ご感想に応じて、外伝追加(新嘗祭1)
Kjさん、嬉しいコメントをありがとうございました! いただいたコメントに基づき、膨腹が一般化されている世界線で新嘗祭の様子を描写してみます。(※初詣は、あまりにも参拝客が増えすぎたため、複数の巫女で執り行われています。筆頭巫女が一人で担う新嘗祭の方が、元の祭りの形に近いと思われます)
新嘗祭は11月23日の未明、日付の変更と同時に始まる。四隅を松明に照らされた祭壇に太鼓の音が響き、宮司が大声で祝詞を上げる中、白絹の千早を羽織った巫女が大きな盃を掲げ、優雅な仕草で舞台に現れた。盃の中身は、一升の甘酒。巫女は四方に礼をして、湯気の立つ甘酒を一気に哩ると、祭壇を取り巻く氏子たちから歓声が上がった。
甘酒一升を飲み終えた巫女は、中央の胡床に腰かけると、主要な参拝者から順に、願いのこもった握り飯を受け取っては、美味しそうな顔で咀嚼し次々にお腹の中へと納めていく。甘酒一升というのは1.8リットルであり、本来これだけで一般的な成人女性の胃袋は一杯になるはずだが、空腹時の胃が常人の数十倍にまで肥大してしまっている今の巫女にとっては、文字通り朝飯前の食前酒なのである。
以降、日の出までの7時間弱は、参拝者が巫女に挨拶し、巫女が礼を言い、参拝者が握り飯を捧げ、巫女が押し戴いて咀嚼する様を拝む……という一連の所作が延々と繰り返される。年々増加する巫女の負担を考慮して、15年前から握り飯は1つ100グラムまでと定められたが、大きな握り飯ほど御利益も大きいと信じられてきたせいか、小さな握り飯を持参する人は極めて稀で、多くは100グラムギリギリだったり、100グラムを少し超えてしまっていたりする。
僅か数十グラムほど胃袋を拡張するためにすら、気を失うほどの修行を要してきた巫女にとって、規定を超える重さの握り飯には持った瞬間から気づけるものだが、そこは神職として広い心で、顔には出さずに耐え忍ぶらしい。一連の挨拶や所作を踏まえると、供物1つに要する時間は1分強。1.8リットルの甘酒と数百人分の握り飯を納めたお腹は大きく膨らみ、身頃がはだけて、じっとりと汗ばんだ襦袢が露わになってきた。腰ひもがくっきりと食い込んだ巫女の胴体は、さながらソーセージのようだ。
「もう間もなく、お出でになるぞ……」
「日の出だ……日の出だ……」
氏子たちが固唾を呑んで見守る中、巫女が再び掲げた盃に、宮司が一升の甘酒を注ぎ込む。
……ごくっ……ごくっ……ごくっ……ピシッ……
とうとう腰ひもが破れ、巫女の素肌が襦袢からまろび出た。
「ありがたや……ありがたや……」
氏子たちは両手を合わせて巫女の腹部を拝む。日の神様が今年も捧げものを喜んで、姿を顕してくださったという認識なのだ。ほっとした表情の巫女は、そのまま一升の甘酒を飲み干す。朝日が差し込んできて祭壇を照らし、故事に倣った舞の時間が始まった。
舞の間の四半期(30分弱)は、巫女のお色直しを兼ねている。一仕事を終えた巫女は、7時間弱の間に重く膨らんだお腹を両手で抱え、よたよたと本殿へ御隠れになった。真っ先に向かう先はおそらく御手洗いだろう。氏子の願いが詰まった握り飯を嘔吐することなど当然認められていないため、依然として巨大であることに変わりはないが、祭壇に戻られた巫女のお腹は二回りほど小さくなり、足取りも去るときより軽くなっている。少しでも消化を促そうと巨大なお腹をさすり続けながら、時間ぎりぎりまで雪隠にしゃがんでいたのではないだろうか。巫女の下半身は白足袋と緋袴に覆われているが、上半身は胸にさらしを巻いただけの簡素なものだ。皮膚には僅かに皺が戻り、巫女の表情には余裕がある。
舞の終了と同時に祭壇へ戻ってきた巫女へ、群衆から盛大な拍手が寄せられた。空は明るくなり、昼の始まりだ。巫女は再び盃を掲げ、なみなみと注がれた一升の甘酒を飲み干すと、再び胡床に座して、続く参拝者と対峙する。
参拝者にとって未明のうちに握り飯を捧げるのは名誉なことだが、昼は昼で別の人気がある。巫女の膨らんだお腹が太陽に見立てられ、参拝者は握り飯の奉納後に祝詞を唱えながら巫女のお腹に触れることができるためだ。握り飯や甘酒で中からしっかりと膨らんだ巫女のお腹には血管が浮き立ち始め、参拝者の冷えた手には火照った巫女の皮膚が太陽のように熱く感じられるらしい。
巫女は人間のものとは思えないほど大きなお腹を晒しながら、一人一人の参拝者にさすられて恍惚とした表情を浮かべ出す。その表情は単に、咀嚼から束の間だけ解放されることによる安堵を超えているように思えてならない。一説によれば、この頃から巫女は一種のトランス状態へと入っていき、ひんやりした信者たちの手で張り詰めたお腹の皮膚を撫でてもらうことに対して比べるべくもない興奮を覚えるのだという。
引退した巫女がしばしば更なる詰め込みを敢行し、身動きすら困難なほどパンパンに張り詰めた自らの腹を恋人や夫にさすらせる奇行に至ることは一部で知られているが、私はこのあたりにその原因があるように思えてならない。握り飯を食べれば食べるほど、お腹を大きくすればするほど、信者の一人一人から、ありがたいと盛大に感謝されたり、崇め奉られたりする。そんな経験を人格形成期に毎年、トランス状態で行うのだ。もっとも、そのように強烈な快感と強い決意がなければ、巫女としての修行には到底耐えられるはずなどないのだろうが……。
さて、話が少し逸れてしまった。昼の巫女である。昼の巫女はそれから、空が赤らみ始めるまでの9時間弱、参拝者にお腹をさすられながら、彼等の願いを神に届け続ける。お腹をさすられる時間の分だけ握り飯を召すペースは落ちるとはいえ、1人あたり2分少々といったところだ。握り飯の大きさは相変わらずだから、日没までの間に巫女は、追加でさらに数百人分の握り飯をその胃に納める。舞の間にしばし隠れたとはいえ、夜明けまでの名残が大量に残っているであろうお腹の中へ、さらに升単位の甘酒と握り飯を流し込むと言えば、巫女の過酷さが伝わるだろうか。
(続きます)
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