24話 再会と決別
ニョロとクリンカーを乗せた馬車が王都に入った頃には、まばらに街に明かりが灯り始めていた。
魔物バレを隠滅する為に殺人を企てた挙句、阻止された途端帰りたいと泣き喚いてしまった魔物が操作する少女は、泣き腫らした目でじっと王城を見つめている。
一方魔物の攻撃を防いだと思えば急に泣かれてしまいバツが悪い不良衛兵は、その真意を明らかにせぬまま、少女のそわそわと揺れる桃色の尻尾を視界に入れている。
エンシャンティア城へ向かう中、二人の間に会話は無い。
王城の門が見え、旅の終わりが目前に迫った頃、しばらく沈黙を貫いていたクリンカーが口を開く。
「ガキンチョ、テメェの正体は誰にも言わねぇから安心しろ。でもなぁ、もしテメェがこの街にちょっかいかけようとしてんなら俺はお前を殺すから。それだけは覚えておけ」
いつも通りの不良口調だが、やけに真に迫ったような、力が籠った言葉であった。
彼の「殺す」に少し怯えを見せたニョロだったが、少し考えた後「ん」と小さく頷いた。
次第に大きくなる「帰る場所」を見つめていると、門の真下に人影が見えた。
徐々にニョロの眸はその輪郭を捉え始め、黒い執事服を着た細身の老人であることに気がつくと、
「じいじ」
呟きと共に立ち上がり、尻尾を回して身体を中空に委ねる。
地面スレスレで揚力を得た身体は屋根ほどの高さを飛行し、夕飯時の街人達の視線をさらう。
「……おどかすんじゃねえよ」
クリンカーは飛び立つ幼い背中を望みながら悪態を吐くが、その表情はいつになく朗らかなものであった。
「じいじ」
粗暴な衛兵も、街人の好奇の目も、ニョロの視界には入らない。
門の直下で手を広げる年老いた男に向かって、ただひたすらに尻尾を回す。
緩やかに速度を落とし、ふわふわと門の下まで舞い降りると、ボックスの胸が迎え入れた。
「お帰りなさいませ」
ボックスはごく自然体だった。
秘密を探るニョロを城に居させたくなかったはず。
だからこそペイシャン村に送り出したはず。
それなのに、まるでおつかいから帰ってきただけかのように、幼い少女を懐で暖める。
ずっと見たかった穏やかな微笑み。
ずっと聞きたかった優しいしわがれ声。
ずっと会いたかったボックスの手に抱かれ、泣き腫らした顔が歪む。
「じいじ」
「はい。じいじです」
涙を湛えた少女の呼びかけに、老執事は優しく応える。
「じ、いじ」
「じいじはここですぞ」
少女の頬を涙が伝う。
嗚咽混じりの声色が欠けた耳に届くと、朗らかに曲げられていた口元が、かすかに震えを帯びた。
「じい……ゔっ……うぅ」
嗚咽の濁流が言葉を流し、少女はもう言葉を紡ぐことが出来ない。
それでも、どうしてもその人を呼びたくて、しゃくりあげる喉を抑え込もうと、水音を仕舞い込もうと、その人の胸の中で懸命にもがく。
「はい……。じいじは、ここに……いますぞぉ?」
抱きしめる手が力を帯びて、応える言葉の抑揚が乱れる。
とうに干からびたはずの頬を、堪えたはずの一筋が流れる。
「ゔぅ……! ゔえええええん……!」
少女の決壊した感情が響き渡ると、老執事の膝が崩れ落ちた。
「おか、えり……なさいませ……っ! おかえりなさい、ませ……!」
探る魔物と隠す人。
相容れぬはずの二つの影が、互いの心を露わにする。
たった二日。
それが彼らの間にあった、別れの期間。
それなのに、そのはずなのに、二人の姿はどうしようもなく
――数百年ぶりの再会に見えた。
街の灯りが完全に灯った頃、ニョロはボックスの胸に抱かれたまま、あどけない寝息を立て始めた。
老執事の袖をぎゅっと握りしめていた手も、これでもかと巻き付けていた尻尾も、すぐにもほどけてしまいそうなほどにか弱い力である。
老体はそんな少女の姿に少し赤くなった目を細めると、優しく頬を合わせた。
城壁の影で様子を伺っていたらしいクリンカーが顔を出すと、頭を搔きながら、
「おいジジイ。そいつは……」
そう言いかけたところで、ボックスが大きく首を振っていることに気付き、黙り込む。
ボックスはニョロを起こさないように立ち上がり、街に背を向けて歩き出す。
少しだけ歩いたところで、二言だけ口を開く。
「貴方には関係のないことだ」
「二度とこの子に関わるな」
絞り出したような言葉を構成するのは怒り。
しかし、奥底に潜ませた懺悔もまた、染み出しているようだった。
クリンカーは天を仰ぐが、ボックスが振り返ることは無かった。
――――
枯草の匂いと骨ばった暖かみ。
瞼の外はほのかに明るくて、じんわりと目元の腫れを癒す。
背中を叩く、穏やかな手のひら。
ペンが紙を引っ掻く音が心地よく、まどろみを抜けるのを優しく手伝ってくれる。
「おや、目を覚まされましたか」
ニョロが目を覚ますと、頭上から囁きが降りてきた。
片手にニョロを抱きながら、書類仕事をしているらしいボックスである。
書棚が並ぶ狭い部屋だった。
