16話 追憶②
私が彼と初めて出会ったのは、新たな勇者として彼が王城に招かれた時だった。
玉座の間に入ってくる彼を見た時は、本当に驚かされたのを覚えている。
勇者と言えば誰もが皆、絵物語の勇者アーサーを想像する。
輝く太陽のような黄金の髪、気高くも優し気な空色の眸。
鍛え上げたしなやかな肉体を澄みきった青の鎧で包んだ、誰もが憧れる好青年。
王都中の女の子の初恋はみんな勇者に奪われて、私とて物語の中の勇者に思いを馳せて眠れない夜もあった。
それなのに。
「おいおいおぇい! 俺の嫁さんマジもんのべっぴんじゃねえかよ! 連れ帰ったら母ちゃん腰抜かしちまうぜ? 大丈夫かよおい!?」
どこかの野盗だかが紛れ込んだのだと、本気でそう思った。
酒に焼けたのか掠れ気味の不協和音を喉から吐き出しながら、虫の羽音より不快な足音を鳴らしてその男は現れた。
他人の庭から盗んだ土みたいな色の小汚い髪と馬糞の混じった泥土のように濁りきった目玉。
傷と泥にまみれた身体はそれなりに鍛えているようだけれど、動物の墓を掘り返して手に入れた腐った皮をツギハギにしたような確実に臭い鎧を着た、一刻も早く牢にぶち込むべき下衆の極み。
だから私はすぐに衛兵を呼んだし、攻撃魔法も二、三発撃ち込んだのだけれど、衛兵達が止めにきたのが私のほうだったので、そこでようやく彼が勇者なのだと分かった。
「おっかねえ~! 魔法も使えんのかよ! こりゃあ上玉だぜぇ! ぎゃはははは!」
彼はさすがに勇者に選ばれるだけはあったみたいで、私の魔法を殆ど動かずに避けてみせた。
そのあとなにやら嬉しそうに手を叩いていたけれど、バカ丸出しでもうこの時点で嫌い。
勇者だとかどうとか、そういうこと以前の問題として、彼のことを生理的に受け付けなかったし、心底腹立たしかった。
「グレイン・ランゲイルよ。其方を新たな勇者に任命する。憎き魔王を打ち滅ぼし、この世界に遥かなる安寧をもたらすのだ」
「いいぜやってやんよ! 任しとけや女王様よぉ! アンタが鼻水たらしながら俺に感謝する日が待ち遠しいぜぇ!」
母上様が折角お言葉を授けているというのに、跪かないどころか胡坐までかいて、その上ゴミのような言葉しか吐かない。
見た目通り内面も腐りきった本当に無礼な男。何故衛兵はこの男を殺さないのかしら?
「エンシャンティア王国に連綿と受け継がれし慣習に則り、其方には我が娘アイリスとの婚約、並びに子を成す権利を与える。本日より出立までの間は、我が城にて愛を深めるがよい」
母上様に紹介され、私は胡坐をかくグレインの元に嫌々ながら向かう。
私はグレインを心底見下しながら、それが彼にも伝わるように見下ろして、
「勇者グレイン様、本日より貴方様の妻となるアイリスと申します。今夜より貴方様と愛を育めることを心より嬉しく思います。貴方様の旅が偉大なる平和へと繋がるよう、我が御心を持って貴方様を愛します」
と、できうる限りの侮蔑の意思を込めて彼に投げつけた。
「おう宜しく頼むわ!」
でも、以外にも彼の態度はあっさりとしたものだった。
