中編
彼を匿い始めて、彼に言わせれば私に飼われ始めて、はや一週間。私は人間の高い順応性を思い知ることになった。
「ただいまー」
「おかえりなさい」
バイトから帰ってくると、いつもと同じようにリウが出迎えてくれた。中に入ればテーブルに並べられた美味しい料理たちが見えて。そして綺麗に片付けられた部屋はとても気持ちがいい。
リウは言葉通り私に飼われているつもりらしいく、ヒモ生活は性に合わないと家にいる間は家事をしてくれることになった。
下着の洗濯だけは自分でやっているけど、このままこの生活が続けばその内……ううん、今は考えないでおこう。
「今日は余り物で作ったあり合わせですけど、味は悪くないと思いますよ」
「リウが来てから冷蔵庫が綺麗に片付いてて気持ち悪いわ……」
そして、この生活に慣れてきた自分も。警戒心もどんどん薄れてしまい、今ではタメ口で軽口をたたけてしまうまでに慣れてしまった。
きっと、この殺し屋さんが妙に紳士的なのがいけないのだ。私が嫌だと思うことを言う前に察して、確認しながら行動してくれるから。
初日からそうだった。疲れているだろうから詳しい話は明日にと、リウは部屋の隅に陣取って。そして気配を消して、目を閉じて、ただ静かに座っていた。
最初はビクビクしていたけれど、やがて私を見ないよう配慮してくれたのだと気付いて。そうしたら、少しの間この怖いペットを飼うくらい、まあいいかと、そう思った。思ってしまった。あとはご覧の通りだ。
……私はどうして、警察に行かなかったんだろうか? 次の日にバイトへ行くふりをして、警察に通報すれば済むことだったのに。
どうしてだろう? 何度考えても答えは出ない。ただ、この生活に慣れてきた自分がいて。リウとの生活が楽しくなってきたことも、自覚があった。
「気持ち悪いとは何ですか。食べものを捨てるのは勿体ないことですよ」
「殺し屋さんに勿体ないと説教されるとは……」
「御坂さんがだらしないだけです」
それは当たっているだけに反論はしないでおく。
この殺し屋さんは常時笑顔を浮かべているけれど、結構な皮肉屋だ。いつだって胡散臭い笑顔で、本当に心から笑うことが出来るのか、疑問に思っている。
「今日のお仕事はどうだったんですか?」
キッチンでお味噌汁を温めながらリウが聞いてくる。我が家の狭いキッチンで、味噌汁を温める優男……夢のように非現実的で、似合っていない。
「いつも通りだよ。なんの問題もなく、平和だった」
ある意味平和じゃないのは、リウと過ごす今この時だ。
「あー、なんかお茶飲みたいかも! リウも飲む? 熱い緑茶だけど」
「ええ。ありがとうございます」
キッチンに入って急須と茶葉を取り出しながら、ちらちらとリウを観察してみる。
……やはりリウは顔がいい。地味目だけど整っている。優男風に見えるのは、笑顔がいつも張り付いているからか。
思えばリウの笑顔じゃない表情はあまり見たことがない。呆れた表情とか、私の馬鹿さ加減に疲れた表情とか、そんな表情だけ。本当に真剣な顔や、心からの笑顔は、見たことがない。
「……私の顔にご用でも?」
私に背中を向けたまま、彼に問われる。見ていることに気付いていたらしい。
「怪我、大丈夫?」
「心配性ですね、御坂さんは。もうかさぶたになっていると、この前見せたばかりではないですか」
「まあ、加害者ですし、私」
「なんの躊躇いもない突進でしたね、あれ。だめですよ、気をつけないと。私以外の人間だったら大怪我をしていたはずですから」
「はい、深く反省しております」
反省したので、自転車のライトもちゃんと直しました。それに近道だからと暗い細道を通るなとも叱られました。この殺し屋さん、おかん気質なのかもしれない。
「まだ顔に何か? ゴミでもついてますか?」
「ゴミはないけど、目と鼻と口とその他諸々ついてるね」
「貴方の頭は小学生並ですね」
……でも色んな顔なんて、一週間くらいの付き合いの人間に見せるものでもないか。相手は殺し屋さんなんだし。
それに、そんな顔を見せてもらえるだけ仲良くなっても、困る。
「お味噌汁、温まりましたよ」
「ありがとう。お茶もいれたし、食べようか」
……こうして普通に一緒にご飯食べるくらい、仲良くなっただけでも問題なんだから。
***
更に一週間が過ぎた。
「御坂さん、行儀が悪いですよ」
「だって暑いんだもんー」
早番バイトから帰ってきてシャワーを浴びた体は、未だに熱を発散しきれず。エアコンの下で扇風機に当たりながら、ごろごろとTシャツ短パン姿で床に転がっていると、リウはやれやれといった様子で台所に向かった。
正直、もうこの生活に完全に慣れてしまった。恐ろしい事態である。最近では洗濯物すべてをリウに任せてしまう時があるくらい、この生活に慣れきってしまった。
どうしてか、すぐに出て行くと思われた見目麗しい殺し屋さんは、未だここから出て行こうとしない。そろそろ警察の警戒も薄れたはずだ。出て行っても大丈夫だと思うんだけど……。
「ほら、しゃっきりしてください」
「ぎゃ!」
カップのカキ氷を持ってきてくれたのは嬉しい。嬉しいけど!