机の上に置かれた灯りだけが光源で、ぼんやりとボックスの顔を照らしていた。
「起きた」
ニョロはそう言うと、だらりと下がった尻尾を持ち上げて、老執事の身体を抱きしめる。
「そうですか。もう少しかかりますが、横になりますかな?」
問いにニョロが首を振ると、「そうですか」と言ったボックスは小気味の良いペンの音を立て始めた。
揺らめく灯りに照らされて、背中を叩く手のひらを感じながら、ニョロはただ安堵に身を委ね、何も考えず、そこにいる。
「アイリス様も、こうしているのが落ち着くのだと、言っていました」
しばらくすると、ボックスが語り始めた。
ニョロに聞かせるというよりは、自らの中で反芻したものが溢れ出ているような、そんな話し方である。
「嫌なことがあった時や、なんとなく寂しくなってしまった時。こうして私の仕事する近くで、ただじっとされるのです。私を振り回して、やりたい放題のおてんば娘でしたが、それでもいつも、私の側にいようとしてくれるのです」
ボックスは新しい紙に手をかけて、またペンで何かを描き始める。
ニョロに手元は見えないが、慣れた手つきだということだけは、音で分かった。
「私はそんなアイリス様のことを愛おしく思っております。三百年前だろうと、たとえこれから何百年と過ぎようと、それは絶対に色褪せず、ずっと私の懐にあるのです。だからこそ……」
そこまで言ったボックスがペンを置く。
開いた右手も使ってニョロを優しく抱きしめるが、その腕に、声に、僅かに力がこもる。
「だからこそ、貴方はアイリス様では無いのです」
ボックスの言葉は、ニョロに対する別れの言葉であった。
「貴方には貴方の人生を生きてほしいのです。記憶に囚われず、老いぼれに囚われず、貴方だけの人生をお送りください」
まるで自分に言い聞かせているようにも感じる。
しかし決意の込められた言葉達は、浸食され始めた自我を飛び越えて、ニョロ――触手の魔物の脳内に一語一句逃さずに伝わった。
「それが、爺の心からの願いです」
穏やかで力強い、複雑な感情を湛えたしわがれ声は、ニョロのある一つの感情を揺らす。
――罪悪感である。
ニョロはいつしか知らず知らずのうちに、アイリスに向けられたボックスの深い情を享受し、尊び、求めるようになっていた。
しかし、それは植え付けられた記憶の代償であり、魔物が本来欲してはならない贅沢品であり、受け取るべき人が他にいる。
ボックスが見ているのは、話をしているのは、愛おしく思っているのは、ニョロの中にいるヒメ。そしてその先にあるアイリスだ。
ニョロはただ、ヒメの身体を偶然拾って出られなくなっただけの触手でしかなく、ボックスにとってみればアイリスとの間を塞ぐ邪魔な壁なのだ。
ニョロは気付いてしまった。
ボックスがニョロを受け入れないのは、自分がアイリスではないから。
ヒメがアイリスになれないのは、自分がいるから。
ボックスがアイリスに会えないのは、自分がいるから。
――自分がいると、ボックスは幸せになれない。
一人で歩き始めたばかりの感情にはあまりにも重すぎる結論を、ニョロの理性は導き出した。
求めてやまない老執事の服を握りしめ、眸から落涙させながら、ニョロは震える唇を嚙みしめてから、言葉を吐く。
「俺は……アイリス・エンシャンティアではない」
自分に言い聞かせるように、決意を揺らがせないように、感情を封殺する。
「だが、この身体はアイリスだ。脳の中にあるもう一つの精神もだ」
レイラの書斎で初めて問答をした時のように、魔物として。
ボックスを愛しいじいじではなく、秘密を隠蔽する老執事として。
「だからこそ、俺はお前の隠していることを明らかにせねばならん」
ボックスの抱く手を押しのけて足元に降りると、椅子の脚の間を抜けて扉の前に立つ。
袖口で目元を拭い、一つ息を吐き、強く拳を握りしめて、喉笛を絞る。
「執事長ボックス。絶対にお前の元にアイリスを連れてきてやる」
ボックスが何かを言おうとしたのが聞こえて、急いで暗い廊下に飛び出したニョロ。
(よかったの?)
「よかったも何もない」
ヒメの声に吐き捨てて、また溢れてきた涙を振り払い、ニョロはトコトコ歩き出す。
「アイリスの記憶を取り戻して、この身体をお前に返す。俺がすることはそれだけだ」
決意が込められた言葉とは裏腹に、小さな背中は震えていた。
ニョロが城に戻ってから、二日が経った。
戻ってきた理由をボックスが聞くことはなかった。
レイラもレイニアも深く聞いてくることはなく、なんの滞りもなく再びエンシャンティア城の営みに加わることになったニョロ。
それはボックスの思惑か、はたまた別の理由によるものなのか。
理由は何にせよ、ニョロは当初の計画通り、城でこの日を迎えることとなる。
――継承の日前日。
ペイシャン村への出立前にレイラと交わした約束である「継承の日の聖堂」潜入作戦の決行日だ。




