掴む。
「ニョロ、今からテメエに辛いことを頼む。だが、必要なコトだ」
ニョロは黙って首を振る。
聞きたくないと、何度も何度も首を振って、次第に雫が頬を伝う。
でも、グレインは口を開いた。
「テメエの魔法で俺を殺せ。跡形もなくなるくれえに徹底的に、再生が追い付かねえくらいの一瞬で、殺せ」
ニョロの頭の中で、グレインの死が映像となって流れる。
「うっ……ゔえええん……!」
すごく怖くて、悲しくなって、泣いた。
縋るように両手を出して、よたよたとグレインの胸元を目指す。
「俺の魔力じゃそこまでのことは出来ねえんだ。分かってくれニョロ」
縋りつくニョロを抱きしめて、背中をさする。
「いやっ……いやぁ……!」
駄々をこねる子供のように、同じ言葉を重ねる。
「ニョロ」
「いやぁ……っ!!」
「分かってくれ」
「やぁ……!」
アイリスの記憶を取り戻す為には、それしか方法がない。
そんなことはニョロにも分かっていた。
でも、甘んじて受け入れることなど出来なかった。
「ぐれいんは……っ、がんばっだのに……、たぐざん……がんばっだのに……もう……ぞんなごど……でぎない……っ!」
グレインの想いを知っている。
グレインの優しさを知っている。
グレインの覚悟を知っている。
グレインの努力を知っている。
ニョロはもう、感情の希薄な魔物ではいられなかった。
自身に利益ある提案に、どうしても首を縦に振れない。
これ以上、大事な人に傷ついてほしくない。
ニョロの心は、まさしく人間の少女だった。
だが、
「いいからやれぇ――ッ!」
グレインの覚悟が揺らぐことは無かった。
ニョロの悲しみに濡れた眸を睨みつけ、怒鳴りを上げる。
「い、や……いやぁ……!」
ニョロは逃げようと身体をよじらせる。
でも、グレインはそれを許さない。
「なあニョロ? テメエ言ってだろ? アイリスを笑顔で迎え入れろ、って。昔の約束を果たせ、って」
諭すような口調に、ニョロの動きが止まる。
「俺はもう諦めたくねえんだ。絶対にアイリスに会いてえんだよ。今更何回死ぬことになろうが、ンなもんちっとも構いやしねえんだ」
水面のように揺れる眸がじっとグレインを見つめている。
「だから頼むよ……ニョロ。お前の力を貸してくれ」
また嗚咽がせり上がってきて、ニョロの肩が上下する。
幼い心が今にも壊れそうで、逃げたいと、目を逸らしたいと、叫ぶ。
でも、どうしようもなく、グレインの力になりたかった。
「うぅ……!」
ニョロはすすり泣きながらも、グレインの脳天に尻尾をかざす。
すると、グレインがにっこりと、晴れわたる空のように微笑んだ。
「頑張れニョロ。テメエなら出来る」
そう言って、うなだれるように身体を脱力させ、死を待つグレイン。
尻尾の先端に魔力が凝集し、やがて赤い閃光となって、夜が始まった街を照らす。
「……わあああああああ!!!」
覚悟の咆哮の刹那、落雷の如き瞬発的な轟音を伴って、紅蓮の光線が射出される。
瞬く間にグレインを包みこみ、広範囲の石畳と共にほどけるように消滅した。
「……ぅあ」
黒煙立ち昇る大穴を見つめながら、ニョロはその場にへたりこむ。
また涙がこみ上げてきた刹那、
「ニョロ~!! ありがとなァ~!!」
城壁の奥から、グレインの声。
ニョロは跳ねるように立ち上がり、
「ぐれいんっ」
結界に体重をかけながら声を上ずらせる。
「しんでないかっ?」
いつもよりずっと子供らしい声。
「死んでも死なねえっつったろ?」
グレインのいたずらっぽい返事が帰ってきて、ニョロはその場で少しだけ跳ねる。
「いたくないかっ?」
「まったく痛くなかったぜ? ニョロ、お前に頼んでよかったよ!」
「そうか……そうかっ!」
城門の奥からカチャカチャと音が聞こえる。
グレインが前もって投げ入れた装備を身に着けている音だ。
ニョロは飛び跳ねながら、何度もグレインに様子を聞いた。
するとグレインの笑い声が聞こえてきて、それがとっても嬉しくて、ニョロはまた飛び跳ねた。
しばらくすると、準備を終えたらしいグレインの、
「ニョロ!」
快活な呼びかけが聞こえる。
「どうしたっ?」
尻尾をピンと立てて、結界に耳を押し当てる。
「絶対にもう一度、ジジイと会わせてやっから、いい子に待ってろよォ?」
まるで笑顔が透けて見えそうな、そんな明るい声だった。
「わかったっ!」
ニョロもこれまでで一番の元気を込めて応えた。
走り去っていく足音。
鎧が擦れる音。
そこに寂しさと頼もしさを覚えながら、閉じられた城門を見つめる。
何かもう一言、グレインにあげたい。
こういう時、どういう言葉をかけたらグレインは嬉しいのか?
ニョロはたくさん考えて、言った。
「い、いってらっしゃい……!」
ちょっぴり恥ずかしくて、あまり大きな声は出せなかった。
でも、
「おう! 行ってきます!」
グレインの返事が返ってきて、とっても暖かい気持ちになって。
ニョロは産まれて初めて――
「……えへへ」
笑った。
記念すべき初笑いは、顔を真っ赤にしたぎこちない笑み。
たくさんの嬉しいが籠った、幸せな笑顔だった。
グレインが生きている。
元気な声を返してくれた。
じいじに会わせてくれると言ってくれた。
「へへ……ぅう……」
だからこそ、涙が溢れてきてしまう。
嬉しいのは本当のことだ。
幸せを感じている。
「……ぅう……うっ……」
だからこそ、この暖かな日々の終焉が近いことを悟る。
身体が力を失って、ずり下がるように膝をつく。
ニョロは人間になりすぎてしまった。
大事なものをたくさん見つけてしまった。
もう魔物には戻れない。
でも、ここに自分の居場所は無い。
そう言い聞かせて。
「うわあああん……!」
たくさんの幸福を携えて、不幸へ向かって進む。
それがニョロに唯一許された、生き方だった。




