後編
その夜、私は泣きながらリウの作った最後の夕食を食べた。涙の味が強かったけど、とても美味しかった。
一人で食べて、一人で後片付けをした。随分とやっていなかったから、ちょっと手間取った。食器も鍋も、全部洗って片付けた。これでリウの手料理はもう食べられないと気付いて、また泣いた。
寝ようとしてテーブルをどかしている自分がいた。馬鹿馬鹿しくて、苦笑する。リウの使っていた毛布は部屋の隅に畳んであった。抱き締めてみたら、柔軟剤のいい匂いしかしなかった。リウは真面目で律儀過ぎると笑った。でもすぐに彼の匂いを思い出して、泣いた。
その晩、リウの使っていた毛布に包まってリウみたいに床で寝てみた。カーペットが敷いてあるとはいえ、体が痛かった。こんな状態で彼は眠っていたのだと悲しくなった。ケチらず布団を買ってくるべきだったと後悔した。
たった一度だけ、一緒にベッドで眠ったことを思い出した。次の日の朝、それを忘れて混乱して、変態と言いながらリウを蹴り落としてしまったんだっけ。その日一日、彼はずっとぐちぐちと皮肉を言ってくれたな。私が悪かったから甘んじて受け止めたけど。
スイカが好きだと笑ったリウ。
ホワイトシチューが会心の出来だと満足気に言ったリウ。
女らしくしなさいと説教しつつ心配してくれたリウ。
なんだかんだと文句を言いながらも一緒に寝てくれたリウ。
毛布に包まったまま、リウとの生活を思い出して泣いた。
一晩中、泣き続けた。
***
時間は何事もなかったかのごとく、絶えず変わらず流れていく。リウがいなくなってからも、時は淡々と流れ続けた。
出て行ったのは十一月。今は十二月の終わり、クリスマスイヴ。バイトからの帰り、私はケーキ屋さんに寄って予約していたケーキを受け取った。リウは甘いものが好きだった。だから一緒に食べようとこっそり予約していたものだ。
……今思えば、なんてお馬鹿だったんだろう、当時の自分。いついなくなるかも分からない相手のためにケーキを予約するなんて、正気じゃない。
でも信じていたんだ、クリスマスまでは一緒にいてくれるって。これから本格的に寒くなる、十一月でいなくなるなんて、そんなはずないって、そう自分に言い聞かせていた。
「出て行くなら、もっと早くに出て行けばよかったのに」
独り言は雑踏に紛れて消える。私は深呼吸をしてから、待ち合わせ場所に急いだ。今日はクリスマスイヴ、独り身の親友と私の部屋で、二人パーティーをするのだ。
「燐!」
「志摩! 久し振り」
大学でつるんでいるから、久し振りと言うほど会っていない訳じゃない。ただ、今まではリウがいたから、プライベートで会うのは久し振りだった。
「お誘いアリガト。それケーキ?」
「うん。美味しそうだったから予約しちゃってさ……志摩が空いてて良かったよ」
「なにそれ、私に彼氏がいなくてよかったって?」
「違う違う!」
いつものじゃれあう会話。私のアパートに向かいながらも雑談は続く。
「そういえば一時期、燐ったら全然部屋に呼んでくれなかったよね」
「あー、うん。あの頃は忙しかったから」
リウのいた時期をさしているのは間違いない。適当に誤魔化す。
「課題も多いわバイトも忙しいわで大変だったもんねぇ。でもさぁ、それにしたってご無沙汰だったじゃない? だから彼氏でも出来たのかと疑ってたんだけど」
「はは、そんなの出来るわけないよ。志摩みたいに美人でもないし」
志摩は派手系の美人だ。前に赤スーツを着ているのを見たとき、お水系が似合うと口を滑らせ殴られた。
「燐は美人じゃないけどカワイイよ?」
「……カワイイはあんまり褒め言葉じゃない、かな」
平凡な顔立ちだと自覚があった。カワイイは低めの身長のことをさしていると思うと泣きたくなる。
「おおっと! 燐のアパートを通り過ぎるところだった。危ない危ない!」
「まったくですな危ない危ない!」
気が付けばもうアパートの前で。私は数ヶ月ぶりに、志摩を部屋に招き入れた。
「お邪魔しまーす」
「お邪魔されまーす」
「それ失礼!」
笑いながら中に入った志摩が、きょとんと目を丸くする。
「あれ? 燐ってこんなに綺麗好きだったっけ?」
部屋の中は綺麗に片付いている。毎日掃除は無理でも、整理整頓はしっかりとやっていた。
「あの面倒くさがりの君が。前に来たときは下着もそこらへんに散乱してて女としてどうよ、と突っ込んだ君の部屋が。なんでこんなに綺麗なのかな? やっぱり男?」
