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36話 追憶④ー2


 淀みない歩調で行きついた場所は、小ぶりな民家が立ち並ぶ平民街の一角。

 焼けた小麦の香ばしい匂いを漂わせる、これまた小ぶりなパン屋だった。

 扉をくぐると中に二人掛けの座席が二組だけあって、パンを並べたカウンターの奥には丸々と太った男が一人。

 

「よおおっさん! 今日も張り切ってっかあ?」

「パンを見たら分かるだろうが! 見ろこのツヤ! 弾力! 張り切ってなけりゃあ作れるわけがねえ!!」


 得意気な店主を見て、グレインが笑う。

 仲が良いらしい。

 でも、店主は私を視界に捉えた途端、みるみると青ざめていき、

「ちょっと来い!」

 とグレインの胸倉を引き寄せる。

 それからは耳打ちで話し始めたが、ひどく動揺しているらしく声が大きい。

 

「アレ姫様じゃねえか?」

「あぁそうだ。可愛いだろ? 俺の嫁なんだぜ?」 

 自慢してる。可愛いのは貴方よ。

「なんでココにいるんだよ?」

「そりゃあパン食いにきたに決まってんじゃねえか」

「そういう意味じゃねえ! なんで姫様がこんな平民街のパン屋に来てんだ、って言ってんだよ!」

「だからここのパンを食いに」  

「もっと他にあるだろうがよォ!? お前はバカだバカだと思っていたが、まさか姫様をこんなパン屋に連れてくるほどバカとは思いもしなかったぞこのバカ!」

「バカバカうっせえよ!? 」   

 グレインは誰からもバカだと思われているようね。

 まあバカだもの。そこがいいの。


 しばらく問答を続けていた彼らだけど、

「おっさんのパンが一番美味えから、アイリスに食わせたかったんだよ」

 というグレインの言葉に頬を染めた店主が、パンのようにツヤツヤとした笑顔で振り向いた。


「これはこれはアイリス様。私のパンを召し上がっていただけるとは、光栄ですぅ。どうぞお掛けになってお待ちくださいねぇ」

「ありがとう」

 店主が引いてくれた椅子に腰かけると、グレインが、

「ここのパンはマジで美味えから! 舐めてかかったら腰抜かしちまうから気ぃつけろよ?」

 と何故か誇らしげ。

「あらそうなの。それは楽しみねぇ」

 微笑んでそう言うと、グレインは「いつもの頼むわ」と店主に注文する。

「えっ? それよりももっと手の込んだモンが……」

「いつも通りでいいんだよ! ここぞで張り切っちまう男はダセえからよ!」

「誰かさんみたいにね」

「覚えてねえ! ぎゃはは!」     

 

 実際、私はパンに期待していない。

 何せ私は日頃から最高級の小麦が使われた焼きたてのパンを食べているから。

 これから調理をするようだけど、今からパンを焼き始めることもないだろうから、どうせ私の口に入るのは温め直したもの。

 その上立地や内装、並べられたパンを見ても、この店の経済状況は知れている。

 よって、美食を知り尽くした舌を唸らせるようなものが出てくるはずがない。

 

「お待たせしましたぁ」

「キタキタ!」

 子供のようにはしゃぐグレインとは対照的に、品物を持ってきた店主の顔は葛藤に歪んでいる。

 一体どんなものを出してくれたのかしら。


 机に置かれたパンを手に取って、私は言葉を失った。

 なんと、温め直してすらいない冷たいパンだったのだ。

「これだよこれぇ!」 

 二つに切り分けたパンに野菜とハム、果実を煮詰めたソースを挟んでいるのだろう。

 深い工夫がされているワケでないばかりか、汁気の多いものを挟んでいるせいでパンのふわりとした弾力が損なわれているように見える。

 庶民はこんなものを有難がって食べているのか。

 思わずグレインに冷ややかな視線を投げる。


「ん?どうした? 早く食え美味えからよォ?」 

 食指が全く動かないし、正直なところ食べたくないのだけれど、目の前の満点の笑顔を崩したくない。

 おそるおそるそれを口に運び、


「――!」


 目を見開いた。 

「美味えだろ?」

 得意げに笑うグレインへ頷きを返す。

 すると、店主と拳を合わせて笑いあう。


 意外。

 そうとしか言いようがない。

 

 一口嚙みしめると、優しい甘味の中から刺激的な辛みが顔を覗かせた。

 辛みの正体はソース。様々なスパイスの多様な刺激が空腹を刺激し、煮込んだ果実の甘味がそれらに一体感を与えている。

 そして迎えるは厚切りのハム。確かな噛み応えとジューシーな旨味が充実感をもたらし、最後に新鮮な野菜の爽やかな食感が次の一口を誘う。

 手のひらサイズで携帯に適していながらもそのインパクトある味わいは、まさに昼下がりのお供。  

 

 冷えたパンはやや固い印象を受けたけれど、だからこそソースを受け止めて尚豊かな弾力を残している。

 深い工夫が無い?その逆。

 このパンはおそらく昼時は働きに出ている庶民が手を汚さずに美食を堪能する為に工夫を凝らした逸品。


「店主、このパンの名前を教えてくださるかしら?」

「あ、はい。それはハムフレッド、といいます」


 ハムフレッド。

 私はその名を庶民の底力として脳に刻み込んだ。


「美味しいわ」 

「だろ? 特にソースが美味えんだよ。俺も真似して作ってんだけど、なかなかこの味になんねえんだよなぁ!」

「あら、グレインは料理するの?」

「おうよ!帰ってきたらご馳走してやるよ!」

 

