1話 拾い物には毒がある
二十万字超えそうです。
『エルフの走馬灯』と同様、一日一話~投稿予定です。
宜しくお願いします。
傷だらけの狼が木の洞から顔を出す。
高木の纏う夜霧の先に淡い月が見えている。
森の冷ややかな空気を吸い込むと、濡れた土の臭いが鼻を抜ける。
どうやら雨がやんだらしい。
そう考えた狼は、砕けた下半身を引きずって、鈍く照らされた泥土を進む。
その実、狼は生きる屍であった。
決して相反する意味を重ねた言葉遊びではなく、事実を正確に捉えた表現である。
心臓や脳をはじめとしたあらゆる内臓が今も正しく機能しており、怪我こそすれど腐ってもいない。
生命活動という意味でその身体は間違いなく生きている。
しかし、生来狼を動かしていた魂は既になく、十年前にウサギを喉に詰まらせて天に昇ったまま。
生き死にの判断において魂の有無を最重視するのであれば、彼は間違いなく死んでいる。
そんな生きる屍たる狼の魂の代わりを務めているのは、尻尾の代わりに生えた、身の丈ほどもある一本の「触手」である。
その表面は内臓を想起させる桃色をむき出しにしており、毛皮に覆われた狼の身体にあって相当に異物感が漂う。
触手の正体は、前も後ろもないような、ミミズに近しい形状をした化け物。この世界で「魔物」と呼称される生物の一種であった。
手足が無ければ目口鼻もなく、単体としては伸び縮みして這いずるだけ。
しかし同時に高い知性と魔力を持ち、それは生物の骸に寄生してその身体を我が物とすることを可能にした。
近場に良いものが落ちていればいいのだが。
つい先日壊してしまった犬の身体を引きずって、彼は新しい身体探しを進める。
ほどなくして、濡れた草地に横たわる、かつてないほど優秀な骸を発見する。
――人間だ。
器用な手足と高い知能で文明を築き上げ、魔物と世界を二分するまでに至った種族。
それも欠損どころか傷も無く、死んだばかりの新鮮そのもの。
これほど整った人間の死体は初めて見る、と彼は尻尾を揺らす。
その骸はメスの幼体であった。
肩ほどまでの赤い髪と、同じ色の眸。
痩せこけた身体を、泥にまみれた簡素な作りのワンピースで覆っている。
どうやら飢えて死んだらしいとあたりをつけ、触手が乗り換えを決めた時、
「――ぁう」
少女の骸から、微かに空気が漏れた。
骸はその酷く骨ばった身体を横たえたまま、土色の顔だけを狼に向け、微かに微笑んでいるように見えた。
まだ骸では無いらしい。
尻尾がぱたりと地に落ちる。
しかし、その衰弱した様子を見るに間もなく死ぬだろう。
周囲にもめぼしい身体が転がっていない為、これが骸になるのを待つことした。
「――こっち」
少女は肉の無い腕をわずかに持ち上げるが、指先が空を切る。
狼が少し這い寄ると、少女は弱々しく震える手を伸ばす。
「……よしよし」
狼の頭から鼻先まで、少女はまるで何かを労うように、時間をかけて優しくなぞる。
それを何度か繰り返した後、手のひらが死んだ鳥のように地に堕ちた。
狼を見据える眸は僅かも生気を帯びていないが、腹部の微かな上下だけが、少女がまだ骸でないことを示していた。
「姫……だったの」
少女の口から聞こえた、少しでも風が吹けば森の音に埋もれてしまうであろう小さな声。
しんとした夜の森が、そのわずかな音を言葉たらしめる。
「だから……あの人の……ところへ………」
声から音、音から空気。次第に死にゆく言葉を、狼の聴覚が辛うじて拾うことが出来た。
その後、少女の口が何かを発することはなかった。
ピクリともしない少女を鼻先で小突いてみるが、土くれに触れたような心地がした。
胸元に耳を押し当てても、一切の脈動を感じえない。
骸同然に横たわっていた少女は、たった今死んだらしい。
少女が骸になったことを確認すると、触手は狼の体内を通って口から這い出る。
そのまま少女の口をこじ開けて体内に滑り込むと、脳、脊髄の順番に機能を掌握。
掌握を終えると臀部の皮膚を突き破り、少女の骸に尻尾を作る。
じんわりと、かつて身体の全てであったものが身体を構成する一部として溶け出したような感覚。
晴れて壊れた犬から新鮮な人間の少女への乗り換えが完了した。
「――?」
突如触手の脳裏に、鎖にがんじがらめにされるイメージが浮かぶ。
そして同時に、触手本体に骸の身体が浸食するような、魔力が逆流するような、かつて経験の無い妙な感覚を覚えた。
念の為、触手は少女の機能確認を行う。
各部の使い方は脳の掌握時点で一通り知覚していたが、その通りに動かせるのか、そして内部構造上の欠陥が無いかは別問題であるからだ。
上体を起こし、深呼吸。握る、開く、曲げるといった手足の基本動作を繰り返す。
立ち上がろうとしてややよろめく。筋力に課題があるようだが、継続的な摂食により回復可能と考える。
首を回し、周囲を見渡す。
(うわぁー!ワンちゃんだ! 寝てるのかな?)