予想では「姉ちゃんいっちょ乳もましてくれや!」とか「今夜中に五、六人孕ませてやんぜ!」とか、下劣なことを言い出すものとばかり思っていたから、開けた口に魔法を直接ぶち込んで殺してやろうと思っていたのだけれど。
彼のそのはにかんだ笑顔だけは、ほんの少しだけ不快ではなかった。
政事が一通り終わると、彼は「夜には戻る」と言ってどこかに行ってしまった。
その間に私は姫としての仕事を終え、勇者との逢瀬の為だけに作られた寝室に足を運ぶ。
とびきり大きく絢爛なベッドも、部屋を彩る調度品も、全て今日からここで営む男女の為に揃えられた新品である。
大きな窓からは月明かりがよく入っていて、照明をつけなくても転ぶことはない。
先に部屋に併設された浴室で身を清めると、ベッドに腰かけて彼を待つことにした。
しかし、しばらくしても彼は帰ってこない。
ネグリジェ一枚で身体が冷えてきた私は布団に入ると、右手の祝福紋を見つめながら彼のことを漠然と考える。
本当に不快な男。殺したくないと言えば嘘になる。
あんな男と今日から夜を共にして子供を成すのかと思うと、吐き気を通り越して殺意を催す。
今日殺してしまわないか、それだけが心配だ。
しかし今日殺してしまえば明日以降は心配無用……悪くないわね。
エンシャンティア家に生まれていなければ、私はどんな人と恋をしたのだろうか。
優しい人が好き。よく笑う人が好き。少しだけ子供っぽいともっと好き。
カッコよくなくてもいいし、強くなくてもいい。高望みなんてしない。
普通の家に生まれた私は、そんな普通の人達と恋をして、別れて、また恋をして、楽しい女の子をしたのだろう。
そうだったらいいな、と私は思う。
でも、私は、アイリス・エンシャンティアは、グレイン・ランゲイルと結婚した。
恋もせず、他の男も知らず、結婚したのだ。
そして、あぁ……そうか。
彼は勇者だった。
野盗みたいな見た目だけど、生理的に受け付けないけれど、殺したいほど嫌いだけど。
彼は勇者だった。
だから――彼は必ず死ぬんだった。
彼のことはとてもとても嫌いだけど、彼は魔王を殺す旅に出て、いずれ魔王に殺されるのだ。
殺されるなら、まあいいか。
少しくらいなら、我慢してやるか。
どうせ死ぬのだから、私が殺してやってもいいのだけれど、死ぬことが決まってるのにわざわざ私が殺すのも癪だ。
勇者が魔王に殺されるのはこの世界の有り様なのだから、私はひとまず私の役割に徹しよう。
そんなことを考えていると、コツコツと窓を叩く音が聞こえた気がして、眠くなり始めていた身体を起こす。
すると、
『お~い! 開けてくれ! 遅くなっちまってわりぃな!』
外から窓を叩くグレインの姿があった。ここ四階なのだけれど。
仕方なく開けてあげると、彼は寝室に飛び込んできて、
「わりぃわりぃ! ちょっと夢中になっちまってよぉ!」
「別に謝る必要なんてないわ。それどころか永遠に来なくても良かったのに」
悪びれず笑うグレインを見下して小言を言ってやると、彼は少し驚いた様子。
まさか嫌われていないとでも思っていたのかしら?
