32話 追憶③ー4
――魔物は何故人を襲うのか?
幼い私は、そんな問いをじいじにぶつけたことがある。
じいじは「人間の魔力を捕食する為」だと教本通りに答えていたように思う。
実際のところ、人間は襲いくる捕食者達を殺そうとはしているが、理解しようとはしていない。
如何にして効率的に殺すかが興味の中心であり、魔物の行動に関する研究は早々に決めつけたのち棚に上げたままだ。
じいじはそう答える他なかったのだろう。
だが今この瞬間、十年近い時を経て、身をもって自身の疑問を解決することとなった。
地獄という言葉では足らないほどの恐怖が満ちた眼前の光景。
それを作り出すきっかけとなったのは、ほんの一瞬結界の外に触れた私の右手甲である。
これまで国民を守る祝福と尊ばれてきたそれは、病んだ血液のような赤黒い光を明滅させ、幾万の異形の目を奪う。
その禍々しい忌が自分の身体に刻まれていることに対する嫌悪と恐怖は、嘔吐しても尚消えることは無い。
透明の胃液を漏らし這いつくばりながら、この紋章がもたらすものが結界の祝福などではないことを嫌というほど理解できた。
『コッチ』
『デテキテ』
『マオウサマノモノ』
『ツレテク』
結界が破られることは無い。
我々人類は皆幼少の頃からそう教えられていたが、奇しくもそれは正しいらしい。
事実集まっている魔物の数なら王都の人間を一人残らず殺すことが出来るだろうが、彼らは目の前を阻む透明の壁の破壊を試みもしないのだから。
だが、結界は透明すぎた。
荒い息遣い、悍ましい言葉、酷い匂い。
彼らが携えた武力以外の全てが濁流となって私達を襲い、私は溺れないよう息をするのが精一杯だった。
「――ォオオオオ!!!」
グレインが自らを鼓舞するように雄叫びを上げ、剣を振りかぶる。
カチカチと鎧から音が聞こえて、彼が震えているのだと分かった。
しかし、剣が魔物共に突き立てられることは無かった。
「やめろ」
センドがグレインの肩に触れ、諫めるように呟いたのだ。
グレインは肩を上下させながらしばし葛藤した様子だったが、押し黙るセンドの眼差しに何かを察したようだった。
「大丈夫だ。誰も死なないし怪我もしねえんだから。ゆっくり息をしろ」
嗚咽とたどたどしい呼吸を繰り返す私の背中を、グレインが優しくさする。
センドとゲントルも私の視界を遮るように立ってくれて、皆が私を守ってくれている。
私は守られている。
ここにいれば安全だ。
そう思うことにして、自分の心が元に戻るよう努めた。
だが、私の心は落ち着くばかりかとうに張り裂けていて、元通りになることは無い。
自らに刻まれた紋章の正体。
それを解き明かした理性は感情を一切顧みずに騒ぎ立てて、私に現実を突きつける。
脳内で繰り返される暴力から自己を守る手立てなどなく、私は受け止めることなどできようもない重さに埋もれるしかない。
――私だったんだ。
私が国民を結界で守っていたのではなく、私が結界に守られていた。
私が国民にもたらしていたのは安全ではなく、終わらない恐怖と殺戮だったのだ。
この紋章は結界を生み出す祝福者の証でもなければエンシャンティア王家の姫たる証ではなく、魔物の王によって刻まれた魔王の妃たる証。
言うなれば、魔物を惹きつける『魔性の呪い』。
魔物が人を襲うのは私が、歴代の姫達が、この忌まわしい紋章を引き継いできた所為だった。
どういうわけか逃げ出してしまった妃を君主の元へ連れ帰ることがこの世の全ての魔物達の命題であり、私が結界からいつまで立っても出てこないから、おびき寄せる為に人を殺しているのだ。
この戦争が始まったのは私の先祖が魔王の元を離れたから。
この戦争が終わらないのは、私が結界の中で守られているから。
これまでの勇者は魔王のせいで、魔王を作った世界のせいで殺されているのだと思ってた。
でも違った。
勇者を殺していたのは、人々を殺していたのは、私だったのだ。
私がこの結界に守られているから、魔物は人を殺すのだ。
私が魔王の妃だから、勇者は殺されるのだ。
私がいるから、グレインは死ぬ旅にでなきゃいけないのだ。
――私のせいで彼は死ぬのだ。
内側から憎悪がとめどなく溢れてくる。
それは刻印を刻んだ忌々しい魔王に向けたものであり、こんな呪いを引っ提げて逃げてきた愚かな先祖に向けたものでもある。
でもそれ以上に、私自身に対してドス黒い感情が湧き上がってくるのだ。
私は何を思いあがっていたのだろう。
自分が存在することが国民の為になる?
それどころか私達一族がむざむざと生き永らえている所為で、国民は窮屈な中に押し込められている。
私が人間の姫だと勘違いしていたから、彼らの世界を縮めている。
私は強い?
結界の中でぬくぬくと暮らし、自分の正体も知らずにほざいたバカの戯言。
私に出来ることなんて何もない。
グレインを死なせない?
指の先が結界の外に出ただけで、国民を皆殺しに出来る数の魔物がやってくる。
私と一緒にいることが、彼を死に追いやる。
私が、私こそが、この世界の膿なのに。
「あぁ良かったぁ。 諦めたみたいだねえ」
ぐちゃぐちゃの頭の中に、ゲントルの穏やかな声が差し込まれる。
隙間から結界の方を見据えると、解散する魔物達の姿があった。
彼らはこちらに一瞥もくれず、まるでここに来た理由を忘れたかのように、呆然とそれぞれの棲家に帰っていく。
私の右手甲も、ただの黒い刻印に戻っていた。
その後、私はグレインに支えられながら帰路についた。
彼らは見たことを忘れようと、私から遠ざけようとして、くだらない話に花を咲かせた。
でも、私はどうしても彼らの話に加わることが出来なかった。
自分のことが醜悪で悍ましい化け物のように思えてならなかった。
彼らはいずれ旅に出る。
そして、魔王に殺される。
他ならぬ私が生きている所為で。
私が結界の中に隠れている所為で。
城に帰ってから、私はすぐにボックスを問い正した。
ボックスはただ、「申し訳ありません」と呟くだけだった。
何かを懸命に抑え込むような、痛々しく歪めた顔をしていた。
泣き疲れ、叫び疲れ、出涸らしになった私に、彼は違う言葉を呟いた。
「どうか貴方様は、穏やかな世界でお過ごしくだされ」
と。




