『金喰い令嬢』の戸惑い
ここからルチナ視点です。
ルチナ・フィッツァーは、某伯爵の妹と騎士の間に生まれた。
一人っ子の彼女は平民階級だが、両親が多忙なときはよく母の実家である伯爵家に預けられた。そこには男の従兄弟しかおらず、伯父はもちろん血の繋がりのない伯母である伯爵夫人もルチナを大歓迎して、可愛がってくれた。
教育もきちんと受けさせてもらったので、ルチナは十七歳で王宮侍女として就職した。当時はまだ王女付きではなかったので、先輩侍女に仕事を教わりながらコツコツと努力をしていた。
そんな彼女は十八歳の頃、商家の息子であるヘンリック・メイザーと知り合った。一つ年上の彼はルチナにとても優しく、「僕のお姫様」「可愛い妖精」と甘い言葉をたくさんささやいてくれた。
子どもの頃からいろいろな小説を読んでいて少し夢見がちだったルチナは、ヘンリックの言葉にころっと落ちた。そして両親や親戚たちを説き伏せ、十九歳で彼と婚約した。
……婚約してから、「あれ?」と思うことはたびたびあった。
交際前はベタベタに優しかったヘンリックが、「おまえ、そんなもの読んでるのか?」とルチナの愛読書を馬鹿にしたり、「二十歳にもなってぬいぐるみとか、恥ずかしくないのか?」と大切にしているぬいぐるみを捨てるよう言ってきたりした。
悲しかったが、きっとヘンリックの言うことが正しい。自分は箱入りの自覚があったから世間を知らないだけで、ヘンリックが甘ったれな自分を正そうとしてくれているのだろうと思い込んでいた。
だから、両親や伯父、従兄弟たちが「本当にあいつでいいのか」と疑ってきたときも、必死にヘンリックをかばった。
結婚すれば、ルチナが努力すれば、きっとヘンリックはずっと優しい旦那様になってくれる。
……今では馬鹿馬鹿しいと分かるが、当時の自分は麻痺していたのだろう。
そうして、待ちに待った結婚式。
ヘンリックは朝から不機嫌で、叱られたりしないかとルチナは式の間もヒヤヒヤしっぱなしだった。誓いのキスも、フリだけで済まされた。彼に、「本当のキスは初夜にしたい」と言われて、何も疑わずに受け入れたのだ。
……大切なファーストキスをあんな男に奪われなくて本当によかったので、これだけはヘンリックに感謝していた。
だがいざ初夜になったというのに、お客様が来る。やってきたのは胸も尻も大きな美女で、「あたしがヘンリックと結婚するはずだったのに!」「出て行けよ、このダサいブス!」と罵ってきた。
そこにヘンリックがやってきたのだが……なんと彼は、美女の肩を持った。
……ぷつん、と何かが切れ、そして目の前が一気に明るくなったかのように思われた。
美女の言うとおり出て行く前に、ルチナは夫をぼこぼこに殴り倒した。そしてその足で実家に戻ってヘンリックとの離婚を宣言した。
両親も伯父一家も驚いたが、ルチナが目を覚ましたことを喜んでくれた。そして皆の力を借りながらルチナは離婚の準備を進め、元夫と美女から慰謝料として大金を巻き上げて離婚した。
……そうしてルチナについた渾名が、「金喰い令嬢」。
愛した夫から搾り取るだけ搾り取って離縁したろくでもないあばずれ、の意味だ。
もちろん、覚醒したルチナはそんな失礼なことを言う連中もまとめて叩き潰したし、彼女を再雇用してくれたアニエラ王女たちも援護射撃を放ってくれた。今では王女の筆頭侍女にまでなったルチナに面と向かって言ってくる者はいないがそれでも、「金喰い令嬢」の名はたまに風に乗って聞こえていた。
……ということでルチナは恋なんてものは諦めて仕事をして、そしてヘンリックには馬鹿にされたファンタジー小説を読みながら生きていこう……と考えていた。
のだが。
「おはよう、ルチナ。朝からキビキビと動くあなたは、とても素敵だな」
「……おはようございます」
ひとまず挨拶は返したが、思わず顔が引きつってしまった。
ここは、王城の廊下。出勤して王女の荷物を抱えて廊下を歩いていたルチナは、美貌の将軍閣下と鉢合わせをしてしまった。
白に近い金色のさらさらの髪に、目つきはそこまでよくないが穏やかな緑色の目。引き締まった体が纏うのは、将軍階級の者のみが着用を許された豪奢なジャケット。
彼は、ヴァレリアン・クロム。三十歳の若き将軍で、ちまたでは「氷華の将軍」とも呼ばれている……が、彼本人はあまりその名が好きではないそうだと王女から聞いていたので、ルチナは渾名を口にしないようにしていた。
そんな彼は、ルチナにとって貴重な読書仲間だ。二人の愛読書は、「閃火の剣」シリーズ。
彼が初版限定付録のしおりを持っていることから同志であると確信して、勇気を出して声を掛けた。ルチナとしては、たまに手紙などで萌え語りをするくらいの関係であれたら……という程度だった。直接会っていると、「金喰い令嬢」という不名誉な渾名しかない自分のせいでヴァレリアンを困らせると思っていたからだ。
だが彼はルチナを食事に誘ってくれただけでなく、顔を見たい、声を聞きたい、とまで言ってくれた。そうして有言実行するたちなのか、こうして顔を合わせるたびにさらっと褒め言葉を告げてくるようになったのだった。
王子様のように優しく微笑まれて「とても素敵だ」と言われると、やはり嬉しい。ルチナはもう二十六歳だがそれでも根っこは夢見がちなので、小説に出てくるような展開へのときめきは未だに持っていた。
(でも……は、恥ずかしい……!)