「背中に置かないでよ! つめたい!!」
「だったらすぐ床に転がる癖を直したらどうですか?」
シャツのめくれていた部分、素肌に直接置かれたアイスの冷たさは凶器に近い。抗議をする私に正論を冷たく返したリウは、自分の分のカキ氷を持って座布団に座った。今朝干していたのでふっかふか座布団になっている。
「あ、ずるい」
「だったら転がってないで下さい」
冷たい返ししか出来ないのか、この男は。
背中のカキ氷を手にとって起き上がる。首振り中の扇風機の風が頬に当たって気持ちいい。
「全く……貴方は女という自覚がないんですか?」
座布団を渡してくれながらリウが溜息をついた。
「仮にも歳若い男の前で寝転がって、あまつ背中まで見せて」
「歳若いって自分で言っちゃおしまいでしょう」
この男は本当に分からない。見た目は若く二十代前半くらいに見えるのに、発言はどうにも年寄り臭いというか。
「ねぇ、リウっていくつなの?」
「どれくらいに見えます?」
「うーん、三十代前半?」
見た目年齢と発言年齢を足して二で割ればそれくらいだ。結構妥当な線だと思うんだけど、どうだろうか。
「三十代ですか……」
「あれ、はずれ?」
実は十代でした、とかいうオチは期待していない。想像したくもない。
「まあ、当たらずとも遠からず、です」
「正解は?」
「三十です」
にっこり。
……そろそろ付き合いも長くなってきたから分かる。このにっこり笑い、イコール、嘘。
「……そっか」
問い直してもちゃんとした答えが返ってこないことも、こう理解している。だから肩をすくめてカキ氷に集中することにした。
ざくざくとカキ氷を崩しながらそっと窓の外を見る。夏の眩しい太陽がそこにあった。
でも私は知っている。そろそろ夏も、終わりに近いことを。
***
実家から野菜や果物が大量に送られてきた。実家は農家ではないけど、そこそこ広い庭で家庭菜園をしている。お母さんの趣味だ。
ダンボールいっぱいに詰められた色とりどりの野菜たち。今まではその大量さから、友達知人に配っても余ってしまい、腐らせることもザラじゃなかったけど。
「本当に大量ですね」
今は彼がいるのだ。勿体ない星の王子様が。
「これだけあれば当分野菜に困りませんね」
リウは料理が好きらしい。そしてその腕前もかなりのものだ。彼の作るものは本当に美味しくて、女としてかなり悔しいところがある。いやでも人生経験の差とかがね、あるからね!
