3話 壁の外の小汚い男
「おかしいな」
森を出て三日。眠いお腹空いた喉乾いたと文句を並べる脳内幼女――仮称:ヒメの機嫌を繕う為、ニョロは大草原上空から停泊に適した水場を探していた。
幸いにして草原を南北に両断する川が早々に見つかり、ほとりに降り立ったのだが、周囲の様子に対する違和感を口にする。
(どうかしたの? 早くご飯食べたいよ!)
それもそうだ、とヒメの言葉に頷いて、水面に尻尾を浸す。
尻尾を揺らして数分もすれば食いつきがあり、
(おさかなだぁ~!)
引き揚げると小ぶりな魚が3匹捕れた。
早速生魚にかぶりつこうとするが、
(生はイヤ! もー!ほんとワンちゃんなんだから! 焼かないとお腹壊しちゃうでしょ!? まずは火をつけなきゃだから枝!乾いてるやつを集めて!それで火をつけて、魚の頭から枝を刺して……)
それを制したヒメが、あれやこれやと指示をする。
軟弱な、と思いながらも、ニョロ言われた通りに拾い集めた枝をくべ、魔法で火を起こす。
それから魚に長い枝を通し、火に立てかけるように地面に刺す。
「もういけるだろう」
(めっ!ワタシがよしっ!って言うまで食べちゃダメだからね!)
「もっと火力をあげるべき……」
(めっ! じっとしてて!)
「もう少し火に近づけるべき……」
(めっ!って言ってるでしょ! もー言うこと聞きなさい!)
焼き始めて数分。魚を触ろうとしてはヒメに叱られて、焚火の前で手持無沙汰なニョロ。
尻尾で石を転がしながら、先ほどから覚える違和感について考える。
――魔物がいない。
確かに最近は森でも見かけなかったが、この大草原、更にはこの三日間の旅でさえ、ついぞ一度も魔物と遭遇することはなかった。
そもそも自衛できるとは到底思えないヒメが魔物に食われず森に到達したことが既におかしかったのだ。
一帯の魔物がどこかへ移動しただけなのか、それとも死滅したのか。
現時点で原因を突き止める術はないが、少なくとも人間の集落から森までの範囲は人間にとって危険地帯ではないらしい。
「灰になってしまうぞ」
(めっ!!!)
魚を火にくべるという異常行動を求められ、幼体の世話は面倒だ、と思うニョロであった。
それから数十分経った頃、ヒメの合図をもって表面の焦げた魚を口に運ぶ。
(美味しいでしょ~?)
水分が抜けパリっと焼きあがった皮、ふわりとほどける柔らかな白身。
決して未調理では味わうことのない心地よい食感の後、香ばしい香りが鼻をくすぐる。
そして生の時よりも凝縮された魚本来の味わいが舌を喜ばせ……ているのだが、
「難解な味だ。回答には時間を要する」
狼歴が長かったニョロにとって、人間の味覚は複雑であった。
(ふーん。すごいおしっぽ振ってるのにぃ~?)
「何が言いたい?」
(別にぃ~?ふふふ!)
ヒメの態度に疑問を残したニョロは三匹の魚を平らげるまで、繰り返し「難しい」とつぶやいた。
森を出て五日。太陽が真上で輝く頃に、ようやく旅に終わりが見えた。
小指の先ほどに小さく見えていた目的の地は、今や視界の半分を遮っている。
人間の街――正式な名を知らないニョロがそう呼称する場所は、白く聳えた城を中心に家々を敷き詰め、それを堅牢な城壁で囲う城郭都市であった。
空から見た都市の規模、周囲の家屋らしき建造物の数を考えると、この壁の中には数千、いや数万の人間が暮らしているだろうと想定する。
――魔物との争いの中でこれほど数を増やすとは、さすが高い知能を持つ人族、といったところか。
ヒメはその大きさに歓声を上げるが、あらゆることに興味を示さないような顔をしたニョロとて、その積み重ねられた人間の歴史には少々の感心を抱く。
このまま飛んで空から侵入すると警戒される恐れがある、と考えたニョロは城壁から少し離れた林に降りると、そこから真っすぐ城壁に向かう。
しかし入口は別の方角にあったらしく、見渡したところで威圧的に壁が聳えるばかり。
城壁の真下まで来て考えた結果、人間の見た目をしているのだから騒ぎにはなるまいと、森のどの木よりも高い城壁の頂上を見据えながら、
「飛ぶぞ――」
とヒメに合図をして足が地面を離れた瞬間、
「何が『飛ぶぞ』だクソガキィ」
背後から意表をつく、不機嫌な低音。
「ぎゃっ!」
さらに尻尾の根本を掴まれ、不意に悲鳴を上げるニョロ。
(あはは!ぎゃっ!って言ったぁ!か~わいい!)
