44話 勇者と触手
グレインは、自らの過去を心痛した面持ちで語った。
鬱血するほど拳を握りしめ、眸には憎悪と悔恨が滲む。
ニョロはじっと見つめながら、尻尾をグレインに寄り添わせていた。
グレインは勇気の祝福者では無かった。
アイリスの記憶で見た、フードを深く被る陰気な魔法使いにして、人詠の祝福者。
センド・フューツこそが、呪いに選ばれた勇者だった。
だが、
「お前は、世界を救ったのだな」
グレインは、アイリスに惹き寄せられた大陸中の魔物を滅ぼした。
殺した数の何百倍も死にながら、痛みを受けながら、三百年の地獄を乗り越えた。
「お前は、勇者だ。語り継がれるべき偉業を成した、本物の勇者だ」
「……そんなんじゃ、ねえよ」
震わせた声で否定するグレインの頬を、一筋の涙が伝う。
ニョロは椅子から飛び降りて、グレインの拳を両手で包む。
「がんばったな」
慈しむような、優しさが込められた声だった。
ニョロの潤いを帯びた視線が、グレインの視線と交わる。
「……助けられなくて……ごめん……!」
その言葉を皮切りに、グレインは泣いた。
身体が力を失って、だらりと腕を落としたまま、声を上げて泣いた。
ニョロもつられて泣いた。
三百年を戦い抜いた無傷の身体を労うように、尻尾で抱きしめながら。
救えなかった過去への罪悪感と、三百年の時を超えて報われた想い。
正負の感情入り混じる複雑なグレインの涙は、窓をすり抜ける陽光が赤みがかるまで枯れなかった。
ようやく落ち着いた頃、
「……思い出しそうか?」
腫らした顔を拭ったグレインが、気恥ずかしそうに目を逸らして言う。
「まだ分からん。眠ることで記憶が目覚める可能性はある」
「そうかよ……」
グレインの脚をよじ登ろうとするニョロを、気付いたグレインが軽々と持ち上げる。
すると、そのままニョロを肩に跨らせ、立ち上がる。
「なんのつもりだ」
「なにって、城まで送ってやんだよ。もう暗くなるからな」
「そうか」
「そうだよ」
賑わう薄暮の街並をゆっくりと歩く。
道行く人々は少女と衛兵の姿を物珍しそうに見つめた後、頬を緩ませる。
少女の尻尾が衛兵の腰にガッチリと巻き付いて、更に小さな手が頭を抱きしめていた。
でも縦に並んだ二つの顔は疲労感と寂しさを滲ませて、そこに会話は無い。
「なぁ」
しばらく黙って歩いた後、グレインが呟く。
「アイリスは……お前の頭の中にいるんだよな?」
「あぁ」
「この声も聞こえてんのか?」
「あぁ」
「じゃあよ……」
グレインは何かを言おうとして、躊躇いがちに呻いた。
平淡な声で答えていたニョロは、続く言葉が何であれ、聞く気は無かった。
「言いたいことがあるなら後に直接にしろ。今はまだ、アイリスであってアイリスじゃない」
「……そうか」
「そうだ。記憶を取り戻す時を、お前は待っていればいい」
「……おう」
「その……あのよ……」
数十秒の沈黙のあと、グレインはまたしても言い淀んでいた。
「後にしろと言っただろう。焦らずとも数日の内にはアイリスをお前の元に送り出してやるから、我慢しろ」
「そうじゃねえよ……」
「ならばなんだ?」
ニョロが聞くと、少し間があってから、
「また作ってやるよ……ハムフレッド」
悩みに悩んで絞り出したような、そんな言い方だった。
小さな身体が、わずかに強張った。
「……気が向いたらな」
「……おう」
憂いを帯びた帰路の中で、ニョロは近づきつつある王城を望みながら、思考を巡らせる。
グレインの語った内容は隠された真相に他ならなかったが、いわばアイリスの失踪の裏で起きた出来事。
グレインが魔王城内の様子を窺い知ることが出来なかったように、アイリスとてそれは同じ。
つまり、グレインの話はアイリスの記憶の外に存在するものだ。
今夜眠ろうと新たな記憶を見ることはないだろう。
それが、ニョロの推測だった。
当時を生きたグレインが情報源として機能しないことを知った今、唯一残された情報源は真相を隠すボックスだけ、ということになる。
聖堂での一件以降顔を合わせていないが、説得に応じることはあり得ないと確信出来た。
どのようにして情報を聞き出すか?
