29話 追憶③ー1
「はぁ……」
昼下がりの執務室。
分厚い書類の束に囲まれて、私は大きなため息をつく。
グレインに会ってから、一週間が経った。
彼は私を抱く為の時間を使って、毎晩私を夜空の下に連れ出した。
――ほら行くぞ? 不良少女!
彼は決まって窓から現れて、私に笑いかけた。
イタズラ好きの子供みたいなクシャッとした笑顔で、力強い腕で私を優しく抱きしめて、月光の中を跳ねる。
デート、なんて高尚なものじゃない。
夜の街や夜の空を眺めながら、彼のくだらない話を聞くだけ。
どこかで食事するわけでもなければ、何かプレゼントをくれるわけでもない。
元々期待なんてしちゃいなかったけれど、グレインには女性をエスコートするという気概も、喜ばせる技も持っていないようだった。
ただ小っちゃい子みたいにニコニコしながら、私との未来を嬉しそうに語る。
彼は犬を飼いたいそうだ。
狼みたいなカッコいい犬を赤ちゃんから育てて、私との子の護衛兼友達にするらしい。
彼はパン屋になりたいそうだ。
朝が早くて辛いけど、彼が作ったパンを私が売る。
売り切れたら早めに店を閉めて、そこからは家族の時間を過ごすらしい。
彼は旅行に行きたいそうだ。
月に一回は私を連れて、自然の中をゆっくり歩く。
疲れた私をおぶれるように、いくつになっても訓練は欠かさないらしい。
どれも、小さな夢の粒。
小さすぎて、姫である私の手のひらからは零れてしまう。
彼の話につい微笑んでしまう自分がいる一方で、話に出てくる彼の妻を自分のことと思えない自分もいた。
でも、彼はそんな私に気付いてはこう言った。
――アイリス。俺が絶対にお前を連れ出してやる。
彼は零れた夢の粒を掬い上げて、私がしっかり握りしめるまで手のひらに注ぎ続けるのだ。
私はそんな彼の眼差しの奥に夢を見て、顔が勝手に熱くなって、どうしようもなく頷いてしまう。
すると、彼はまた遠くを見ながら、夢の話を始める。
その横顔を見ているだけで、あっという間に時間が過ぎていく。
そんなとりとめもない、なんてことのない夜の数時間。
それだけのことが頭に浮かんだだけで、私の仕事の手が止まる。
書類仕事なんてとっくに習慣づいていて、勝手に手が動くようになっていたはずなのに、それでもふと現実に帰ると、書類の山が減っていないことに気付くのだ。
日中から彼と過ごす夜のことを考えて、その先にある未来に想いを巡らせて、なんとなく顔が熱くてボーっとしてしまう。
そんな悶々とした日々を過ごす自分に、私はうんざりしているのだ。
野盗みたいな汚い身なり。
粗野な言葉遣い。
教養を微塵も感じられないバカ丸出しの男。
王族どころかそもそも女性の扱いをちっとも知らないような、どこを切り出しても姫たる私には似合わない。
そんな男にちょっと優しくされただけ。
ちょっと欲しかった言葉を言われただけ。
それだけなのに、何度も私の顔を熱くして、心を温かくして、夢想の世界に私を誘う。
「アイリス様」
「――!? な、何かしら?」
ボックスの呼ぶ声に現実へ引き戻された私は、つい声を上ずらせてしまった。
すると、口元をニタリとさせたボックス。
「グレイン殿のことを考えておりますな?」
「な、なんでそうなるのかしら? 私は次期王としての仕事が忙しくて、彼なんかのことを考える時間も余裕も必要性もないのだけれど? おかしいことを言わないでくれるかしら?」
本当にじいじは目聡い。
まるで私のことならなんでも知ってますよと言わんばかりに、いつもこうやって私の胸中を言い当てる。
つい早口に言い返してしまう辺り、私は彼に敵わないらしい。
「ふっふっふ。爺にはお見通しですぞぉ? なんといってもアイリス様。今の貴方は――恋する乙女の顔をしておりますからなぁ!」
でも、この時ばかりはじいじに言わせたままにしておくことは出来なかった。
「――こッ!? してないけれど!? なんであんな汚らしい男にこの私が!? あ、ありえないのだけれど!? 私はあくまで姫として彼の妻となる義務があるから仕方なく彼のことを考えざるを得ない状況にあるだけであって、彼に対してそういった個人的感情を持っているわけでは決して無いのだけれども! 」
確かに彼のことを考えていたことは本当だし、顔が火照っちゃうのがそう見えちゃってるのかもしれないけれど、恋なんてそんな……バカらしい!