「うるさいなー! ケーキいらないんだね?」
「いるいる! ごめん! それだけ驚いたんだよ」
志摩は笑いながら座布団に座った。私はケーキをテーブルにおいてから、キッチンへ包丁とお皿を取りに行く。
「あ、私チキン持ってきたからそれ用のナイフとお皿もちょうだい!」
「分かった。飲み物は? 志摩はなに飲む?」
「え、ビールビール!」
「アルコールかい……」
「え、ないの? ビール大好き志摩ちゃんを呼んでおいて?」
「もちろんご用意しておりますとも、お嬢様」
ちなみにビールは志摩のためだけに買った、お高いやつだ。残ったらお持ち帰りしてもらうつもり。私はあまりアルコールが好きじゃないから。強くないのだ。
志摩にビール自分にはコーラ、ほか色々を持って戻ると、志摩が早速ケーキを取り出していた。
「おお! これって人気洋菓子店の限定クリスマスケーキじゃん!!」
「だから言ったでしょ、美味しそうだったから予約しちゃったんだって」
「でもこれ、電話でも店頭でも予約するのは至難の技だったって聞いたよ?」
「運が良かったの」
そう、運が良かった。店頭予約、最後の一人。
リウのために頑張って朝から並んだ。寒かったけど、リウの喜ぶ顔が見たくて頑張った。きっとリウがこのケーキを見たら、嬉しそうに笑ってくれたに違いない。
……そんな顔を見せてくれるまで、私達の距離は近くなっていた。
「燐?」
「! ご、ごめん!!」
うっかりトリップしてしまった。
「どうかしたの? 最近、元気ないよね」
「そんなことないよ。疲れてただけだよ」
すぐに戻れると思った、一人の暮らし。だけど思いの他、リウとの生活は心地よすぎたらしい。
引きずっている。自覚はあった。それによって志摩に心配をかけていることも。
「本当に大丈夫なの?」
「平気! さ、食べよう!」
さっさとケーキを切り分けお皿に載せ、それを志摩に手渡す。志摩は甘いものを肴にお酒が飲めるタイプなので、トップバッターがケーキでも文句は言わないのだ。
「……あんたって本当に不器用ね」
「うるさい」
あんなに綺麗だったケーキも、私の不器用な切り方で不恰好に大変身を遂げた。これがリウだったら見事なまでに綺麗に切り分けたに違いない。貴方じゃないんですからこれくくらい出来ますよ、と皮肉りながら。
「…………」
「……燐、本当にどうしたの?」
志摩が心配の目で私を見ていた。私は嫌になるくらい鈍感なのに、私の周りに居る人は、みんな気遣い上手で敏感だ。
「志摩……」
「燐」
志摩は何も言わないで、私を抱き締めた。何も聞いてこなかった。
ほら、優しい。優しすぎるんだ、志摩もリウも。だから、涙が溢れてしまうんだ。嗚咽が漏れる。志摩は何も言わないで私の背中をさする。
折角のクリスマスなのに、私は泣いた。リウが出て行った日のように、声をあげて大泣きした。志摩は無言で私を抱き締めてくれて、時々背中をさすってくれた。
ようやく泣きやんだ頃には日付変更間近で。志摩は笑いながら、私の分のビールを持ってきてくれた。
酔いつぶれるまで飲もう。嫌になるまで食べよう。
志摩は優しく言って、ケーキを食べた。私もビールを飲みながら、それを食べた。ケーキはとても甘かった。とても甘くて、それと同じくらい、苦い味がした。
***
一月は帰省して、久々に両親に会ってきた。成人式だったから、随分と会ってなかった友達とも会った。帰ってきたらすぐに大学が始まって、レポートと試験に追われた。気がつけばもう一月も終盤だ。
「…………」
日曜日。バイトも休み。今日は丸一日、完全休日。
私は部屋でごろごろしながら、リウの毛布に包まっていた。最近はなんだかこうして過ごすのが癖になっている。そうして時間の無駄遣いをしていると、いつしか夜になっていた。外は真っ暗だ。
「カーテン、引かなきゃ」
そう思うも体は動かない。面倒くさい。
「うー」
ごろごろと転がる。ガンッとテーブルの足に頭を打ちつけて涙目になった。私はなんて馬鹿なんだ。自分に呆れているとあの無線が鳴った。防災無線機から、市の連絡が流れてくる。
『市役所より、東警察署から連絡します……』
東……ここは西の管轄だから直接は関係ないだろう。
ようやく毛布から這い出てカーテンを閉める。その間にも防災無線の声は耳をするすると通り抜けていく。
そんな中。
『犯人はナイフを所持、特徴は黒いスーツ、痩せ型の男……』
「!!」
まさか……まさか!
