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23話 恐怖と涙


「――答えろよ? なぁ?」

 

 広けた平野に、馬車が一台。

 御者が懸命に縄を張り、少しずつ速度が零に近づいていく。

 馬車が完全に停止すると、馬がいななきながら足踏みをして、小さな土煙があがった。


 馬車の荷台の上でニョロに対峙するは、不良衛兵クリンカーである。

 

 粗暴で口が悪く、顔も狂暴でおそらく頭も悪い。

 でも彼の「はむふれっど」はあるだけ食べたい。

 ニョロの評価はそんなところで、情報源としても警戒すべき相手としても意識の外であった。


 クリンカーは荷台のあおりにもたれかかったまま、ただニョロを視界の中心に添えている。

 腰に下げていた剣も今は床に転がしており、それに触れようともしていない。

 

 取るに足らない一人の人間が、ただ見ている。

 それだけなのだ。


 それだけなのに、ニョロは完全に硬直した。

 

 口も拳も固く締めたまま、本人の意思を問わず揺れる尻尾でさえもこの時ばかりは静止している。

 しかし、そんなニョロの中でただ一つ、胸の高鳴りだけが、かつてないほどに早まっていた。


 クリンカーの視線がニョロに与えたのは、まるで鋭利な刃物を喉元に突きつけられているかのような、直感的に死を連想させるほどの恐怖であった。


 自分は不良ですよと言わんばかりの粗暴な口調は、これまでと至って変わらない。

 姿勢もごく自然体で動きを見せる様子は無い。

 だがその表情だけが、溢れんばかりの憎悪を内に秘めたような、今にもそれが爆発しそうな、そしてそれを必死に堪えているような、膨大な感情を込めた――無表情なのだ。


 ニョロはそれが怖くて怖くて堪らない。

 理性と本能、そのどちらもが死を予期しており、それなのに恐怖が身体を強張らせ、動くことが出来ない。


「黙ったままじゃ分からねえだろ? なんでテメエから魔物の匂いがすンだ、って聞いてんだよ」


 ――なぜバレた?


 僅かにも身じろぎ出来ない中、ようやく働き始めたニョロの思考が考察していたのは、身を守る術ではなく、この状況に至った原因について。

 

 クリンカーはニョロから魔物の匂いがする、と言っていたが、街の他の者が気付く様子は無かったことからして、彼の嗅覚が優れていると仮定する。

 それならば、何故王都の壁の外で出会った時点で言及しなかった?

 考えられる理由としては「汚れていた為に魔物の匂いに気付かなかった」といったところだろう。

 あの時に魔物であると察していたならば、城壁を飛び越えようとした時点で殺されていたはずだ。


 しかし、この仮定はクリンカーが言う「匂い」がそのままの意味だった場合であり、もし「気配」や「直感」などの第六感めいた意味での「匂い」だった場合は状況が大きく異なる。

 その場合、クリンカーはニョロが魔物であると最初から気付いていたことになる。

 そうなると、何故王都へ入ることを許しただけでなく、王城への侵入を幇助したのか?


 ニョロにはその理由が分からなかった。

 ただ、その理由がなんであれ、魔物であることがバレた以上やることは一つである。


 ――この男を始末する。


 そもそも人間に溶け込んでいるのはヒメの身体を捨てることが出来ない為であり、ニョロの本質はただ生存することのみを目的とした魔物である。

 よって、命に手をかけられた以上は殺生を躊躇うことは無い。


 ニョロの眸は恐怖に苛まれたものから一転して冷徹な眼光を宿す。

 即座に硬化させた尻尾を身体の前で泳がせた極端な前傾姿勢は、さながら四足獣の威嚇である。


「おいおいマジかよ。マジでテメェ魔物なのかよ……!」

 クリンカーは驚愕を言葉にしながらもすぐさま剣に手を伸ばす。

 

 が、ニョロはその隙を見逃さない。

 

 四本の手足で床板を握り締めると、剣に手をかけた横顔めがけ、鋭利に尖らせた尻尾を加速させる。

(ダメっ!!)

 ヒメの制止は空しく、尻尾は邪魔な空気を突き破りながら、その速度を増していく。

 

 刹那、高速の刺突は確かな「殺し」の感触を残した。

 

 同時にか細い四肢は踏ん張りきれず、反動はニョロを後方に吹き飛ばす。

 ヒメの身体への損傷、およびその後の脳内号泣を危惧したニョロは空中で身体を翻し、緩衝の為に尻尾の膨張を試みる。

 

 しかし、地面へと降下するニョロの視界は、感触から予見した光景とは異なる状況を捉えた。

 

 ――殺したはずのクリンカーが尻尾を掴んでいるのだ。


 感触は確かにあった。

 鋭利な尖端が肉を穿ち、骨を砕いた手応えが今も新しい感触として残っている。

 

 にも関わらず、彼の身にはかすり傷すら無い。


 動揺を見せたニョロとは対照的に、クリンカーは尻尾を手繰り寄せると、瞬時にその距離を零に詰め、尻尾の付け根を鷲掴みにする。

「ぎゃっ」

 魔法の供給を絶たれた尻尾は硬度を失い、か弱い振りをクリンカーの頬に見舞うが、最後の足掻きの威力は撫でるよりやや強い程度。


 ――殺される。

 

