『金喰い令嬢』の恋のはじまり
ヘンリックが連れて行かれた後、二人は場所を変えることにした。
どこへ行こうか……となったが、ルチナはヘンリックにスカートを引っ張られた際に倒れたし、スカートも泥まみれになっている。怪我はしていないが着替えなどをしたいため、ルチナの屋敷に移動することになった。
出迎えてくれた使用人たちは、泥まみれで帰ってきたルチナを見て顔面蒼白になり、そして女主人の肩を抱く見知らぬ美丈夫の姿に目を点にした。
応接間に通したヴァレリアンが皆に事情を話している間に、ルチナはメイドに連れられて風呂に入り、服も着替えた。気持ちも整えてから応接間に戻ると、ヴァレリアンは使用人に振る舞われた軽食と紅茶を口にしているところだった。
「お待たせしました。……申し訳ありません、ヴァル様。ご迷惑ばかりおかけして……」
「いや、俺こそ行くのが遅くなってしまった。レストラン前なら明るいし人通りも多いから安全だろうと思ったのだが……俺の考えが甘かった」
「いえ、普通の人ならあんな場所で襲ってきたりしませんから、ヴァル様の気になさることではありません」
「……悪いな」
ヴァレリアンが短く詫びたことで、ひとまずこの件は解決ということになった。
ルチナも夕食がまだだったので軽食で腹を満たし、それからメイドから受け取った鞄を開いた。
「その……今日は、これをあなたに渡そうと思ったのです」
そう言って鞄から恐る恐るラッピングを出したが――案の定、ぺたんこに潰れていた。当時の記憶はあやふやだがおそらく、ヘンリックに引っ張り倒されたときに自分の体で潰してしまったのだろう。
(きれいに作れたのに……)
しゅんとするルチナだが、ヴァレリアンはそれを受け取ると丁寧にラッピングをほどき、中のブックカバーを見て「これは……!」と弾んだ声を上げた。
「もしかして、ゼロをモチーフにしているのか? この太陽のマーク、俺も想像していたとおりのものだ!」
「そ、そうでした。でも……少し、剥がれてしまっていますね」
なるべく丈夫なものになるように糊付けなども丁寧にしたのだが、さすがに押し潰したり引きずられたりということは想定しておらず、ゼロイメージである太陽の部分などが少し破れてしまっていた。
だがヴァレリアンは首を横に振り、少しくたびれているブックカバーの表面をそっと指先でなぞった。
「いや、文句ないほどの出来だ。……素敵なものをありがとう、ルチナ」
「……作り直します」
「いいんだ。もらえたことがとても嬉しいし……俺がこれをねだったことが原因で、あなたが元夫に出くわすことになったのだろうからな」
ヴァレリアンが悲しそうに言うので、ルチナは首を横に振った。
「いいえ、遅かれ早かれこうなっていたと思います。……実は少し前に、元夫からの手紙が来ていたのです」
「そうなのか!?」
「はい、単純に気持ち悪い内容でしたが。……家族や親戚にも報告はしていたのですが、きっと元夫は私と接触する機会をずっと狙っていたのでしょう。今夜のように、ヴァル様と待ち合わせをしているときだったからあなたが来てくれましたが、そうでないときだったら……」
全ては「かもしれない」論だが、不幸中の幸いと解釈した方がヴァレリアンも気に病まずに済むし、ルチナの精神衛生上もよいと思えた。
ヴァレリアンはしばらくの間黙ってブックカバーの表面をなぞっていたが、やがてラッピングを戻してから大切そうに自分の荷物の中に入れた。
「……ええと、ヴァル様」
「うん、何だ?」
「……私、あなたに声を掛けてもらえるようになってから……いろいろ考えたのです」
ルチナは、以前王女と話した内容をヴァレリアンに告げた。
同じ「閃火の剣」を愛読する仲間としてヴァレリアンと出会えて、本当に嬉しかったこと。だが……そこに恋情を挟むと、愛読者仲間ではいられなくなるのでは、と思って足踏みしてしまったこと。
そして、一ヶ月間とはいえ自分は他の男と結婚していた経歴があり、それが引け目になっていることも。
ヴァレリアンはルチナの話を最後まで聞いてから、「なるほどな」と唸った。
「友情と恋愛は両立しないとか、そういう類いの悩みか」
「そんなところです。……なんと言いますか、多分私、人間関係をどこか諦めているところがあるのです」
ヘンリックと離縁したときに、相手に多くを求めない、相手に期待しすぎない、ということを学んでしまったのかもしれない。
今はヴァレリアンと本繋がりで親しくできても……いざそこに恋が生まれると、ぎくしゃくしてしまうかもしれない。面倒くさくなって、捨てられるかもしれない。せっかく巡り会えた読書仲間が、いなくなってしまうかもしれない。
だが……捨てられたとしても文句は言えない、と諦めのような気持ちもあった。
「……だからきっと、怖くて」
「怖いのか」
「はい……」
「なるほど。だがそれはきっと、俺も同じだ。俺も、怖い」
「ヴァル様も?」
こんな立派な人の口から「怖い」という言葉が出てくるとは思っていなくてルチナが問うと、ヴァレリアンはうなずいた。
「俺も、ルチナのような読書仲間ができて嬉しいが……臆病にもなっている。知っているかもしれないが、俺は女性関係に疎くて異性の友人などもいないから、ルチナと一緒にいたいと思いつつも臆病になってしまっている。勇気を出して挨拶などをしてきたのだが……心の中ではいつも、これでいいのだろうかとびくびくしていた」
「ヴァル様も、びくびく……」
「ああ。……幻滅したか?」
「いいえ? 意外ですが、幻滅することはありませんよ」