考えるよりも先に体が動いていた。部屋着のまま、コートを羽織ってアパートを飛び出す。
『東地区での事件ですが、西地区の住民も念のため外出せず……』
外部スピーカーからも同じ放送が流れていた。暗い空に反響して、不気味な山びこを響かせている。
危険なのは承知の上、警告なんてクソ食らえ!
私は東地区へと全速力で走った。そんな私を馬鹿にするみたいに、繰り返される声のエコーは途切れることなくずっと響いていた。
***
先に言っておきたいことがある。私は運動が苦手だ。苦手な上に嫌いだ。大学に入ってなにより嬉しかったのは体育がないことだったりする。
そんな私が、大学に入ってから運動をしていたか。答えは、否だ。
「自転車、乗って……くるんだった……っ!」
全速力で持久走なんて、ここ数年一回もしたことがない。小中高の頃だって、持久走はいつも遅すぎるスピードでゆっくり走っていた。きっと明日は筋肉痛だ。痛みで夜は眠れないだろう。
「はぁ、はぁ……くそっ」
なんとか辿りついた東地区。しかし来たはいいが、来たからといって犯人と会えるわけでも、ましてや、会いたい人に会える確率なんてゼロに近いわけで。
……なんて無計画なんだ。なんて私は馬鹿なんだ。人気のない住宅地を歩きながら、自己嫌悪に陥る。
「もう少し、計画性を持った方がいいかも……」
自分の無鉄砲さは知っていた。考えるよりも行動派なんだ、私は。
「……寒い」
当たり前だ、コートの下は部屋着。防寒仕様じゃない。
真冬の夜、殺人犯が逃げこんだ地区を彷徨う怪しい女。私の方が不審人物である。
私はなんて馬鹿なんだろう。私を脅して家に居座っていた、殺し屋さんをわざわざ探しているなんて。
正気の沙汰じゃない。私は馬鹿で阿呆で、とんだお間抜けピエロだ。
「……それでも、会いたい」
あの人に会いたい。会って……会って?
「! やっぱり、私は大馬鹿だぁー……」
会って、何を言うというのだ。また一緒に暮らそう? どうして、と怪訝そうな顔をされるに違いない。……いや小馬鹿にした態度で、貴方は相変わらず馬鹿ですね、と返すに違いない。
「あー、もうっ!」
自分の馬鹿さ加減に嫌になってしゃがみ込む。泣きたいくらい、情けない。
会いたい。でも会って何を話せばいいのか分からない。何を話せばいいか、まったく思いつかないのに、どうしても会いたくて。
自分ではどうにも出来ない強い想いなんて、ただ苦しいだけだ。
「やだ、もう……」
泣きたい。声をあげて子供みたいに泣きわめきたい。泣いたら楽になれるかもしれない。楽になれないかもしれないけれど。
ともあれ、ここは外で泣いてはいけない場所だということが、分かるくらいにはもう大人だ。
「泣くな泣くな、とりあえず泣くな」
まずは立ち上がって家に帰ろう。ここにしゃがみこんでいても仕方ない。
「はぁ、コンビニであったかいものでも買って温まろうかな……」
「いたぞ! 奴だ!!」
「!」
突然聞こえた叫び声。私の体は無意識のうちに動き始めていた。
声がした方へ走る。疲れていたはずなのに、自分でも呆れるくらい全速力で。
理由なんてない。ただ、会いたい。それだけのために。
***
「確か、声がしたのは、こっちの……」
息切れで途切れ途切れに呟きつつ、辺りを見回す。と。
「いたぞー!」
曲がり角の先から声がする。そして。
「リウ!」
「!」
角を曲がってきたのは、黒のロングコートに黒のスーツの男の人。リウだった。
彼は目を丸くして、私を凝視すること数秒。すぐにいつもの笑顔に切り替わる。それから私の手を取って。
「走りますよ!」
「へ? え!?」
「待て! 奴を捕まえろ!!」
追いかけてくるのは警察なんかじゃなくて、もっとやばそうな……。
「待てぇ!」
「そう言われて待つのは馬鹿な貴方達くらいですよ」
ぼそっと皮肉を言うのが聞こえる。こんな時でもリウはリウのままで、思わず笑ってしまう。
「笑っている暇があったら足を動かしてください」
注意されてしまった。それさえも嬉しい私は、究極の阿呆だ。