だから老いぼれにも分かるようにちゃんと説明してあげたのだけれど、じいじはまるで子供を見るような優しい眼差し。
「勇者が見つかったと報せて以降、アイリス様はずっと浮かない顔をされておりました。ですがグレイン殿が来た翌日から、ずっと表情が明るいのです。姫となられる前のおてんば少女に戻られたような、それでいて何かを尊ぶ聖母のような、そんなお顔をしておられます」
穏やかに語るじいじの言葉には、過去を偲ぶ思いも、私の成長を喜ぶ思いも込められているように感じた。
だが、その中には確かな憂いが潜んでいて、私に罪悪感を思わせるものだった。
目敏いボックスには、なんでもお見通しなようだ。
私がグレインと子作りしていないことも、夜な夜な城をでていることも、とっくに把握しているのだろうと思う。
その上で、じいじはそのことを私に言わない。
彼は決して不満を言うことはなかったが、勇者を送り出す為の慣習に対して少なからず負の感情を抱いていることは知っている。
勇者が見つかったことを私に伝えたあの日、拳を震わせる彼の姿は今でも鮮明に思い出す。
だからこそ彼は、私とグレインが慣習に逆らうのを、姫と勇者がすべきことをしていないのを、咎めない。
それが分かっているからこそ、彼の朗らかな笑顔が痛くて痛くて仕方が無い。
押し黙る私に、じいじはただ一言だけ。
幼少の頃から口酸っぱく聞かされているお決まりの一言を告げた。
「決して街の外にだけは出てはなりませんぞ」
当然のことだ。
これは結界の祝福者たる姫に課せられたしがらみ。
魔物が蔓延る外界から街を守る大結界を維持するには、結界の内側に居なくてはならない。
事あるごとに何度も何度も言われていることで、とうの昔からうんざりしている私は「はいはい」と軽い返事をして流していた。
これまでは。
でも、この時ばかりはいつもと比べやや低い声色が、私の芯を食ったような心地がして、目を合わせることが出来なかった。
――あぁ、本当に目聡いなぁ。
私の胸の内にある一つの考えが、ズキズキと痛むのだ。
――――
待ち遠しかった夜がやってきた。
ベッドで横になりながら、何も居ない窓の外を見つめる。
グレインはいつも私を待たせる。
でも、私は彼に理由を聞かない。
遅い理由はなんとなく分かっているからだ。
汗と土の匂い。
いくつも傷を作っているし、手のひらには新しいマメができている。
彼の身体に残された修練の跡が、決して努力を見せたくないらしい彼のことを教えてくれる。
だから、彼がついた「嘘」に気付いてしまったのだ。
――死んでも死なねえ。
私はそう言い切る彼の眸に未来を見た。
本当にそうなのかもしれないと、そう思わせる何かがあった。
だから、私は仕事の合間を縫って「勇者」について調べ、その何かを確信に変えたかったのだ。
そして、それは勘違いだったことが分かった。
勇者とは、突然見つかるものだ。
誰かが選ぶわけでもなければ、自ら名乗るものでもない。
その世代を代表する強き戦士の中で一人だけ、突如として右胸部にハート型の紋様が現れる者がいる。
その紋様がいわゆる――勇気の祝福紋と呼ばれるもの。
つまり勇者とは「勇気の祝福者」のことであり、紋様が発現した者を勇者と呼ぶのだ。
私はグレインの胸部を見たことは無いが、彼が勇者である限り必ず紋様がある。
だからこそ、彼は姫である私の夫となる権利と魔王を打ち倒す旅に出る義務を持つことになった。
しかし、「勇気の祝福」が持つ力が問題なのだ。
勇者の祝福が授ける力とは、その名の通り「勇気」。
魔王という強大な敵に立ち向かう為――恐怖を覚えなくなる力。
それだけなのだ。
グレインはただ、祝福に与えられた勇気によって、魔王に殺される気がしなくなっているだけなのだ。
死んでも死なないのではなく、死ぬ気がしない。
そう確信してしまうほどに、自分の力を過信しているだけの――祝福に踊らされた哀れな男。
それが魔王に殺されてきた歴代の勇者と呼ばれる者達の正体であり、私の夫の正体だった。
ゆえに、彼は確実に魔王に殺される。
私を外に連れ出すことも、彼の夢を叶えることも出来ない。
