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前編

 人はあまりに信じられない事態に出くわすと頭が真っ白になる。

 ドラマとか小説とかでよく見る表現だけど、まさか実体験することになるなんて思ってもいなかった。


「……っ」


 口が不自然に引きつったまま戻らない。冷や汗が背中をダラダラと流れるような感覚がする。


 ――轢いた。人を轢いた。


 いや、この場合は人をはねたと言うんだろうか? いやいや、そんなことはこの際どうでもいいのだ。要は自転車と人の衝突事故を起こした。そして私が加害者の自転車側である。

 混乱のあまり、脳が勝手に事故までの経緯を振り返り始める。フリーズした私の理性は、その垂れ流される記憶をただ眺めるしかなかった。


 今は夜、私は近くのコンビニまで牛乳を買いに行った。朝にコップ一杯の牛乳を飲まないとどうにも落ち着かないのだ。小さい頃からの習慣ってなかなか抜けないよね。牛乳、本当はちょっと遠いスーパーの方が安くていいんだけど、流石に夜は行く気力が……。

 いやいやいや、だからそんなことはいいんだって!

 ともかく、私はコンビニからの帰りだった。コンビニとアパート間の近道は街灯の少ない、とても暗い細道だ。自転車の壊れかけたライトだけが頼りの綱なくらい、暗い道。

 ライトはギリギリと唸りながら頑張って発電しているけれど、如何せん壊れかけだから時折、灯りがふっと途切れる。いい加減直さなくちゃなんて思いながら、これまた街灯のない小さな十字路に差し掛かり。


 ドン! ズシャッ!


 右側から出てきた何かを、はねた。

 あまりにタイミングが良かった。いや悪かったんだろうか。私が通り掛かると同時に、それは飛び出してきた。ブレーキなんて掛ける暇もなく、若干の下り坂から降りてきた、なかなかにスピードがついた状態で、はねた。

 そこそこ大きな衝撃を受けたけど、私は倒れたりせず、少しふらついただけで済んだ。運がいい。……いい、のか?

 ともかく慌ててブレーキを掛けて急停車。そしてライトの野郎がそんな時に限って一瞬完全復活し、最悪な場面を照らし出した。

 前方に真っ黒な服を着た人間が倒れていた。周囲には他にぶつかったような物体は、なにもない。


「――、――」


 言葉が出ない。頭が真っ白だ。救急車を呼ばなくちゃ。いやでも私がはねちゃったんだよ? でも逃げたら轢き逃げになるよね?

 ……いやいやいやいや、早く救急車を呼べ、私。


「きゅ、救急車!!」


 やっと戻ってきた理性に従いスマホを取り出し、119、119と震える手でタップしようとするけれど、うまく押せなくて涙がにじんだ。はやく、はやくと気ばかりが逸って動けない。


「…………あの」

「ぎゃあ!」


 すぐ近くで男の声がした。本気で心臓が止まった。


「いやワザとじゃない! ワザとじゃないんです!! 確かに左右確認も忘れたしライトも壊れていたとはいえこれは不慮の事故でして!」


 焦りすぎて混乱しているとワンブレスで長台詞も楽々言えてしまう。新発見。


「だから私が悪いとしてもまずは救急車を呼ばないと私は轢き逃げ犯になってしまうわけですよ! だからまずは電話をかけさせてください!!」

「落ち着いてください」


 これが落ち着いていられるか! ひ、人を轢いたんだぞ!!


「救急車を呼ぶ必要はありません。だから落ち着いて」

「なんで?! だって人を轢いて……あれ?」


 この人、誰?

 遠くの街頭の明かりに照らされて、苦笑いしている男の人。そして彼の額からは血が……。


「死ぬような怪我はしてませんよ。だから、落ち着いてください」


 結論。私はこの人を轢いた。いや、はねた。


「!!」


 頭からだらだらと血が流れている。頭の怪我は危ないと散々テレビで言っていたことを思い出す。


「あのやっぱり救急車を!」

「だから大丈夫です。それより、貴方に怪我はありませんか?」


 紳士的な笑顔。オプションで額から血がだらだら。どう見たってアンタが大丈夫じゃない。


「血! 血が!!」

「血? ああ、大したことありませんよ」


 大したことあるよ!