リウに手を引かれるまま、縦横無尽にひた走る。住宅街の道から大通りに出たり、大通りから細い路地裏に入ったり。何処をどう走っているのか全く分からない。それは追っ手も同じようで、気付けばいつの間にか撒いていた。
追っ手がいないことを確認して、リウは暗い路地で足を止める。私はというと、止まったことで急激に疲れを自覚した。
「もう、走れない……」
壁に背中を預けずるずると座り込む。対してリウは少し呼吸が早くなっているだけだ。悔しい。悔しいがその涼しげな顔が懐かしくて。
「なんです? 私の顔に何か付いてますか?」
「…………、……、目と鼻と口と、その他、諸々」
「貴方の頭は幼児並ですね」
聞き覚えのあるやりとりだが、リウの返答はかなり辛辣を極めている。
「本当に馬鹿ですね。どうしてあんなところに? 貴方の家は西地区でしょう」
もっともな質問だ。
「それとも道に迷ったんですか? 貴方の軽い頭なら有り得ないことではありませんね」
……このヤロウ。
「それに真冬の遅い時間にこんな格好で……風邪を引きたいんですか? それとも自分で自分をいじめるのがご趣味で?」
よくそんなにぽんぽんと嫌味が言えるものだ。普段の私なら大声で言い返していただろうけど、今の疲れきった状態では何も言えなかった。
「…………貴方の馬鹿さ加減には、うんざりしますよ」
呆れた声と共にコートが降ってくる。
「羽織っていてください。幾分かマシでしょう」
コートを私に羽織らせて、前を合わせるリウ。ぎゅうっと。そう、ぎゅうぅぅぅぅっと。
「く、苦しい……マジ絞まってますから、マジで……!」
「このまま三途の川まで行ってみますか? 馬鹿が直るかもしれない」
ぱっと手を離すリウ。顔は笑っている。顔だけは、笑っている。
……目が笑ってない。
「リウ、怒ってる?」
「怒ってますよ、凄く」
どうして、とは聞けなかった。
何故って、貴方にはもう会いたくなかったからですよ。
きっとリウはそう答える。なんとなく、予想できた。本心なのか、それとも嘘なのかまでは、分からないけど。
「それは置いておいて、どうしてこんなところへ?」
「また、警察からの緊急放送があって、リウの特徴、そのままだったから」
「私を助けようと?」
「…………うん」
助けようとしたわけじゃない、会いたかっただけだ。でも正直に言うことは出来なかった。
「貴方は本当に本当の、真のお馬鹿なんですね」
心底呆れた声で言われて、流石にむっときた。
「そこまで言う必要はないんじゃない?」
「馬鹿に馬鹿と言って何が悪いんです? 前にも言いませんでしたか? 何事も最後まで聞いて判断しなさいと」
「…………言ってたっけ? というか、どういうこと?」
はてなが乱舞する私に、リウは額に手を当てた。すごく苦い顔をしている。
「頭痛がしてきました……」
「だからなんなのよ?!」
「おや、丁度いいところに。あれを見てください」
リウが指差したのはこの路地の先、街灯の明るい道では警察官数名が黒い服の男を連行していた。
「先ほどの放送は変質者のことですよ。ナイフを持って女性を脅したらしく、警戒態勢をとったようですね」
……そういえば、放送を最後まできちんと聞いてなかったかも。
「やはり馬鹿ですね」
「ぐうの音もでません……」
あれ、でもリウは追いかけられていたような。
「でもリウ、追われてなかった?」
「警察も確かに人相が悪いですが、あそこまで全員が全員、悪人顔はしていないと思いますよ」
「じゃあ、誰?」
「今回のクライアントです。土壇場になって報酬を下げたので、交渉決裂したところでした」
どう見ても小指をなくしそうな職種だった。さすが裏の仕事人、なんでもありだ。
「さて、犯人も捕まったので送っていかなくても大丈夫でしょう。きちんと寄り道せず帰るんですよ」
「あ……」
リウが身を翻す。私は咄嗟に彼のジャケットの裾を掴んだ。何かまだあるのかとリウが振り返る。その目が思いのほか冷たくて、何も言えなくなった。
「…………っ」
一緒に帰ろう。