ヴァレリアンは吹っ切れているのか何なのか、周りの目も特に気にせずにああいうことを言ってくる。当然、通りがかった者たちはぎょっとして、「『氷華の将軍』が『金喰い令嬢』を口説いている」と一瞬で噂になった。
悪評まみれの自分と違って麗しの将軍閣下はファンも多いようで、情報の伝達速度は半端ではなかった。
これでは皆にからかわれるし、ヴァレリアンに懸想するたくさんの令嬢たちからの恨みを買ってしまう……と戦々恐々としていたルチナだが、現在のところそういう気配は一切なかった。
「見えていたわよ、ルチナ。廊下の真ん中で将軍から愛を囁かれたのね」
へろへろになりながら王女の部屋に向かったルチナは、主人からそんなことを言われてぎょっとしてしまった。
王女アニエラはルチナが持ってきた荷物をテーブルに置かせると、「まあ、座りなさい」と空いているソファを手で示した。
「ヴァレリアン・クロム将軍が、アニエラ王女付の筆頭侍女に求愛している……。これ、あちこちで有名になっているしわたくしも部屋から見ていたけれど、実際のところはどうなの?」
「どう、と言われましても……」
「わたくしはあなたの雇い主だからね。こういうことを知る権利はあるのよ」
アニエラはしれっとして言う。確かにその通りだが、面白いもの好きの彼女のことだから好奇心が七十パーセントくらいだろうと簡単に想像できる。
目をキラキラさせて王女はルチナを見つめてくる……が、それは彼女だけではない。
周りに控える侍女やメイド、女性騎士たちもまた、好奇心に満ちた顔でルチナの反応を伺っているようだ。
「……そ、その。将軍閣下とは趣味が一致したことで意気投合しまして……」
「趣味? ああ、そういえばあなたは読書好きらしいし、将軍もそのあたりの趣味を持っていたのね」
「……そんなところです」
「そう。いいじゃない、侍女と将軍の交際」
その言葉に思わず顔を上げると、アニエラは満足そうに微笑んで紅茶を一口飲んだ。
「あなたは伯爵家の血を継いでいるのだから、実質市民階級とはいえ十分将軍と釣り合うわよ。将軍も、寡黙でちょっと何を考えているのか分からないところがあるみたいだけれど、紳士的でとても頼りになる男性だと聞いているし」
「……」
「それとも……恋をするのは、怖い?」
そう尋ねる王女の声は、限りなく優しい。
彼女はルチナの結婚と離婚のことをもちろんよく知っているし、ルチナが「金喰い令嬢」の渾名で辛い思いをしたときには、「相手をぶっ潰しに行くわ」と宣言したりもする。
ルチナはしばし考えた後、ゆっくり首を横に振った。
「怖い……とは、少し違います。将軍閣下のことは、趣味の合うとてもいい同志だと思っています。……だからこそ、今のままの方がよいのでは、と考えるのです」
「異性として意識したら、趣味仲間には戻れないということ?」
「そうかもしれない、と。趣味の話ができなくなったら……元も子もないので」
ルチナが言うと、王女はふむ、と首をかしげた。
「まあ、気持ちも分かるわね。……でも様子を見る限り、将軍はあなたに対して本気だと思うけれど」
「そ、そうですか?」
「ええ。あのヴァレリアン・クロム将軍が、あんなに優しい顔であなたを見つめているのだから……彼は本気であなたを手に入れたいと思っているし、彼ならきっとあなたの後ろ向きなところもまるっと受け入れてくれると思うわ」
そういう王女はルチナよりずっと年下のはずなのに、今はずっと頼りになる大人びた雰囲気を持っているように見えた。