ニョロの珍しい姿を見てご機嫌なヒメ。
「見たことねえ尻尾だな。どこの亜人だ? なんでこんなとこにいやがる?」
尻尾を捻られて視界が半周すると、そこには眉間に皺を寄せた男の姿があった。
軽装の鎧を着てはいるが、無精髭と伸ばしたままのまばらな金髪がいかにも粗暴な風体。
装備の上からでも分かるほどに鍛え上げた肉体、腰に剣を下げていることからして、この街の戦士か、とニョロは推測する。
「小汚い男、何か用か?」
「誰が小汚い男だ! 何でこんなことにいんのか聞いてんだ。答えろ」
「見れば分かるだろう? 街に入りたいのだ」
ニョロの無表情から発される感情の一切が凪いだような物言いに、男が舌打ちをする。
「この壁が何であんのか分かるか? てめえみたいな馬鹿が勝手に入れねえようにする為だ」
「馬鹿じゃないが。それと早く下ろしてくれ」
「ダメだ。おめえは怪しいから詰所に連れていく」
男は尻尾を掴んだまま、壁を沿って歩き始めた。
「ツメショ、というのはどこだ?街の中か?」
「教えねえ」
「街の中を希望する」
「だから教えねぇってつってんだろ!あとで散々喋らされんだから黙ってろ」
「ほう。俺の話を聞きたいのか。ならばいいだろう。このまま運んでくれ」
「お前ホントむかつく奴だな? ガキが偉そうにすんな!」
「ガキじゃないが。黙って運んでくれ」
「こいつ……!」
次第にニョロに優位を奪われ、眉間の皺がみるみる深くなる。
ニョロにとっては怒りが籠った人間の表情、という程度にしか映らないが、その剣幕は寄る辺なき幼女にとっては恐怖そのものであった。
(こ、こわい……こわい)
その時、宙ぶらりんのニョロの脳内に、恐怖に震えたヒメの声――脳内号泣炸裂の緊急警報が発令される。
「頼む小汚い男。もう少し優しくしてくれ」
「あ?てめえのせいだろうが!!」
怒気を孕んだ男の声が鼓膜を揺らすと、
(うっ……ゔっ……)
脳内に水音混じりの呻き声がこだまする。
「お願いだ。これ以上は泣いてしまう」
「泣いてみろや無表情!泣けるもんならなぁ!」
(うえええええええん!!!)
――炸裂。
男の言葉を合図に少女の号泣が始まる。
音の暴力に脳髄が軋み、逃れようと全身が強張って制御を失う。
縋る思いで耳を抑えるが、手のひらは環境音を遠ざけるだけ。
触手本体が脱出できない狭い檻の中でもだえ苦しみ、それに伴って体外の尻尾が変形と硬直を繰り返す。
悶えながら小さな呻き声を上げ始めたニョロに、気付いた男は酷く動揺した様子で、
「おい!大丈夫か!? 様子がおかしいぞ! まさか本当に泣いて……」
ニョロを身体の前で抱え、顔を覗き込む。
「ああ。今、泣いて、いる」
が、身体を震わせ尻尾が脈打つニョロの顔はやや不機嫌、といった程度で涙は無く、
「いや泣いてねえじゃん!?」
男は更に動揺し、困惑を叫ぶ。
「ど、どうしちまったんだよ!? どこか痛いのか?」
「お、お前が泣かせた、からだ。頭が、いたい」
「よく分かんねえけど悪かったよ! とりあえずこのまま詰所まで行くからな!」
男はニョロを身体の前で抱きしめ、尻と頭を抱えながら城門へ走る。
「何かしてほしいことがあれば言ってくれ!」
(イヤ!!嫌い!!)
「今は無い」
「そうかよ……」
居心地が悪そうに口を歪め、視線を前方に移して走りに集中する男。
しかし、
(あたま、なでてッ!!)
「頭を撫でてくれ」
「ええ……!?」
さも当然のことように前言撤回した可愛らしい要望に、彼の思考が置き去りになる。
「もうなんなんだよ……!」
ニョロの頭を不器用に撫でながら嘆いた男の眸には、わずかに涙が滲んでいた。
ほどなくして城門に到着した頃にはヒメは泣き止み、無表情に戻っていたニョロが言う。
「もういい。降ろしてくれ」
汗と疲労に塗れた男は壊れないようにニョロを降ろしたあと、おそるおそる尋ねる。
「もう頭は痛くねえのか? 大丈夫なのか? 医者にみてもらったほうがいいんじゃ」
「既に泣きやんでいるから平気だが?見れば分かるだろう?」
平然と答える様子に男は頭を抱え、
「そもそも泣いてなかったじゃん……」
憔悴した様子で呟いた。