野菜は全部リウに任せて、私は一緒に入っていた手紙を読むことにした。お父さんとお母さんからの、他愛ない手紙だ。
元気か、こっちは元気だ。健康には気をつけろ。たまには顔を見せに帰っておいで。
書いてあることはいつもと変わりない。でも。
「………………」
お母さんからの手紙の最後、いい人が出来たらまずお母さんに報告しなさい、協力してあげるから、なんて書いてあって。
いい人、つまり恋人はいない。だが男と同居はしている。
『私ね、今は自転車ではねちゃった殺し屋さんと一緒に住んでるの!』
…………どう聞いても正気の沙汰じゃない。
「御坂さん」
「なぁにー?」
「これはご友人やお知り合いに配るんですか?」
「あー、うん。バイト先の人に配るよ。適当に分けておいてもらえる?」
「分かりました」
……殺し屋をあごでつかうなんて、私も普通から随分逸脱してしまったなぁ。そもそもリウが敬語キャラなのがいけない。だからタメ口の私が偉そうに見えてしまうのだ。
「御坂さん、何か食べますか? クール便だったので冷えてますし」
「そうだね、リウの好きなものでいいよ」
「分かりました」
私はその間にテーブルの上を片付ける。手紙は封筒に戻して、棚の引き出しへ。少しして、リウは食べやすい大きさに切ったスイカを持ってきてくれた。
「今年もスイカの季節ですなぁ」
「小ぶりながら立派な西瓜でしたけど、毎年送ってこられるんですか?」
「うん、ウチの家庭菜園で毎年作ってるから。当たり外れも大きいんだけどね」
まずは一口。
「おお、今年は当たり年」
瑞々しいし、甘い。市販されている物と比べても遜色ない味だ。喉が渇いていたこともあって、ぱくぱくと口に運ぶ。
そんな私とは対照的に、何故かリウは手をつけようとしなかった。
「リウも食べたら? 美味しいよ」
「……御坂さん」
急に改まった顔で名前を呼ばれる。
「……、何?」
ついに、出て行くんだろうか? 私は通報しないだろうと、見切りをつけて。
「実は、お願いがありまして」
もう出て行きますから、今後も通報はしないでくださいね。
そんな言葉の続きが思い浮かんだ。
やっとこの人から解放される。自由になれる。それは喜ばしいことだ。
なのにどうして、こんなに胸が痛くなるの?
「実は……」
「実は?」
「実は私、西瓜が大好きなんです」
「……………………は?」
やはり私の耳は、おかしくなってしまったのでしょうか? そんな改まった顔で、言うことがそれ?
「私、昔から西瓜が大好きでして。西瓜を半分に割って、そのまま食べるのが夢だったんです。なので、優しいご主人様、ペットの夢を叶えてくださいませんか?」
リウはにこにこと笑っている。だけど目にからかっている色はない。つまり、本気で言っている。
「ど、どうぞ。好きにしていいよ……」
「ありがとうございます、御坂さん」
本気で嬉しそうだ……どうやらまだ、この家から出て行くつもりはないらしい。
「美味しいですね、この西瓜。素晴らしいです」
「そっか……そんなに喜んでもらえてよかったよ……」
嬉しそうにスイカ半分を食べるリウを見て、私はほっとしていた。どうしてこんなに安堵しているのか、理由は分からない。……分からないままでいい。
***
ついに夏休みも終わり、大学が始まった。そうなればレポートやら課題やらで色々と忙しくなる。
大学までは自転車で20分ほど。課題が山積みで、日中は早くから大学図書館へ、そのままバイトへ行って帰宅は夜。そんな生活リズムの中、リウは毎日見送ってくれたし、出迎えてくれていた。
だから、たまたま早くに帰れた日に、それは起きた。
「ただいまー! ってアレ?」
いつも出迎えてくれる笑顔と声が、ない。近頃は日も短くなってきた。薄暗いのに電気がついていないから、おかしいとは思ったんだけど。
「リウ?」
電気をつけて、中に入る。部屋にも台所にもいなかった。お風呂場にも、トイレにもいない。
何処にもいない。出かけたのか、それとも、出て行ったのか。
「リウ? ……リウ…………?」
不安になる。あの殺し屋さんは、出て行ってしまったのかと。
「挨拶もなしに、失礼じゃない……」