むしろ……皆から慕われる将軍閣下にこんな面があるのだと知ることができて――ヴァレリアンの口から教えてもらえて、少しだけ嬉しかった。
ルチナの口元がほんのりほころんだからか、ヴァレリアンもそれまでのどこか硬い表情を緩めて微笑んだ。
「ルチナ。俺はやはりこうして、あなたの顔を見て声を聞いて、気持ちを交わしたい。……手紙が嫌というわけではないが、それでは満足できそうにない」
「ヴァル様……」
「そ、その……もし少しでも、あなたも同じように思ってくれているのなら……これからは読書仲間からもう一歩進んでいきたいと思っている」
ヴァレリアンがそう言った瞬間、それまでは壁際に待機していたメイドがささっと移動して部屋から出て行った。
ヴァレリアンは頬をほんのり赤らめており、だがまなざしはまっすぐルチナに向けられている。
(もう一歩、進む……)
それはきっと、ヘンリックと結婚したことがあるとはいえどルチナが一度も経験できなかったこと。
誰かに命じられて押しつけられた「愛」を受け入れるのではなく、対等な関係としてお互いに「愛」を伝え合える関係。
「……好きだ、ルチナ。あなたのことが……好きだ」
「っ……」
「その、俺もこういうのは不慣れでよくやり方とかが分からないのだが……あなたと一緒にいろいろなことをしていきたい。本について語ったり、どこかに行ったり、食事をしたり……一緒に考えながら、やっていきたい」
ヴァレリアンが恥ずかしそうに言うのを聞き、ルチナの目の前がほんのりと明るくなったように思われた。
(ヴァル様は、私と一緒に歩いてくださる)
ヴァレリアンが前で自分が後ろを歩くのではなくて、一緒に足並みをそろえて物事を考え、協力し、相談しながら歩いてくれる。
きっと、きっと、大丈夫。
五年前に目覚めてからも暗い場所をさまよっていた自分だが……彼とならきっと、大丈夫。
「……ありがとうございます。私も……あなたと一緒に、歩きたいです。すっ……好き……だとも思います……」
つい恥ずかしさもあって曖昧な表現になってしまったが、ヴァレリアンはぱっと破顔して、「ありがとう!」と嬉しそうに笑ってくれたのだった。
空は、よく晴れている。
「いってきます。夜中になるまでには帰るわ」
「はい、いってらっしゃいませ」
「お気を付けて」
玄関でルチナが挨拶をすると、使用人たちは笑顔で送り出してくれた。今日はルチナもヴァレリアンも休みを取っており、一日デートをする予定だ。
ルチナの屋敷の前には既に立派な馬車が停まっており、そこに寄りかかるようにして立っていたヴァレリアンはルチナを見ると微笑み、帽子を被り直した。
「こんにちは、ルチナ。今日もとても素敵だよ」
「こんにちは、ヴァル様。お迎えいつもありがとうございます」
ルチナの手の甲にキスを落としたヴァレリアンは、「どうってことないさ」と言って片目をつぶった。
ルチナとヴァレリアンが交際を始めて、もうすぐ一ヶ月。
「氷華の将軍」と「金喰い令嬢」の交際の噂はあっという間に広がり、いろいろな意味で阿鼻叫喚の騒ぎになった。
ルチナも最初の数日は何者かに遠くからじっと見られたりしたが、アニエラや王女付きの女騎士たちに全面協力してもらったり、屋敷にいる間は従兄弟たちに様子を見に来てもらったりして、今では平和的に冷やかされるくらいで落ち着いていた。
アニエラには「結婚してもわたくしの筆頭侍女でいてね」と念押しされているし、将軍と交際していると知ったときの伯父には卒倒されたりもしたが、ちょっとずつステップを踏んでいるルチナたちを、皆は優しく見守ってくれている。
馬車に乗るため、ヴァレリアンが差し出した手にルチナは手を乗せた……が、そのとき少し強い風が吹いたためドレスのスカート部分がはためき、体がぐらついてしまう。
「きゃっ!?」
「っと……!」
前のめりに倒れそうになったルチナだが、ヴァレリアンが危なげなく抱き寄せてくれた。
「す、すみません……」
「いや、あなたが無事なら……」
そう言いかけた二人だが、今になって互いの顔がこれまでにないほど近い場所にあると知って口を閉ざしてしまった。
……ルチナの頬が徐々に熱くなっていくが、ヴァレリアンも同じだということは彼が目をそらして口を手で覆っていることからも分かった。
二十六歳と三十歳の二人だが、どちらもこれまでまともに恋愛をしてこなかったので、まるで十代のような反応をしてしまうのだった。
風が収まったので急ぎで馬車に乗り、ドアを閉める。
「それじゃあ……今日はどこに行こうか。まずは昼食だけれど、リクエストはあるか?」
「少し涼しいので、暖かいものが食べたいですね」
「いいな。それじゃあ、半年前にできたカフェにでも行くか? 部下からは、恋人を連れて行くのにちょうどいい店だと聞いているのだが」
(恋人……)
その甘美な響きにルチナは胸をときめかせ、隣に座るヴァレリアンの手にそっと自分の手を重ねた。
「いいですね、そこに行きましょう」
「ああ。……。……その、ルチナ」
「はい」
「…………手、握っていいか?」
「………はい」
御者に指示を出した後、ヴァレリアンは手のひらをひっくり返して、大きな手でルチナの手を包み込んでくれた。
これからもこうして。
好きなものの話をして、何かを決めるときには一緒に相談して。少しずつ、少しずつ、ヴァレリアンとの時間を重ねていきたい。
「……ヴァル様」
「うん?」
「……好きです」
「……。……ああ、俺も好きだよ、ルチナ」
繋いだ手は、とても温かかった。
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