『氷華の将軍』の願い
ルチナ曰く。
伯爵の姪として生まれた彼女は正確には貴族ではないが、伯父夫妻のもとに女児がいなかったこともあり、伯父や従兄弟たちからとても可愛がってもらったという。
そんな彼女なので、伯爵令嬢ではなくても伯爵家と縁を持ちたいと願う者はそこそこ多かったらしく、王宮侍女だったルチナは十九歳で婚約して一旦職を退き、二十一歳で結婚した。
だが……彼女の夫は、伯爵家と縁者になるためだけにルチナに近づいた最低男だった。
結婚前から、何かとルチナの趣味や持ち物にグチグチ文句を言ってくる。それでも優しいときは優しいのでルチナもほだされ、伯父たちにもお願いして結婚することになったのだが……。
「結婚初夜に、色気のある美女が屋敷に乗り込んできました。元夫と将来を誓い合った恋人だったそうです」
「う、わ……なんだそれ!?」
「私も思いました。おまけに、玄関で私と恋人が鉢合わせをしたというのに、元夫は恋人の肩を持ったもので……。百年の恋も冷める、というのはこのことでしたね」
目が覚めたルチナは元夫をしばき上げ、徹底抗戦の意思を見せた。元夫はルチナがもっとおとなしくて従順な娘だと思っていたようで豹変に驚き、今になって泣きついてきた。
だがルチナはまず伯父たちに報告し、離婚の手続きを進めた。そして元夫からも恋人からもたんまりと慰謝料をふんだくって、一ヶ月後には晴れて離縁してフィッツァー姓に戻ることができた。
その後も何度か夫や恋人が接近してきたので、その都度叩き潰してついでに迷惑料として金を巻き上げた。二人は「金の亡者!」と罵ってきたが、きちんと司法を通して合法的に徴収した金なので、文句を言われる筋合いはない。
そういうことで二十一歳で結婚して二十一歳で離婚したルチナは王宮侍女の仕事に戻り、自分のやりたいことをやれる生活を満喫しているという。
「あのまま我慢して結婚生活を続けていれば、いずれ私は精神的にやられていたでしょう。だから、結婚して半日で見切りを付けてしまってよかったと思っています。……こうやって『閃火の剣』シリーズを心置きなく読んで、ヴァル様と談義ができているのですからね」
そう言ってルチナは、ブックカバーの掛かった本を大切そうに胸に抱えて微笑んだ。その笑みに、無理矢理とってつけたような雰囲気はない。
彼女は本心から、夫を離縁してよかったと思っているし……こうして好きな本を読み、それについてヴァレリアンと時間を共有できることを嬉しく思っているのだ。
……どくん、とヴァレリアンの心臓が高鳴った。
(っ……な、なんだ……!?)
発作とは違うが急に心臓が激しく活動し始めたため、ヴァレリアンは戸惑った。ハードな訓練をしたときでさえ、こんな奇妙な感覚にはならなかったというのに。
戸惑いながらも会計を終えて、二人は店を出た。ヴァレリアンは自分が払うと申し出たのだが、「それは同志としてフェアではないですよね?」と笑顔で言われたので、引き下がった。
店の外は既に暗くなっているが、あちこちに夜間営業している店があるので大通り自体は明るい。天気もよいので、歩いて帰っても問題なさそうだ。
「……ヴァル様。私今日、本当に嬉しかったです」
少し歩いたところでルチナが振り返り、笑顔でそう言った。
「私……結婚前は元夫にあれこれ言われていたので外出もろくにできなかったし、離婚して再就職した後も同性はともかく、男性から食事に誘ってもらえることはなかったのです」
「それは、世の男性は見る目がないのかとてもシャイなのかだな」
「いいえ。……ヴァル様はご存じではないでしょうが、元夫と恋人からふんだくれるだけの金をふんだくった私は、こう呼ばれているのです」
――「金喰い令嬢」、と。
「慰謝料はもちろんですが、その後も接近してきた二人から迷惑料を搾り取ったのがまずかったようですね。あの女に近づいたら金を吸い取られる、って陰口をたたかれたこともあります」
「……なんだその失礼な輩は! あなたは正当な方法で迷惑料を受け取っただけだろう!」
「本当に失礼ですよね。私のことなんてなーんにも知らないのに、又聞き情報だけでそんなことを言い散らかして。……でも王女殿下たちは私のことを正しく見て評価してくださるので、別にいいのです」
といっても、とルチナは少し悲しそうに眉を垂らした。
「……今日は本当に楽しかったですけれど、もし『金喰い令嬢』のせいであなたが困ったら嫌なので……会うのは、これっきりにしましょう」
「……」
(……何を、言っている?)