リウはいつだって家にいて、私を出迎えてくれた。出掛ける時はいつも私がいるで、きちんと声を掛けてから、ひっそりと愛用のナイフを見えるところに置いていった。
ここに帰ってくる。
きっと、そういう彼なりのサインだった。帰ってくるから心配するなと。
リウのナイフは、どこにもなかった。嫌な予感がする。
……もしかしたら、私がいない時にはこうやって、密かに出掛けていたのかもしれない。いやきっと出掛けていたに違いない。だから、心配することじゃないはず。きっと、そうだ。その、はずだ。
どうしようもなく不安になった私は、電気もつけず膝を抱えてリウの帰りを待つことにした。息を潜めて、真っ暗な部屋で、ただ彼を待ち続ける。
やがて雨音が聞こえ始めて、もしかしたら濡れて帰ってくるかもと、お風呂をつけた。
お風呂をつけたらまた真っ暗な部屋で彼を待つ。
それからしばらく経った頃、玄関の開く音がした。玄関の靴はしまわなかったから、彼は私が帰っていることに気付いただろう。一瞬音が止まって、それから室内に上がる足音がして、部屋の電気が灯る。
「御坂さん」
振り向けば、あの黒いスーツ姿のリウがいた。表情は無表情。そして微かにマッチを燃やしたみたいな臭いを纏っている。
言いたいことは沢山あった。聞きたいことも、沢山。でも。
「おかえり」
私の口から出たのは、そんな陳腐で、でもとても大切な言葉だった。
***
リウはずぶ濡れではなかったものの、雨のせいでそれなりに濡れていた。私は彼を無理矢理にお風呂場へ押し込め、その間にホットココアを作ることにした。
リウは案外甘党だから、砂糖は大目に。あんまり熱いのは得意じゃないから、少しぬるめに。
いつの間にか、彼の好みをきちんと把握してしまった。無意識に合わせていたことに気付いて、そんな自分を苦く思いながら、私は鍋の中をかき混ぜる。
「………………」
いつから、私はリウのことをこんなに気にするようになっていたのか。
彼は私を脅してここに居座った殺人犯だ。最初は警戒していたはずなのに、いつから、こんなにも心を許してしまったのか。
……私は現実に生きている人間だ。非現実的な殺し屋さんに絆される、なんて展開は望んでいない。
望んでいない、はずだったのに。
「違う、私は……」
否定しなければいけない。こんな感情、勘違いでしかないと。
「違う、違う……」
「御坂さん」
「!!」
耳元で声がした。驚きで心臓が盛大に跳ねる。
「牛乳、吹き零れてますよ」
「へ! え!?」
どうやら考えている内におててがお留守になっていたらしい。リウが私の後ろから手を伸ばし、火を止める。ふわりと石鹸の匂いが香った。
「全く、何やってるんですか」
そう言った彼は、いつも通りの彼だった。いつもと同じ呆れ声で、いつもと同じ呆れ顔で、私を見下ろしている。それが酷く、私を安心させた。
「私が全ての家事をやってしまうのがいけませんでしたね……このままでは貴方がお嫁にいけなくなってしまう」
「ちょ、そこまでは酷くない! 今は考え事してたから、それで失敗しただけ!!」
思わず叫んで、はっとした。このタイミングで考え事と言ったら、彼のこと以外有り得ない。そのことを、この聡い男が気付かないわけがない。
気付かないわけ、ないはずなのに。
「例え考え事をしていても、手を留守にさせては危ないですよ」
わざと、話を逸らされた。普段の彼なら嫌味のネタにするはずなのに。
「……、そう、だね」
「やはり甘やかしすぎましたか。今度から洗濯くらいはご自分でなさるといい。最初は下着だけはと自分で言い出したのに、今は家事の全てを私に放り投げて……」
「だってリウがやった方が綺麗なんだもん……」
「御坂さんは適当すぎるんですよ。とても丁寧にやれ、とは言いませんが、あまりに乱雑すぎる」
いつものようにぐちぐちと嫌味を言われて、いつもにように子供のような反発心で言い返す。
いつも通りの会話。いつも通りのやり取り。でもこれは全て演技、私もリウも、見せかけているだけだ。
「ほら、貴方はあっちに行ってください。これ以上、鍋洗いの重労働を増やさないでください」
「な! 折角ココアいれてあげようと思ったのに!!」