「何よ?何か文句でもある?」
「いやぁ、近くで見ると余計にべっぴんだと思ってよぉ! マジで俺の嫁さんかよ!勇者になってよかったぜぇ!」
どうやら身体の芯までバカらしく、私がどれだけ嫌悪感を示してもちっとも嫌な顔をしない。
不快な上に本当に面白くない男。
これ以上話しているとこっちまでバカになりそうだわ。
私はグレインの首元を掴むと、ベッドに放り投げた。
「お前、投げも出来んのかよ! そんな細腕でよくやるなぁ! 母ちゃんになったら絶対おっかねえな!」
「魔法を使っているに決まっているでしょ。もう黙りなさい」
グレインの言葉を遮ると、ベッドで仰向けに倒れる彼に跨り、胸倉を掴む。
心はとうに決めた。
役割に徹する。
私の役割は、彼の子を孕み、彼を死地に送り出すこと。
だから今私がすべきことは彼と話すことでも殺すことでもない。
彼にひと時の夢を、ひと時の愉悦を、ひと時の快楽を、私の尊厳と未来を生贄にして、死にに行く彼への手向けとすることだ。
「待て待て待て! いきなり何やってんだお前!!」
でも、私が近づけた唇を、彼の手が阻んだ。
この彼の行為は、私の逆鱗に触れた。
私は彼をベッドに叩きつけ、
「あなたが何やってんのよ!? 私が折角……!折角決意して!やることやってやろうと思ったのに!何であなたがそんなことするのよ!?」
彼は私が持ちうる全てを贄として捧げた行為を、思いを踏みにじったのだ。
私は到底許すことが出来なかった。
「アァ!? 大事にしねえといけねえからに決まってんだろうがァ!? 」
彼も私につられるように言葉を荒げた。
私の気も知らないバカな男が、私に向かって言葉を荒げたの。
それにどうしようもなく腹が立って、彼をやっぱり殺したいと思ってしまう。
「はぁ!? 意味わかんないわよバカ! あなたの都合なんてどうでもいいのよ!」
「そうじゃねえだろ! 俺の都合とか、そういうんじゃねえんだって!!」
言い返すな。もう静かにしろ。黙って寝てればいいのに。
黙って言われるがままにしてれば、すぐに終わるのに。
「俺が言いたいのは! もっとテメエがテメエの……」
黙れ。
黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ
「黙れ黙れ黙れ!! この下衆がァ!!」
私の怒りはとうに限界を超えていたらしく、気付いた時には全魔力を込めた右手を振り上げていた。
こんな至近距離で打てば自分もタダでは済まない。
そんなことは怒りの果てのとうの彼方に追いやられ、眼下の邪魔な生物をただ殺したい。
それ以外のことは一切考える余地がなかった。
でも、彼は私の右手を握りしめると、腹筋で私ごと身体を持ち上げ、勢いのままに逆に私を押さえつけた。
そのまま抵抗する私を睨みつけながら、彼は叫んだ。
「だからテメエがそんなんだからァ!大事にしろって言ってんだ!」
「大事に!? 出来るワケないでしょ!? そもそもあなたが勇者なんかになっちゃったから、こんなことになってるんじゃない!!」
彼が勇者になんてならなければ。
そんなことはない。私を押さえつける男が彼以外の誰かになって、その誰かの子を身籠るまで、私の身体が大事にされることはない。
でも、言わずにはいられなかった。
エンシャンティア王国の姫という呪いに縛られた私には、もはや偶々選ばれた彼に文句をぶつけることくらいしか出来ないのだから。
「ちげえよ!ちげえんだって! 俺が勇者になろうとしたのは、お前を」
「好き放題できるって思ったからでしょ!? いいわよ! 好きにしなさいよ! 」
沸き立つ怒りを、溢れ出る毒を、私にはもう止めることが出来なかった。
彼が何を言いたいのか、何に怒っていて、何を否定しているのかなんて、もうこの時の私には聞いてあげる余裕も、理解する気も、立ち向かう勇気も無い。
膨張した怒りが私の理性をぼやかして、深い深い悲しみが私の心を遠ざけて、自分が壊れていくような気さえした。
「どうせあなたは魔王に殺されて死ぬんだから!! 今のうちにやることやっておけば良いのよ!! 早くしなさいよ!! しなさいって言っているの!! はやく……しなさいよ……!」
私はもう壊れていたようだ。
勝手に涙が溢れ出る。
言わなくていいことまで言ってしまう。
自分は彼にどうしてほしいのか、自分は何をしたいのか、何を求めているのか、もう分からない。
すると、彼は私の手を引っぱって持ち上げると、魔力が込められた右手を胸に押し当てた。
意味が分からず動揺する私の目をじっと見つめながら、彼は静かに話し始めた。
「俺は絶対に死なねえ。魔王には負けねえし、絶対に帰ってくる。だから、旅立つ前にお前に手は出さない。そういうことは俺が本当に勇者になった時じゃないとしちゃいけないと思ってるからだ」
綺麗事だ。
そんなこと誰が許してくれる?