「救急車……救急車!」

「だから大丈夫ですって。それより、静かにしてください」

「でも、でもっ!」


 その血を見て大丈夫と言われても説得力皆無ですから! どうやらこの男は救急車が嫌いなようだ。嫌い、なのか? まあ好きな人はいないだろうけど。


「と、ともかく手当てしないと!」

「大丈夫ですよ。自分でなんとか……」

「いえ! 私が轢いたのです!! 私が手当てしないと!」

「なんですかその使命感は……」

「何でもいいんです! ウチまで来てください!!」


 幸い、私の住むアパートはこの十字路から徒歩数分だ。近い近い。


「こっちです!」


 私は自転車から飛び降りるようにして、男の人の腕をがっしり掴んだ。


「徒歩約三分です! だから手当てさせてください!!」


 人はとんでもない出来事に出くわすととんでもない行動に出る。

 ドラマや小説の表現は馬鹿に出来ないと、しみじみ思わされた出来事だった。


***


 私はアパートで一人暮らしをしている。大学二年生、大学に慣れ、就活の準備はもう少しだけ先、という時期だ。今は夏休みで、だからといって帰省する気にもなれず、普段よりもぐうたらな生活をしていた。

 ……それを今、本気で後悔している。


「ちょっと待っててください!」


 部屋の中はなかなかの散乱具合だった。自分の部屋なんだからそれでもいいのだけど、来客がいるのにこれはマズイ。

 下着とか脱ぎ捨ててあった服を押入れに放り込む。雑誌を簡単にまとめて部屋の隅へ。

 私がはねてしまった男の人は苦笑したまま玄関に立っている。室内に背を向けて扉側を見てくれていた。紳士だ、紳士がいる。


「あの、大したことないで本当に大丈夫……」

「はい? 何か言いました?」


 どう見ても大量出血で何を言うか。


「……どうぞ、上がってください」

「…………はい」


 有無言わせないにっこり笑顔で促せば、男の人は渋々部屋に上がった。

 救急箱からガーゼを取り出しながら、ちらりと男の人を観察する。真っ黒なスーツを着た、なかなかの男前。どちらかというと優男風。ただ、ずっと笑顔を浮かべているからか、どうにも胡散臭い。


「頭の怪我、見せてください」

「本当に大丈夫なんですけどね……」


 言いながらも、男の人は椅子に座って前髪を手でおさえてくれた。

 みれば髪の毛の生え際近くに切り傷が。そうは深くないみたいだけど、結構広範囲。見た感じゴミは入っていなさそうだけど、洗った方がいいな。

 自分で洗ってもらった方がいいかな? でも洗面所は今荷物を放り込んだばかりで、なかなかの惨状だ。


「ちょっと待っててください」


 ひとまず洗面器に水を準備していると、市から貸与されている防災無線の受信機が鳴り出した。

 耳を澄ませば外では屋外スピーカーも鳴っている。


「どうかしたんですかね?」


 水の入った洗面器とタオルを手に戻り、男の人に話しかけるも、彼は返事をしなかった。濡れタオルで傷周辺の血を丁寧に落としながら、無線の声に耳を傾ける。


『西警察署から連絡します。現在西地区に殺人犯が逃走中です』


 殺人犯? なんとも物騒な話だ。


『犯人は痩せ型の男。黒いスーツを着ています』


 ……まさか、ね。そんなドラマとか小説みたいな話、ないよね?


『ナイフを所持しており、頭を負傷しています』


 …………まさか、ねぇ。ちゃり、と金属音がした。びくっと動きを止める。


『住民の方は外出せず、戸締りをしっかりとして警戒ください。繰り返します――』

「………………」


 唇が引きつって、ぎこちない笑みが勝手に形作られる。そんな中、男の人と目が合った。


「騒がないでくださいね」


 にっこり。男の人は私のお腹にナイフを向けながら笑った。


『戸締りをしっかりとして、十分に警戒を――』


 ……既に家の中にいる場合、どうやって戸締りして警戒すればいいのでしょうか。切実に教えてほしかった。


「だから言ったでしょう? 大丈夫だと」


 男の人はやれやれと言った感じで肩を竦める。

 私はといえば、タオルで額を拭いていたままの格好で固まっている。


「聞いていますか、御坂燐さん?」

「!!」


 なんで私の名前を? まさか最初からターゲットは私……!?


「そこのダイレクトメールに書いてありましたよ。不用心ですね」

「はは、ははは……」


 あっさりと言われて、私は笑うしかない。


「さて、どうしましょうか? 顔を見られてしまいましたしね」


 にこにこと笑う顔に邪気はない。邪気はないが、威圧感がある。


「…………あのぅ」

「なんですか?」


 にこにこ笑顔につられてにこっと笑う。とても引きつっているだろうけど。


「まずは手当てだけ、しちゃっていいですか?」


 この格好のまま固まっているのは辛い。中腰で腰が痛くなりそう。限界がきて無意識に動いた瞬間ブスリ、は勘弁願いたい。


「……どうぞ」


 男の人は呆れた顔をしながらも許可をくれた。


「ありがとう、ございます」


 お礼を言ってから、言う必要はないことに気付く。脅されてるのに、どうしてお礼なんて言う必要があるのか……。


「変な人ですね」


 全くその通りだと、自分でも思った。


***


 とりあえず簡単に血を落として消毒したあと、ガーゼをテープで貼り付けた。消毒液をかけた時、事前に声をかけたとはいえ、微動だにしないことが逆に怖くて泣くかと思った。動いた拍子にぶすっとされても困るけど、表情一つ動かさないのも怖い。すごく怖い。