「それはとても光栄です、ありがとうございます。お気持ちだけで十分です」
「む、むっかー! リウってホント最低!」
「どうとでも言いなさい。私にダメージはありませんから」
分かっている。これが見せかけだと。くだらない芝居だと。それでも、私はこの茶番劇を演じ続ける。私が彼を、ここに縛り付けておくために。
***
夏が完全に終わり、秋も中頃を過ぎた。時の流れとはこうも早いものかとしみじみ思う。
私に飼われているらしい殺し屋さんは、まだウチにいる。私と一緒に暮らしてくれている。でも、前とは違って、お仕事をきちんとこなしているようだった。
時々、早めに帰るとリウがいないことがある。待っていれば彼は帰ってきてくれるけど、マッチの燃えたような臭い、恐らく硝煙臭は隠しきれず。ひどい時には血の臭いをさせていることもあった。もしくは、いつも通り出迎えてくれても、シャワーを使った形跡が残っている日もあって。
気付いていた。でも気付いていないフリをして、やり過ごした。
「ただいまー」
「おかえりなさい」
出迎えの胡散臭いにこにこ笑顔にも、もう慣れた。むしろ帰ってこの笑顔がないと、安心できない。
…………私も大分重症になってきたな。
「今日は早かったんですね」
「うん、レポートが思ったより早く終わって」
それは良いことです、とリウは笑う。……この人の笑い方も、随分柔らかくなった。それに気付けるくらいには、彼と共に過ごしてきた。
「そういえば、今日はこの秋最高の冷え込みらしいよ」
「ああ、だからこんなに冷えるんですね」
数日前に引っ張り出したファンヒーターが、ごうごうと温かい風を送ってくる。かじかんだ手を温めながら、私は窓の外を見た。真っ暗だから空の様子は見えないけど、夕方の具合からいって、どんよりと曇っているのだろう。
「今日はシチューにして正解でしたね」
キッチンでリウが言う。そうだね、と返してキッチンを覗き込んだ。
背の高い、見目のよい男がウチのキッチンに立っている。当初違和感のあったこの光景も、もう見慣れたものだ。
「ホワイト?」
「ええ。ビーフがよかったですか?」
「ううん、ホワイトシチューが好きだよ」
「私もどちらかといえばホワイト派です」
他愛ない会話。心地よい温度で交わされる、世間話。
「もう冬ですね」
「…………そうだね」
秋も、もうすぐ終わる。そうしたら冬が来て、きっとリウはいなくなる。
予感がしていた。予感というよりも、確信に近い。
彼は長くここに居た。長く居過ぎた。だから、そろそろ彼は、ここから出て行く。
仕方のないことだし、当たり前のことだ。そもそも殺し屋を匿っている方がおかしいのだから。異常事態から日常に戻るだけ。ほんのちょっと長く続いた夢が、覚めるだけ。
それだけなのに。
「……ねぇ、リウ」
「なんですか?」
「…………、お腹すいた」
「はいはい。急いでお作りしますよ、ご主人様」
私は彼に、何を言おうとしたんだろう? 何を言おうとして、寸前で踏みとどまったのだろうか。
ただ分かるのは、それは口に出しては絶対にいけないことだった、それだけだった。
リウ特製ホワイトシチューは文句なしに美味しかった。やはり女としては釈然としないものの、そんなの今更すぎる。
後片付けも終わらせて、部屋を占領していたテーブルをどかす。
安くもないが高くもない家賃の1DKの部屋に、私のベッドがあり、テーブルがあり。それだけでいっぱいいっぱいになってしまう。
リウは最初の頃、キッチンで寝ていた。でもそれはあんまりにあんまりだったので、慣れ始めた頃に部屋で寝るように勧めたのだ。以来、彼はテーブルをどかして、部屋の床で毛布に包まって眠っている。
「リウ、毛布一枚じゃ寒くない?」
最初は夏だったし、今までもそんな寒くなかったから気にならなかったけど、さすがに今日は寒い。私は追加の布団を出したくらいだ。
「大丈夫ですよ。野宿よりもマシですから」
……比べる対象が野宿なら、なんでもマシだろうよ。
「そうじゃなくて、寒くないかって聞いてるの」
「うーん……大丈夫だと思いますよ」
「風邪を引かれたら困るんですけど」
「なら大丈夫です。鍛えてますから」
だからそういう意味じゃない!