この呪われた慣習は千年も続く王国の伝統であり、彼一人の一存でどうこうできるような軽い代物では無い。
私が姫であり、彼が勇者である以上、避けることは出来ないこと。
「そういうわけにはいかないって言ってるの……! これは私たち姫がやらなきゃいけないことで」
「だから俺が魔王を殺して、平和にして、お前を姫じゃなくしてやる」
私の言葉を遮って、彼はそう言ったのだ。
私はつい思いもよらない言葉に硬直してしまい、彼の次の言葉を待ってしまった。
「やりたくねえことをしなくてもいいように。やりたいことができるように。お前が泣かなくて済むように。俺がただの女に戻してやる」
夢のような話だと、私は思った。
でも、夢だ。夢でしかない。
だって、王国の千年以上の歴史の中で、既に四十九回挑戦して、そのいずれも失敗しているのだから。
私を姫から解放するとか、ただの女にするとか、そういうことではなく、彼が帰ってくることがあり得ない。
だから、私が姫という呪いから解き放たれることは、決してない。
「だから……!そんなの無理だって言ってるでしょ……」
「無理じゃねえ。絶対にやる。その力が俺にはある」
「無理よ。できっこないわ……」
「できるって言ってんだろうが。お前は知らねえだろうが、俺は滅茶苦茶強いんだぜ? それこそ死んでも死なねえくらいにな?」
玉座の間で私に笑いかけた時と同じ、不快じゃない笑顔。
彼が持つ自信の根拠は分からないけれど、ただ少しだけ、彼は本当に死なないのかもしれないと、不思議とそう思えた。
「本当に死なないの……?」
「あぁ死なねえよ? なんならこの物騒なモンぶっ放してみるか?」
恐る恐る彼に尋ねると、彼はニタリとしながらそう言った。
本当に不思議なのだけれど、あれほど打ちたかったはずの魔法が今は、彼にだけは向けたくない。
彼の挑戦的な笑みに、私は右手の光を消して返す。
すると、彼は大袈裟に胸を撫で下ろして見せたものだから、つい私は笑ってしまった。
「あなた、本当に変な人ね」
「変じゃねえが?」
彼は素っ頓狂な声で否定するが、そんなところが子供みたいで、この時の私にとっては本当に可笑しかった。
たくさん怒ったからか、泣いたからか。
とても気分がすっきりしていた私は、少しイタズラすることにした。
「本当にしないの?」
胸元を少しはだけさせて、彼の顔を下から覗いてみる。
「し、しねえよ? 今はな?」
彼はチラチラと胸元を見たあと、目を逸らして答えた。
「なんだかちょっと揺らいでいるように見えるけれど?」
「そこはぐっと漢らしく我慢よ!どう? ホレるだろ?」
力こぶを作って見せるあたり、本当に小っちゃい子みたい。
「ホレないけど」
「まあ初日だし? これからなが~い時間をかけて、じっくりやるぜ」
「時間ね……。本当にあるのかしら?」
はにかむ彼とは対照的に、どうしても私の心は、長い時間という言葉に曇る。
本当にそんなものは実在するのか、信じきることは出来ない。
でも、
「あるに決まってる。だって俺が作るから」
彼はさも当然とばかりに答えた。
見つめる私の不安を感じたのか、彼はもう一言、満点の笑顔で付け加えた。
「その為に俺は勇者になったんだ」
「ってなワケで、今日は長い時間の予行演習っつーことで」
唐突に彼はそう言うと、私を抱き上げて窓辺に歩く。
「なにをする気なの?」
私が彼の横顔に尋ねると、こんな答えが返ってきた。
「家を夜中にこっそり抜け出す、なんてただの不良少女みてえでいいだろ?」
そんな彼のクシャっと笑う横顔を見て、ふと彼の匂いを嗅いでみた。
汗と土の匂い。
――男の子の匂いだ。