 ちなみにお腹に向けられたらナイフが私に触れることもなかったけど、気になりすぎて胃が痛くなってきた気がする。

 ……私に医術の心得はない。ガーゼが不恰好な貼り方になったけど、人に見せるものでもないので気にしないことにした。

 手当てを終えて恐る恐る離れると、男の人の正面へ正座するよう指示された。


「……はぁ」


 思わず溜息が漏れる。


「溜息はこっちがつきたいです」


 男の人が吐き捨てるように言った。

 思えばこの人は最初から手当てを拒んでいた。それを無理矢理に引っ張り込んだのは私。確かに溜息をつきたいのは男の人の方だろう。


「随分と冷静ですね」


 男の人の顔から笑顔が消えて、呆れた表情で私を見てくる。


「怖くないんですか? 私は殺人犯ですよ」


 怖いか怖くないかで言えば、怖い。でもそれはこの人じゃなくて、突きつけられた凶器が怖いのだ。


「……貴方は怖くない、かな」

「どうして?」

「殺すつもりなら最初から殺してるはずだから」


 よくよく考えれば、最初から私を殺していればこんな事態にならなかった。確かにこの人を轢いたけど、大した怪我もなかったようだし。だったら最初から殺していれば、面倒なことにならなかったはず。

 なのに、私の心配をしたからこんなことになった。つまり、この人は根っからの悪人じゃない、はず。

 …………確かに、私は不自然なくらい冷静だ。人はあまりに非現実なことに巻き込まれると、逆にすごく冷静になるのか。またしても新発見。

 一人納得していると、男の人は目を丸くして私を見ていた。そして薄く笑う。


「貴方はおかしな人だ」

「私もそう思う」


 自分でもおかしいと思うよ。


「では、ここで簡単なクイズを出しましょう」


 うわ、すごく嫌な予感。


「お察しの通り、私は今警察に追われている殺人犯です」

「そうですね……」

「だから通報されるとすごく困るんです。捕まりたくないですから」

「そうですよね……」

「そうなんです、とっても困るんです。さて、問題です」

「回答拒否は?」

「認めません」


 だよねぇ。


「私は追われている身、貴方には顔を見られている。ならば、私はどうするべきでしょう?」


 友好的な笑顔だ。とても友好的で……逆に胡散臭い。


「一、貴方を殺す」


 最も簡単な選択肢だ。そして私にとって一番最悪な選択。


「二、貴方を人質にして逃げる」


 まあ、分からなくもない選択肢だけど。


「しかし、いつまでも連れてはいけないので、適当なところで殺します」


 だよねぇ……。


「三、貴方を口止めしてここから立ち去る」


 願ってもない展開だ。でも。


「ただし口約束も信用できませんから、ある程度、死なないくらいには痛めつけます」


 痛いのは嫌いなんで勘弁してほしい。


「そして、最後の選択肢」


 まだ選択肢があるらしい。私の頭では三つしか思い浮かばなかった。


「四つ目、ここに匿ってもらう」

「………………はい?」


 私の耳はこの異常事態にやられて、ついに壊れてしまったのだろうか?


「私を匿ってください、御坂さん」


 壊れていなかったらしい。


「匿うって……」

「お気に召しませんか? なら言い方を変えましょう。私を飼ってくださいませんか?」


 この人の頭、かなりイカれているのでは。


「……真面目な話、今ここから逃げるのは面倒なんですよ」


 男の人は冗談めかした笑みを消して、普通の笑顔を浮かべた。その気もないのに浮かべる、作り物の笑顔。


「さっきの放送からして、私がこの街にいるのは周知の事実です。そんな中で下手に動けば捕まってしまいます」

「そう、でしょうね」

「そうだ、ヒントを差し上げましょう。私は無益な殺生が嫌いです」


 殺人犯が無益なって…………無益?


「あなた、殺し屋さん、なんですか? お金をもらって人を殺す……」

「流石にそれくらいは頭が回りますか。そうですよ、正解です」

「正解景品はあります?」

「ありません。では、最初のクイズの答えをどうぞ? 貴方はどれを選びますか?」

「えっと……ここは学生向け単身者アパートなので、住まわせるのはちょっと……」

「ペット可のアパートですよね、ここ。お隣さんも猫を飼っていらっしゃるようですし。私というペットを飼うだけです、契約違反ではありませんよ」

「いや、人間をペットって無理があるかと」

「あぁ、私はか弱いペットですので、そろそろ腕が疲れてきました……手から力が抜けてしまいそうです。ナイフって結構重いんですよねぇ」


 実際問題、今の私に選択肢はあるのだろうか。いや、ない。


「よ、四番で」

「貴方ならそう言ってくれると思いました」


 にっこり。


「…………ははは」

「…………ふふふ」


 人はどうしようもなくなると笑うしかなくなる。出来れば、知りたくなかった。

 殺し屋さんはリウと名乗った。それ以上でもそれ以下でもない、リウと。


「それって偽名ですよね?」

「いえ、本名ですよ」


 にっこり。

 …………絶対に偽名だ。

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