ヴァレリアンがすっと目を細めると、ルチナはこちらに背を向けて歩き出した。
「世の中には暇人が多いから、私たちが密会していると知ったらありもしない噂を立てる者もいるでしょう。だから……そうですね。これからはせめて、手紙くらいにしませんか? 手紙ならよほどのことがない限りばれることがありませんし、お互い時間のあるときにゆっくり読み書きできますからね」
「嫌だ」
「…………そ、そうですよね、すみません。差し出がましいことを申しまして……」
「手紙だけなんて、嫌だ。俺はこれからも、ルチナと会いたい」
はっきりと言うと、数歩先でルチナが足を止めてさっと振り返った。基本的に伏し目がちだった目が丸く見開かれており、その青い湖面に街の明かりが映り込んでいてとてもきれいだ。
「俺はこれからも、ルチナと一緒に話をしたい。……本だけのことではない。あなたがこれまでどういうふうに生きてきたのかとか、他に何が好きなのかとか……もっと話をしたい」
「……。……よからぬ噂が立つかもしれませんよ?」
「できるものならやってみろ、だ。いざとなれば権力で押しつぶす」
「職権乱用ですよ……」
「使うべき時に使わずして何が権力だ。それに、下世話な噂をする者を正当に罰するだけだろう」
だんだん自分でも何を言っているのか分からなくなってきたが、とにかくヴァレリアンは必死だった。
(「金喰い令嬢」? 結婚経験がある? 知るかそんなの!)
ヴァレリアンにとってのルチナは、それくらいで好感度が下がるような人ではない。
ずいっと距離を詰めたヴァレリアンは、驚き戸惑うルチナの右手を優しく掴んで自分の方に引き寄せた。
「ルチナ、これからも俺はあなたと会いたい。あなたは、そう思ってはくれないか?」
「……」
「……。……分かった。では、あなたがこれからも喜んで俺と会ってくれるよう、俺はその誠意を示そう」
「誠意……?」
「ああ」
戸惑いの表情を浮かべるルチナに微笑みかけ、ヴァレリアンはそっと手を離した。
……やっと、分かった。
自分は、ルチナに少しずつ好意を抱いているのだと。
堂々と「好き」と言える段階までにはなっていないが、いつか彼女にそう伝えたい、と思うようになっていると。
「手紙では、あなたの顔が見えない。……『閃火の剣』の師匠について熱く語るあなたの顔と声が、俺はほしいんだ」
「えっ……!?」
「……こういうことは慣れないが、努力する。あなたに喜んでうなずいてもらえるように、頑張る」
そう言い、ヴァレリアンはちょうど側を通った馬車を捕まえた。
「こちらの女性を、自宅まで送り届けてやってくれ」
「かしこまりました」
「え、あの、ヴァル様……」
「また明日、ルチナ。……またあなたの可愛らしい声を、聞かせてくれ」
御者に金を持たせてヴァレリアンは言い、ルチナに背を向けた。
彼は普段、王城の隅にある宿舎棟で寝泊まりしているのだが――今はもう少し、歩きたい気分だった。
しばらく歩いたところで振り返ると、馬車はもうそこにはいなかった。どうやらルチナは観念して馬車に乗って、帰宅してくれたようだ。
「……はぁ」
足を止めて、大きなため息を吐き出す。
三十年生きてきて、こんな気持ちになったのは初めてだった。
「……ルチナ」
名前を唇に載せると、なんだかとても恥ずかしいことをしているような気持ちになってきてうつむいてしまう。
今が夜でよかった。昼間だったら、真っ赤になった顔を通行人に見られていただろう。
ルチナ・フィッツァー。
愛読書繋がりで巡り会えた彼女は――間違いなく、ヴァレリアンにとっての遅すぎる初恋の相手だった。