「もう一度聞きますよ、私のペットさん。毛布一枚で、寒くはありませんか?」
とてもゆっくりと、笑顔全開で、丁寧に問う。
「大丈夫です。毛布一枚あれば大抵の寒さはしのげますから」
だから答えになっていない。
もう一度問おうとして、やめた。ちゃんとした答えは望めそうにない。明日毛布をもう一枚買ってこよう。問答無用作戦だ。
とりあえず、今日はどうするべきか……。
「…………リウ」
「なんですか?」
毛布に包まろうとしていたリウを呼び寄せる。
「どうしました、あくたむしでもいましたか?」
「あくたむし?」
「最初の文字がゴ、最後の文字がリ、の黒い昆虫ですよ。古典で習いませんでした?」
「……普通、習わないと思うよ」
初めて知った。
「ちなみにあくたというのはゴミや塵という意味です。直訳するとゴミ虫ですね。昔の人もなかなか分かっている」
「うん、いらない知識をありがとう。別にそういうことで呼んだんじゃないから」
ちなみに私はあの黒い虫は平気だ。飛ばなければ。
「電気消しちゃって」
「? 分かりました」
素直に電気を消して、ベッドに近付いてきたリウ。無防備といえば無防備。
「で、なんですか? 貴方に誘惑されても食指は動かないんですが」
……前言撤回。無防備でなくて、無関心だ。
「…………そうよね、私なんかに食指は動かないよね」
にっこりと笑う。
「ええ、頼まれても無理ですね。普段の貴方を見ていますので」
あっちもにっこりと返してきた。
「だったら、いいよね」
「何がですか?」
「一緒のベッドで眠っても、大丈夫だよね!」
不意打ちでぐいっと、リウの腕を思いっきり引っ張った。不意を打つから、不意打ち。さすがのリウもバランスを取れず。
「へっへー、私の勝ち」
ベッドの上へ強引に引きずり倒すことに成功した。
「貴方ってヒトは……!」
流石のリウも驚いたらしく、忌々しげに呟き見上げてきた。鋭さの増した目だったけど、そんなに怒っていないことは分かっているから、ぜんぜん怖くない。むしろ初めて見るその表情に、私はにんまりと笑った。
「寒くないかって聞いてるのに明確な返事をくれなかった罰です」
「だから大丈夫だと言っているでしょう」
「それは答えになってない。分かってるでしょうに」
もう少し素直に寒くないですよとか、見え透いた嘘でも、きちんと答えてくれれば、こんな暴挙には及ばなかったのに。
よって、答えなかったリウが悪いのです。
「何度も言いますが、というか言い厭きましたが、私が歳若い男ということを忘れていませんか?」
「忘れてないわよ? 三十代、だってまだ若いものね」
わざとらしく三十代を強調して言ってやる。
「なら、あなたも忘れてないわよね? 私には食指が動かないって自分で言ったばかりだもの」
「それとこれとは話が……」
「違おうが違わまいが関係ない」
ぴしゃりと言い切ってリウを見下ろす。いつも立場的にも身長的にも、見下ろしてくるイケメンを見下ろす……かなり爽快な気分だ。
「風邪を引かれたら困るのは私。更に言うなら、飼われている立場ならご主人様には従いなさい」
偉そうに言ってやると、呆れた表情でリウは起き上がろうとした。だから彼の腕に抱きついて阻止する。
「はいはいはい、出てっちゃ駄目よー」
「……貴方は本当に、女としての自覚が無いんですね」
「あるわよ、一応。ペットの体調を心配する程度の母性は持ち合わせていてよ?」
「それを母性とは言いません」
「まぁまぁ」
私は男友達にするように、気軽に肩を叩いた。それから相手に奢らせたい時に浮かべる、可愛らしいと書いて気持ち悪い笑顔で。
「ここで寝よ? ね?」
「……まさか、貴方が魔性の女とは知りませんでしたよ」
「よかったね、今分かって」
「………」
リウは私を睨みながらも、ベッドから出ようとはしなかった。いや、隙あらば出ようとしてるけど、私がそれを許さない。恋人にするように腕に強く抱きついて、出て行くのを断固阻止だ。
「貴方はいつもこんな風に男をベッドへ連れ込むんですか?」
渋々ベッドに身を沈めたリウが、心底つまらなそうに聞いてくる。
「私そんなに尻軽じゃないし、というかそんな風に思われるなんて心外すぎるよ。基本は受身女だよ?」
「これだけヒトをはめておいて?」
「あなたはコイビトじゃないでしょ? 友達なら平気へいき」
まあ、ベッドに引っ張り込むなんてこと、リウ以外にやりたいとは思わないけど。
「友達、ね……」
ちらりと見下ろされて、私はべーっと舌を出した。
「……貴方は本当に、私を男として見ていないんですね」
「そうじゃなかったら一緒に暮らしてなんかいられないって」
「それは確かにごもっとも」
私に片腕を拘束されたまま、器用に布団を掛けてくれるリウ。
「……あなたは、顔に似合ってとても器用ね?」
「貴方ほど経験も計算もないですよ。安心してください、貴方に食指は動かない」
ちらっと見上げれば、呆れたような、でも優しい目で、私を見ていた。
……なんで、こんな優しい目をする人が、人を殺したりするんだろう?