言いたい、でも言えない。それは私のエゴだ。リウの帰る場所は私のところじゃないから。
「…………、待ってるから」
口をついて出たのは、待つという言葉。コートのこともある、取りに来るのを待っている。それが唯一、私が口にすることの許された言葉だと思った。
リウの返事はなくて、私の手を振り払うとそのまま歩き出す。真っ黒な後姿は、すぐに夜闇に消えて見えなくなった。
私はしばらくその場でぼうっとしていたけれど、いい加減寒くなって、リウのコートを握り締めながら帰路に着いた。
***
二月になって、試験と補講が終わり春休みになった。だけど色々まだまだやることがあって、ほぼ毎日大学に通っている。
今日も今日とて、日が暮れて真っ暗になった道を、自転車で走る。あれからリウと会うことはなかった。尋ねてくることもない。コートはクリーニングに出してしまってある。早く取りに来てくれないと邪魔でしょうがない。
不意に、ギギッとタイヤから不穏な音がした。リウをはねてすぐにライトは直したんだけど、今はタイヤというかブレーキの調子がすこぶる悪い。
「また自転車屋さんに行くようかなぁ……」
それはなかなか面倒だ。お金もあまりないというのに。やっぱりリウがいる方がいい。一家にひとりリウが必須では。リウは主婦並にやりくり上手だったから。
「コート取りにきたら、絶対に帰してやらないんだから」
口では強がって、だけど内心はびくびくしている。リウがウチに来ない確率の方が遥かに高い。高いなんてもんじゃない、ほぼ百パーセントだ。何処にいるかも分からない。連絡もとりようがない。もう、会えないのかもしれない。
やっと気持ちが浮上したのに、また落ち込んでしまいそうだ。いけないいけない、これじゃまた人をはねちゃ――
ドン! ズシャッ!
………………やっちまった!!
衝撃が体を襲い、ブレーキを握り締めた手が痛む。慌てて振り返ると、黒いスーツの男の人が倒れていた。
「!」
デジャヴがするけど、そこまで私の人生はドラマチックに出来ていない。いないはずだ。
「大丈夫ですか!?」
自転車を降りて倒れている人に駆け寄る。その人はぴくりとも動いてくれなかった。顔は地面に伏せられていて、うつ伏せ状態のまま動かない。
回れ右をして消えたい気持ちが湧き上がる。だからそれじゃ私が轢き逃げ犯になっちゃうんだって!
「き、救急車!! 救急車を呼ばないと!」
ともあれ119通報しようとしたら、不意に腕を掴まれた。本気で血の気が引く。冗談抜きに飛び上がった。
「大丈夫ですから、救急車を呼ぶ必要はありません」
聞き覚えのある、低い声。
「ほら、落ち着いてください」
顔を上げられない。手が勝手に震え始める。
「死ぬような怪我はしてませんよ。だから、落ち着いてください」
からかい混じりの声。手に力が入らなくて、地面でスマホがはねた。
「スマホは精密機械だから落としたら壊れますよ、まったく。スマホはともかく、貴方に怪我はありませんか?」
顔を覗き込まれる。彼の額からは血が出ていた。でも大した量じゃない。
ぼやける視界でも分かる、地味ながら端正な顔立ち。胡散臭い、ずっと会いたかった、懐かしい笑顔。
だから私は、笑って見せた。
「私は、大丈夫……それよりも、血が出てますよ。救急車、呼ばないと」
「大丈夫ですよ。自分でなんとか出来ますから」
冷たい指が頬を伝う涙を拭ってくれる。男は優しく笑っていた。
「なら、手当てさせてください。私が轢いたんだから」
「正確にははねられたんですけどね。だから、そんな使命感はいりませんよ」
「いえ、ウチ、近いんです。だから、ウチまで来てください」
彼の手を掴んで、ぎゅっと握る。彼は私の手を振り払おうとしなかった。
「ここから徒歩数分です。追われているなら、匿ってあげる」
「おや、飼ってくださるんですか?」
「仕方ないから、飼ってあげる」
「それは光栄です」
彼がにっこりと笑う。だから私もにっこりと笑い返した。
「おかえり、リウ」
「ただいま帰りました、御坂さん」