彼の眼差しに見た私の将来は、まやかしだ。
だからこそ、私は考えた。
――私が魔王を倒せばいい。
何もあんな男に全てを託す必要なんて初めから無かった。
彼の魔王を倒す旅についていき、私が直接魔王を殺せばいいのだ。
姫という立場になってからというもの、私はすっかり「淑やかな姫」という型にはまってしまっていた。
しかし、本来の私はやりたいことをなんでもやる女だったのだ。
伊達にあの老獪なボックスを毎日困らせていないのだ。
私にはじいじさえ困らせる強い意思がある。
攻撃、治癒などなんでもござれの魔力がある。
その上に「吸収の祝福」まである。
私は強い。
勇者に助けを求めるだけのか弱いお姫様なんかじゃない。
決して大昔の顔も知らない先祖が決めた慣習に黙って従うような女じゃない。
私は――自分の将来を自分で切り開くことが出来る女だ。
今思えば、私の世代の勇者がグレインだったことは神の思し召しなのだと思う。
死ぬ勇者と子を成す運命を無抵抗に受け入れていた私の目を覚ましてくれたのだから。
「ま~た遅くなっちまったぜぇ! 起きてっか?」
その点では、彼に感謝しなければならない。
そう……。そうなのよ。
私が彼に抱いている感情は恋ではなく、私に私らしさを思い出させてくれたことに対する恩。
「なんだ寝てんのか……って目ぇバキバキに開いてんな!? 考え事か?」
彼の旅についていくのは別に彼と一緒にいたくてたまらないとか、寂しいとかそういうわけではない。決してない。
全然あんな小汚い男好きじゃないのだけれど、恩は返さないといけないという淑女としての嗜みというか、そういうやつであって。
でも仕方なく? あの男が私のことを好きで好きで堪らない様子が可哀そうだから? まあ義務的なアレで仕方なく妻として………
「アイリス?」
「ぴゃい!?」
気が付くとグレインが私の顔を覗き込んでいて、つい変な声を出してしまった。
思考に熱を上げ過ぎて周囲が見えなくなるのは本当に私の悪い癖ね。
「ぎゃはは! んだよその声!」
「な、なんでもないわよ!」
おかげで笑われる羽目になってしまい、ケラケラと笑うグレインを睨みつけた。
でも、彼は私の怒りなんて意にも介していないように小首を傾げた後、
「ん~? 熱は無ぇみてえだなぁ」
あろうことか、おでことおでこを引っ付けたの!
私はすぐに彼を押しのけて、距離を取った。
「な、ななな………!? なにするのよ!?」
「いや顔が真っ赤だからよ? どこかわりいんじゃねえかと思って」
しかし、彼はなんでもないような顔をしてそう言ったのだ。
「こ、これは別に熱とかそういうのじゃなくて………そう! 今日決行する作戦について考えていたのだけれどつい入り込みすぎちゃって、それで赤いのよ! け、決して貴方のコトを考えてそうなったとか、こ……ぃする乙女の顔とかそういうことでは全くこれっぽっちも無いのだけれど!?」
私はどうしても彼に勘違いをして欲しくなくて、バカなグレインにも分かるように説明してあげたわ。
少しだけ早口だったかもしれないけれど、それは照れ隠しとかではない。絶対に。
すると、彼は黙って私の弁舌を聞いたあと、
「そうかよ。そりゃ良かったぜ!」
子供みたいに笑うのだ。
――あぁ。本当にうんざりする。
私は私自身に呆れてしまう。
どんなに取り繕っても、どんなに思考を並べ立てても、彼の笑顔を見せられるだけで全部分からなくなる。
顔が熱くて堪らない。
鼓動が早くて苦しい。
彼の眸を直視出来なくて、でも見たくて。
私の心が乱されてしまう。
認めたくない。
でも、認めざるを得ない。
この笑顔だ。
この笑顔が、私を私に戻してくれたのだ。
この笑顔をずっと見ていたいから。
この笑顔に消えてほしくないから。
――私は「姫」を辞めるのだ。
「ねえグレイン」
「ん? どうした?」
高鳴る鼓動も顔の熱もそのままに、きょとんとした彼に言葉を伝える。
今の気持ちを全て込めた一世一代の告白。
「今日、結界の外に出てみたいの」
私を縛りつける全てに対する開戦の狼煙である。