有効策はある。
これをすれば、確実にボックスに口を割らせる、割らざるをえなくなるという自信がある。
でも、ニョロはずっと、実行できる精神を構築することが出来ず、実行を見送っていた。
グレインの涙と努力は、ニョロに踏み出す勇気を与えた。
今ならやれると、思うことができた。
やるしかないと、やるべきだと、自身を追い込むことが出来た。
全てはボックスとグレイン、二人の長きに渡る献身に報いる為。
幼き身体に、殺意を思わせるほどに研ぎ澄まされた情念が宿る。
城門を目前にグレインが止まる。
城への立ち入りを禁じられているからだろう。
「ニョロ、着いたぜ」
明るく繕った、グレインの声。もはやいつもの刺々しさは無い。
尻尾がゆっくりと解けた後、グレインがニョロを地面に降ろす。
「……ありがとうございます」
「……んだよ。らしくねぇ」
そう言いながら、大きな手でニョロの頭をガシガシと撫でて、寂しそうに笑う。
ニョロはその顔を目に焼き付けるように、ただじっと見つめていた。
「またな」
「あぁ」
藍色を帯びつつある王都の中心で、短い言葉が交差する。
二人とも、これが再会を祈念する意味を持っていないことを知っていた。
それでも、グレインはあえてその言葉を使った。
ニョロはすぐに踵を返し、城門へ向けて歩いた。
ただ振り返ることだけはすまいと心に決めて、一歩一歩確実に前へと進めていく。
俯きがちに前のめりに、逃げるように歩いた。
「おい、開いてねえぞ!」
グレインの声に尻尾を跳ねさせて、ニョロは辺りに視線を回す。
そして、ようやく門兵がいないことに気付いた。
嫌な予感がした。
身体中を冷ややかな感覚が駆け巡り、おそるおそる、閉じられた城門に触れる。
グレインはニョロの背中をポンとと叩き、
「たぶん休憩でもしてやがんだアイツら」
だが、ニョロの様子に違和感を覚え、
「どうした……?」
「……触れない」
「は……?」
「触れないのだ」
ニョロの手は、城門に触れることが出来なかった。
まるで、そこに見えざる壁があるかのように。
「締め出しやがったってのか……!」
「そのようだ」
「あんのジジイ!」
グレインが激情を露わにし、見えざる結界に拳を振るう。
だが、触れた感触すら返ってこない。
ボックスは最後の手段に出たのだと、ニョロは思った。
アイリスに記憶を取り戻させないために、自分との間に絶対無敵の結界を張ったのだ。
ボックスの強硬姿勢に考えを巡らせ、ニョロはもう一つの有効策の実行を決めた。
「グレイン、魔王城へ案内しろ」
魔王城の内部――アイリスとキャリーを繋げる最後の謎を直接見る。
ボックスとの面会、城での就寝、そのどちらもが望めない今、それしか方法が無い。
「……いいぜ! やってやるよ!最短で送り届けてやる!」
グレインは力を宿した笑顔を見せると、ニョロを抱きかかえ走り出す。
魔法による強化を施した脚力が、あっという間に喧騒を切り裂いていく。
ニョロの尻尾を利用した高速移動には遠く及ばないが、それでもニョロは何も言わず、グレインの横顔を見つめる。
だが、
「……おいおい! 嘘だろ……!? っざけんじゃねえよ!!!」
街西側の大門をくぐり終える、という時、グレインが怒りを叫ぶ。
グレインの身体が、ピタリと静止していたのだ。
街の内外ではいくつもの荷馬車が立ち往生していて、御者が首をかしげていた。
街を世界から断絶する、第三の結界が張られていた。
ボックスは先手を打っていた。
城に入れないと知ったニョロが、次に魔王城へ向かうことを読んでいたのだ。
だから、街の流通機能を断ってでも、それを阻んだ。
老獪さが手強い男が見せたあまりに強引な最終手段。
そこにはかつての後悔が滲んでいた。
二度と繰り返すまいとする、執念が込められた一手だった。
グレインの腕の中で、ニョロは呆然とするほかない。
もはや打つ手が無かった。
じいじとグレイン。
二人にアイリスを会わせてあげたい。
でも、もう叶わない。
グレインの肩に、涙が落ちる。
「諦めてんじゃねえ!!」
グレインが叫んだ。
「テメエをもう一度、あのクソジジイに会わせてやるよ……!」
獲物を前にした獣の如く、グレインの眸が城を睨んでいた。
その表情は、獰猛な笑顔。
その顔を見て、ニョロがハッとする。
かつて見た、不良衛兵の顔だったから。