「楽しみね」

 笑顔を繕う。

 上手く笑えているか、それだけが不安だった。

 でも、グレインはいつもの笑顔を浮かべながら、

「任しとけ!」

 と言ってくれて、ほっとした。  

     

「っつーわけで、折角アイリスを連れてきてやったんだから、レシピ教えろおっさん!」

「ダメに決まってんだろ! このハムフレッドは姫様お墨付きのウチの看板商品なんだ!」 

「その姫様を連れてきてやった恩があんだろうが!」   

「うるさい! 絶対にお前には教えてやらん!……姫様もハムフレッドを召し上がりたい時は是非ウチに!」


 楽しい昼食を過ごした。

 

 その後、私はグレインに手を引かれながら、彼の過ごしてきた日常を歩く。

 よく買い物するという市場、子供の頃に遊んだ公園、最近子供が産まれたご近所の花屋。

 彼は歩く度に道行く人々から声を掛けられていた。

 頑張れよ、とか、こないだはありがとう、とか。

 いつものことらしいけれど、今日は私がいるから少し抑えめらしい。

 

 彼は自分のことをあまり話さないけれど、彼が善人であることは分かる。

 普通の人なんだ。彼は普通の良い人。

 そんな彼が、私は誇らしい。

            

 日が暮れて街に灯がついた頃、次のどこかへ行こうとする背中に声を掛けた。

「もう帰らなきゃ」


 そう言うと、振り返った彼の顔はしょんぼりとしてて、心の奥がちくりと痛む。

「今日はどうしてもやらなきゃいけない用事があるの」

 

「そうか……。そりゃあ仕方ねえ……よな」   

 彼は自分に言い聞かせるように頷いた。


「ごめんなさい。でも、今日は本当に楽しかった。忘れられない一日になったわ」

 笑顔を繕って、彼に贈る。

 楽しかったのは本当で、忘れられないであろうことも本当。

 だからこそ、とびきりの笑顔を拵える。

   

「……そりゃあ良かった!」

 パッと輝くようなグレインの笑顔。

 私の拵えた笑顔とは全然違う。 

 本物の笑顔。


「そろそろ行くわ」

 私は軽く手を振って、彼に背を向けて歩き出す。

 すると、駆け寄る彼の足音が聞こえた。


「最後に一個だけいいか!?」

 振り返ると、彼はポケットから何かを取り出して、

「ほら、手ぇ開け」

 と、どうやら何かくれるようだ。

 手を開くと、彼は手のひらの中身を押し付けるようにして、

「内緒で作ってたんだ」

 と少しだけ恥ずかしそうにはにかむ。


 手のひらに置かれていたのは、一対の指輪だった。

 でも、なんの装飾もないばかりか……


「なんで鉄?」    

 鉄の指輪なんて、聞いたことがない。

 錆びやすいし、そもそも美しくない。   

 彼の意図を図りかねていた。


「ゲン担ぎだよ。これが錆びるまでに帰ってくる、ってな?」


 胸がどきりとした。

 嬉しさと恥ずかしさと、それらの何倍も大きな罪悪感。 

 気持ちを押し殺して、表情を作る。


「ロマンチックだけれど、貴方らしくないわね?」

「少しくれえいいだろ?こういうのもよ」

「……そうかもね」


 指輪を夕闇に掲げて、彼からの初めてのプレゼントに想いを馳せる。

 すると、裏に文字が刻まれていることに気付いた。


「アイリス……ランゲイル……?」

 なんでエンシャンティアじゃないの?

 そんな意味を込めて、彼の笑顔を見据える。


「言っただろ? ただの女にするって」   

 自信たっぷりに、グレインは応えた。   


 嬉しくて、泣きそうになった。

 今すぐ、抱きしめてほしいと思った。

 このまま二人で結界の外に出て行って、本当にただの女に、アイリス・ランゲイルになりたいと思った。

 

 彼と過ごした今日という一日は、私のただの女の子としての将来の展望を鮮明にした。

 

 彼の妻になった私は、危ない仕事をする彼のことを心配するだろう。

 本を読んだり、織物をしたり、何か不安を紛らわせるものに没頭しようとして、それでも彼の帰りが待ち遠しくて、何度も窓の外を見る。

 それで、もしかしたら帰ってこないんじゃ、って怖くなった時、彼が「わりいわりい遅くなった」って、子供みたいな笑顔を携えて帰ってくるんだ。

 私はちょっとだけイジワルを言っちゃうと思うけど、すぐ嬉しいのが勝っちゃって、「おかえり」って笑う。

 きっとしばらく一緒にいられるから、お散歩したり、旅行をしたり、彼があれしたいこれしたい、って言うのに付き合ってあげる。

 彼はいくつになってもおバカで、世話がかかって、「貴方のお母さんじゃないんだからね」って言って。

 でもたまにカッコいいから、ご褒美にエッチなことだって許してあげて、二人で過ごすんだ。

 

 二年くらい経って、赤ちゃんが出来る。

 産まれてくるまではきっと彼がずっと隣にいてくれて、心配すぎるくらい心配してくれて、「ちょっとは落ち着きなさい!」って叱ったりする。

 赤ちゃんが産まれたら、彼は一緒に居る為にってパン屋の仕事を始めて、私と彼は子育てと仕事に追われて、忙しい日を過ごす。

 でも、きっと幸せだ。

 彼は赤ちゃんのことも私のことも、たくさん愛してくれるから。

 

 私は、グレイン・ランゲイルのことが好き。

 彼の奥さんになりたい。

 彼の子供を産みたい。

 彼と、末永く幸福を共にしたい。

 

 だからこそ、私はその将来を捨てる。

 私がこの世界の理を壊してみせる。

 

 彼を、グレイン・ランゲイルを、私の夫を、



 ――絶対に死なせない。



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