浮かんだ疑問を無理矢理打ち消して、私は目を閉じてリウの腕を抱き締める。
「おやすみ、リウ」
「お休みなさい、御坂さん」
苦笑した気配と、降ってくる優しい声。
久々にヒトの温もりをすぐ近くに感じながら、私は眠りに落ちていった。
***
秋も終わり冬が来て、気が付けばもう十二月になろうとしている。その日はとても寒い日だった。雪が降ってもおかしくないような寒さの日。
そんな日に、ふと嫌な予感を感じた。それも家の鍵を閉め忘れたかもというような、日常的で生温いものじゃなく。
大事な人がいなくなるような、肌がぞわぞわする感覚。虫の知らせみたいな、すごく嫌な感じのするもの。
帰りたくないと、出来ることならこのまま逃げてしまいたいと、初めて強く思った。出会った当初でもこんなに強く思ったことはない。それくらい、嫌な予感がしていた。
でも私の家はここで、目の前にあるドアを、開けなくてはならない。
「た、ただいま……」
「おかえりなさい」
玄関で出迎えてくれたリウ。帰ってくる声はいつもと同じで、とても穏やかだ。浮かべている笑顔も、いつもと同じ。
ただ、違うのは。身に纏った服装と、雰囲気。
「……出て行くの?」
「ええ。お世話になりました」
リウが恭しく頭を下げる。黒のシックなスーツと相まって、何処かの執事のようにも見えた。中身はそんな高尚なものじゃないと、知っていても。
「夕食は作っておきましたから、温めて食べてください。それくらいなら貴方にも出来るでしょう」
にっこりと、本当に変わらない笑顔でリウは話す。
「随分と長い時間お世話になってしまいましたね。ご迷惑をお掛けしました」
「……ううん。こちらこそ、助かった」
「私も助かりました。逃亡の準備もしっかりと、抜かりなく出来ましたので」
「私、本当に助かったよ。家事、ほんと苦手だから」
ほら、嫌な予感は当たるんだ。嫌な予感に限って、当たるんだ。
……どうして悲しい? 怖い殺し屋さんがいなくなる。いいことじゃないか。
「いえいえ、利用していたのはこちらも同じですから。家事は嫌いじゃありませんし」
利用。
そう、彼は私を隠れ蓑していた。私も彼を匿う代わりに、家事をやってもらっていた。持ちつ持たれつ、利用し合っていた。
「貴方は私のことを通報しない。信用できます」
これだけ長く一緒にいれば情も移る。女とは基本的に情にほだされやすい。そういう意味では、彼の選択は正解だった。
「御坂さん、ありがとうございました。貴方との生活、悪くはなかったですよ」
その言い方は、ずるい。
悪くはない、でも良くもなかった。そんな裏読みをしてしまう自分の卑屈さが嫌だ。でも、誰だって同じことを考えるだろう。
だからこそ、引き止められない。
「……あなたのことは警察に通報しないし、誰にも言わないから」
「そうしてください。賢明な判断です」
にっこりと友好的に笑う。でも、口外したら殺すと、目が暗に物語っていた。
この人は殺人犯、殺し屋だ。どんなに優しそうに見えたって、本質は全然違う。何処までも何処までも、非情になれる存在だ。
「それでは御坂さん、お邪魔しました」
もう一度丁寧に頭を下げて、リウは私の脇をすり抜ける。私に脇目ひとつ向けず、迷わず真っ直ぐに、ドアを向かっていった。
私は振り返れなかった。見送ることはしたくない。振り返ったら、自分でも何を言い出すか分からない。
「…………私も」
でも、口が勝手に動いていた。リウが動きを止めた気配がする。
「私も、あなたとの生活、悪くなかった」
「……、光栄です」
静かな声でそう答えて、リウはドアを開けて外へ出て。
「さようなら」
冷たい声で別れを言い、ドアを閉じた。カツカツと躊躇いのない足音が遠ざかって、やがて聞こえなくなった。
「…………っ」
膝から力が抜ける。立っていられない。糸が切れたように、その場に崩れ落ちた。
「……っ、はっ、ははっ」
これで私の普通の日常が戻ってきた。彼が来る前の、夏の前の生活に、戻るだけ。それが私にとって普通の日常。起きて、大学に行って、バイトに行って、家に帰ってきて、簡単にご飯を食べて、寝る。ずっと繰り返される平穏だ。
よかったじゃないか。これで怖い思いをしないで済む。口うるさく小言を言ってきた殺し屋さんがいなくなった。これで好き勝手出来るじゃないか。
警察にびくびくすることもないし、誰かに彼を見られやしないかと、心配する必要もない。また一人で、自分のことは自分でやる、当たり前の生活に戻るだけじゃないか。
「ははは、は……っく、ひ…………っ」
いい事尽くめじゃないか。また気楽な一人暮らしに戻れたんだから。当たり前の日常に戻っただけじゃないか。
――どうして、泣く必要がある?