突然快活な声を耳にして、彼は改めて周囲を観察する。
しかし何もいない。機能確認を継続する。
「ぁあー……。あー。あー」
発声を試みる。
「雨の森。濡れた地面。横たわる犬」
加えて言語能力を確認する。
(ねー、何言ってるの?)
再び快活な声を知覚し、すぐさま手で耳を塞ぐ。
(どういう遊び?)
触手は大きく息を吐き、ピクリとも表情を変えずに呟く。
「身体機能は異常なし」
(良かったね!)
「だが一つだけ――脳に重大な欠陥があるようだ」
(えぇ~!?)
「……お前は何だ? 何故俺の頭の中にいる?」
先ほどから触手の言葉に反応する、知性が未発達と考えられる声。
物理的な遮音が不可能であり、どうやら脳内に直接聞こえているらしい。
声の主はこの身体の所有者であった少女のものだろうと推察するが、触手の寄生生活史上初めてのことであった。
そもそも肉体自体はまさしく死体であり、脳も全ての機能を再利用しているとはいえ、人格や魂といった知的生命を知的生命たらしめるそれらが残存することなどあり得るのだろうか?
もしや未知なる魔法的作用?先ほどの妙な感覚に関係が?
人間という種が特別なのか?はたまたこの個体が特殊なのか?
触手は考えを巡らせるが、明確な答えを導きだすことは無かった。
脳内の声から直接回答を貰えれば一人黙考することはないのだが、触手の質問は空しく押し黙るばかり。
「おい。何故黙る? 先ほどは喋っていただろう」
数秒の沈黙の後、語気を強めた声が響く。
(だって分かんないんだもん!!)
「怒っているのか?」
(怒ってないもーん!)
精神面も未発達、感情の制御に難がある。
触手は少女の声がもたらすであろう利益を著しく下方修正した。
「では質問を変える。お前はこの身体の持ち主か?」
(うん!そうだよ!)
「そうか。じゃあお前は」
すると声が幼稚な怒気を帯びる。
(お前って言っちゃダメ! 私にはちゃんとした名前があるもん!)
呼び方にこだわりがあるのか。面倒だな。
名無しの魔物にとって理解できない思考であった。
「では名を聞こう」
理解できないながらも情報を吸い上げたい触手は会話を進めるが、思惑に反しまたしても返事がない。
が、しばらく待つと少女の呻り声が聞こえる。
「どうした?」
(ううぅ。お名前、忘れちゃったぁ……!うええええええん!!)
突如、少女の泣き声が脳内にて炸裂。
脳が爆ぜたかと錯覚するほどの衝撃は触手本体を強烈に揺さぶる。
(ここどこなのぉ!?お家、かえりたいよぉ!)
上体が勝手にのけ反り、足が力を失い、視界が回る。
触手は表情をわずかに強張らせ、苦しみから逃れようと頭を抱えたり、うずくまったりと姿勢を変えるが、収まる気配が無い。
この身体を捨てるしかあるまい。
触手は咄嗟に少女からの脱出を試みる。しかし、ここで新たな異常を発見。
――寄生が解けない。
同時に再び鎖のイメージが浮かぶ。
(お家、も忘れちゃったよぉ!)
このまま泣き喚かれては本体に異常が出るかもしれない、と少女を黙らせることを優先する。
「おい。その声をやめろ」
少女は問いかけに一切の反応を見せない。
「やめろと言っている」
(イヤ!)
「嫌か」
ともすればやむを得ないが、彼女が泣き叫ぶ原因を取り除く他あるまい。
「どうすればやめる?」
「お前が泣いている原因を取り除くにはどうすればいい?」
「お前は何を望む?」
しばらく触手が問いかけていると、ぐずぐずと水音を鳴らしながらもポツポツと言葉を繋ぎ始める。
嗚咽が混じった少女の言葉に思考を巡らせつつ、次の言葉を促すように相槌を打つ。
(お名前、も、お家、も分からなく、て)
(それ、で……ね?)
(いっしょに、お家……さがしてくれる?)
この時、触手は自身が置かれている状況や少女の言葉を熟慮した自負があったが、脳内慟哭により消耗した彼の集中力や洞察力は、本来ならば到底選ばない短慮な答えを見出した。
「承知した」
触手が無感情に呟いた時、脳裏の鎖のイメージが、錠付きの拘束具に変わった。