 黙ったままの男の目に死を見たニョロは、怯えるままに身体を震わせる。


 (ゔっ……うゔっ……だめって、言ったのに……)

 ニョロの脳内に聞き覚えのある、そして身に沁みた恐怖である、濁りを含んだ水音がこだまする。

 脳内号泣炸裂の導火線に火がついたのである。


 しかし、ニョロはそれどころでは無かった。

 死と並び恐怖していたはずのことよりも、目の前の死がもたらした異常な状況が、その身に起きていたのである。


「ぐずっ……ゔぅ……ゔええええん」

 

 ――ニョロも泣いていたのだ。


 近頃かなり綻び始めていたとはいえ、鉄仮面ぶりを発揮してきたニョロの表情が大きく歪み、大粒の涙が溢れ出していた。

 付け根を掴まれているため尻尾を抱くことも出来ず、ただ縋る何かを探して中空を泳ぐ。

 漏らす声は弱々しく、誰かを呼ぶにも心許ない。


 ニョロは泣き慣れていない。

 だから小さな胸中を満たす悲しみに抗う方法を知らない。初めての感情を発散させることが出来ない。

 ただ死ぬのが怖くて、悲しくて、それを思うと苦しくてたまらなくて、涙が出る。


 そんなニョロを、自分を殺そうとした魔物を、クリンカーは荷台に降ろす。

 嗚咽する小さい背中に視線を落とし、

「これじゃあ俺がワリぃみてえじゃねぇかよ……」

 と、眉を顰めてため息を一つ。


 クリンカーは側にしゃがみ込むと、数秒沈黙に暮れていたが、業を煮やしたように頭を掻き上げると、


「……怖がらせて悪かったよ」

 ニョロの背中をさすりながら、小さく謝意をこぼした。


 

 ニョロが落ち着いた頃、いつの間にやら王都への帰途を再開していた馬車は、赤みがかった陽光が差す平野を進んでいた。

 ぽってりと赤く腫れた目元を袖口で拭い、視線を上げると、居心地の悪そうな顔をしたクリンカーの横顔が見えた。


「お前、どっちなんだよ」

 顔を背けたままのクリンカーの呟きに、身体を強張らせたニョロはどうしようもなくうずくまる。

 

 横目に見かねたクリンカーが頭を掻くと、ニョロの頭を乱暴に撫でながら、

「わかった!わかったよ!お前は魔物だが、弱っちくてビビりで、俺が怖ぇ!……そうだな?」

 急な大声に更に身体を固めたニョロだったが、また潤み始めた眸でチラリとクリンカーを見上げる。

 黙ったままの強面に怯え、答えないと、と口を開くが、唇が震え、言葉より先に嗚咽が始まる。

 落ち着いたはずの悲しみが込み上げ、クリンカーがたまらなく恐くて、ニョロは咽び泣きながら、それでも必死に言葉を紡ぐ。

 

 しかし、その言葉は問いに対する答えでも、命乞いでもない。

 

 無機質で合理的。魔物の中でも極めて感情の希薄だったニョロ。

 だからこそ死体を乗り継ぎ乗り継ぎ、ただそれだけの長い時を過ごすことが出来ていた。

 

 否。

 そうすることしか出来なかった。

 そうすることしか知らなかったのだ。

 故に、アイリスの記憶を獲得したことによる代償は、ニョロの精神に著しい変化をもたらすに至る。

 

 かつての姫が抱いていた感情はまるで荒野に咲く大輪のように、曇天に覗く日輪のように、魔物の色の無い精神世界を鮮やかに照らす。

 その輝きは魔物の心という荒野には、曇天には、あまりにも明るすぎた。

 他の一切を霞ませるほどに明るくて、これまでのどんな欲求よりも華やかで、他の何物にも代えがたいほどに尊い。

 

 だから、恐怖に苛まれ、初めての涙に翻弄されたニョロはもう抗えない。

 産まれて間もないよちよち歩きの感情が求めてやまない、城を出てからずっと頭を離れない気持ちを、吐き出さずにはいられない。

 

「かえり、たい」

 

 記憶に植え付けられてしまった他人の感情だと、自分のものではないのだと、旅の最中ずっと言い聞かせてきた。

 でも、一度言葉に出してしまえば、内に秘めておくことはもう出来ない。

 見て見ぬふりをしてきたツケが、一挙として押し寄せる。

 

「じいじ、の、ところへ、かえり、たい……」 


 想いが、溢れ出す。

 ボックスが居ないことが、ボックスにもう会えないことが、どんな飢えよりも、どんな渇きよりも辛かった。

 死にたくない、また会いたい、もう離れたくない。


 ニョロの心が、初めて喉笛を鳴らした瞬間であった。

  

 「がえり……っだい。がえりだいよぉ……!」

 

 ニョロは泣いた。

 身を強張らせる恐怖も、眸を濡らす悲しさも、心を露わにする寂しさも、全ての感情をひっくるめて、言葉に乗せて。

 まだ遠い王都に届くように、少しでもこの身が速くじいじの元に着くように、大声で泣いた。


 その後、クリンカーはついぞ口を開くことは無く、ただ声を枯らして泣く少女の背中をさすり続けた。

 時折彼は顔を抑えるような、掻きむしるような仕草を見せ、その度に強く拳を握ったが、手の平の奥にあった彼の表情を見た者はいない。

 

 


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