「ひ……っく、リ……ウぅ…………っ」
家に帰ると出迎えてくれる人がいる。温かい食事を用意して、待っていてくれる人がいる。
「リウ……リウ…………」
色々なことを話しながら食べる食事。他愛ない話でも、きちんと聞いてくれる人がいて。
「リウ、リウ、リ……っ」
ちょっと元気が無いだけでも心配してくれて。ちょっとした気遣いで、とても嬉しくさせてくれる人。
「いや、だ…………」
何かあったらすぐに相談できること。とても心強い、とても頼りになる人と一緒にいること。
「私、……、……なんだ、から…………っ」
大好きな人が、私の帰りを温かく迎えてくれる。それだけで普通の日々が、幸せで満ち溢れているように感じられた。
「私……あなたが、…………っ」
好き。
「私、私はぁっ!!」
そう、私は、好きだった。
あの奇妙な縁から始まった生活。最初は恐々と一緒にいたけど、次第に慣れていった。慣れたら慣れたで、彼は様々な顔を見せてくれるようになって。
皮肉を言いながらも、私が本気で気にしていることは絶対に言わなかった。
にこにこ笑っている時ほど信用ならなくて、だけど同時に楽しそうでもあった。いちいち皮肉っていたけど、なんだかんだで私を心配してくれた。
たまに見せてくれる優しい眼差しが、実は心優しい人なんだって教えてくれた。いつだって私が心配しないように、必ず帰ってくるよと言うように、愛用のナイフを置いて外出してくれた。
私が怖がらないようにって、絶対に怒らないで、殺気を出さないで、睨んだりもしないで、仕事をしてきたことをも隠してくれた。
思い返せば、彼はいつも私に気を遣ってくれていた。優しく、柔らかく、怖がらないように、傷つけないように、穏やかな雰囲気を崩さないでいてくれた。
リウは確かに殺人犯かもしれない。殺し屋さんかもしれない。非現実的な人だった。
でも、私に対する姿勢や心遣いは、決して嘘じゃなかった。例え利用するためだとしても、それだけは、確かなことだ。
面倒なら殺してしまえばいいのに、殺さないで、私のために自分が苦労することを選んでくれた。
「リウ、リウっ!」
優しい人。とても、優しい人。
どうして彼は殺し屋なんてしているんだろう? 優しい彼が、傷付かないはずないのに。
もしかしたら彼は殺し屋じゃないのかもしれない。本当は家を失くして放浪していた男で、あの殺人犯逃亡に乗じて、私を脅してみただけなのかもしれない。
もしかして、もしかしたら。かもしれない、だったのかも。
憶測ばかりが浮かんでは消えていく。
もしかしたら戻ってくるかもしれない。忘れ物しちゃいましたって、またあの胡散臭い笑顔で、戻ってくるかもしれない。
…………そんなこと一番有り得ないって、分かっているけれど。
「どう、どうしてっ! 今になって自覚するのよぉ……!!」
遅すぎる。遅すぎるではないか。私はこんなにもリウが好きになっていたなんて、自分でも思っていなかった。