9.呼び名
話がひと段落すると公爵は後ろに立っていた白髪の男を軽く振り返る。
「シューバット、紹介しておこう。彼は私の右腕で執事長でもあるセバスだ。これからは彼の指示に従うように」
呼び方で立場がお客様扱いではなくなったことを理解した。
これからシューバットは、隣に座っている公爵令嬢を守るために身体を張るのが仕事になる。
護衛術を誰かに教わったことはないし、これから剣の使い方も学ばなければならなくなるだろう。
領地運営とどちらがより難しいか分からないが、身体を動かす方がシューバットには合っている気がした。
シューバットはこの屋敷の中で一番の下っ端という立場になる。
人の二倍は働き、雇ってもらう恩を返していかなければ。
護衛は相応しくないという思いから切り替えたシューバットは気合を入れ直した。
「よろしくお願いいたします、シューバット。私はセバスと申します」
「よろしくお願いします!」
「まずは呼び方を変えて頂きましょう。ブルーム様はこの屋敷に旦那様、奥様、お嬢様と三人いらっしゃいますからね」
「あ、はい…」
公爵の斜め後ろでにこやかに笑いながらこちらを見下ろすセバスは、白髪で藍色の目。
彼も公爵同様に侮ってはいけない相手であるのは、全身を纏っている水のように滑らかで静かな空気で分かる。
この部屋に入室して来た時から立ち姿に一切の隙がなく、作りもののような形だけの笑みからは心の底を読み取らせない。
さすが公爵家というべきか、公爵家なら当然というべきか。くえない人ばかりが集まっている。
こう見るとポナー家は兄を除いて、随分とのんびり屋の集まりだと思う。
「フィンリー様は旦那様と呼ぶのが今は適切でしょう」
「私は別の呼び方でも良いけどね」
「それはまだ早いでしょう」
「セバスは固いなあ…」
軽口を叩く二人の様子を静かに見つめていると隣の気配がまたしても大きく揺れた。
心配にはなるが正面の猛獣達から目を離したくない気持ちもある。
どうしようかと迷っているとセバスが己の主人の話を勝手に切った。主従関係ではあるが、時には失礼な態度も許されるらしい。
「話を続けます。アイラお嬢様はどうしますか?ご希望があれば伺いますよ」
「っ、な、名前で呼ぶことを許すわ!」
「では、そのように」
希望を聞かれたのはシューバットではなく、気配が揺れまくっている彼女の方だった。
シューバットが戸惑っていると、セバスがより一層笑みを深める。
それが「さあ、呼んでみなさい」と言われているようでピクッと頬が引き攣った。
しかし、ここで黙り込んでいるわけにもいかない。
気持ちを固め、ゆっくりと隣を見るために首を動かすと彼女もまた、こちらを見上げた。
うるむルビーの目、きゅっと結ばれた可愛らしく艶のある唇、ほんのりと色のついた頬。
美しく儚げな表情に一瞬、息が止まるかと思った。
興味のない男にもこんな顔を見せるのは良くないと後で進言するべきかと少し迷ったが、シューバットが指摘出来る枠を超えていることに気付いて何も見なかったことにする。
目の前の男二人から感じる視線に浅く息を吸い込んでゆっくりと唇を開く。
「ア、アイラ、お嬢様。これからどうぞよろしくお願いします」
「~~~っ!」
「アイラお嬢様?顔が……」
じわじわと顔が真っ赤に染まっていくその姿に思わず手が伸びそうになったが、すぐに止める。
護衛の分際で勝手に触れるのは駄目だろう。護衛でなくても、許されるわけではないのだが。
「大丈夫ですか?熱があるのではないですか?無理していませんか!?」
立て続けに質問してアイラに詰め寄る。
ポナー領から公爵家までの長い距離を馬車で移動し、整備されていない道も通ったから馬車は大きく揺れていた。ポナー家に行くのが急だったから準備も万全ではなかっただろう。
彼女の身体には相当な負荷が掛かって当然だ。
この話し合いの場に彼女は参加せず、身体を休める方を優先させて良かったのに。
アイラには出来るだけ早めにゆっくりと休んでもらう方がいい。
「だ、大丈夫よ!別に、熱なんて、」
「ですが、顔だけではなく、耳も首も…」
「ききき、気のせいよっ」
いや、全く気のせいではない。
ドレスに覆われていない肌はどこも薔薇色で、色が濃くなっているように見える。
心配がますます募って、堪らずに腰を上げた。
シークがそれを見計らっていたようにシューバットの椅子を後ろに引いたため、スムーズに立ち上がれる。
あまりにも自然に手助けされて、調子が狂うが優先するべきなのはアイラだ。
「申し訳ありません、旦那様。お嬢様を休ませたいのですが」
「ああ、いいよ」
立ち上がったシューバットと顔を俯かせて表情を隠しているアイラを交互に見て、耐え切れないようにクスクスと笑う公爵の声が部屋に広がった。
娘が大変な時に何をそんなに笑っていられるんだと思わず睨み付けそうになったが、セバスが笑いの止まらない公爵を放ってシューバットに指示を飛ばす。
「シューバット、お嬢様のエスコートをしなさい」
「わ、私が?」
「エスコートは護衛の仕事でもあります」
そうなのか。
声には出なかったが、はっきりと顔には出てしまった。
それがまた公爵を刺激してしまったようで、お腹を抱えて涙を浮かべながらおかしそうに一人で笑っている。
一体何がそんなに楽しいのか、さっぱり分からない。
先ほどまでとは違う公爵の雰囲気にシューバットは戸惑ったが、アイラをこの場から早く連れ出す方が良い気がして彼女の右側に移動する。
しかし、シューバットは彼女のエスコートが出来ない理由を見つけてしまった。
決して嫌だとか、そういうわけではない。これは根本的な大問題だ。
「あ、あの、セバス様。私はアイラお嬢様の部屋を知りません。エスコートは私ではなくシーク様の方が…」
「私とシークに様付けは不要です。そして、貴方が気にしていることも問題ありません。アイラお嬢様に案内してもらいなさい」
「え?」
「お嬢様、出来ますね?」
こんなにも辛そうな彼女にそんなことをさせるのか。
この家には熱のある人間を笑ったり、無理をさせたりする人しかいないのかと彼女が身を置いている環境にぐっと拳を握り締めた。
アイラだって不安の多いシューバットよりも、この屋敷に慣れたシークにエスコートしてもらった方が安心するだろう。
ちらりと助けを求めるようにシークを見たが、彼はシューバット達から三歩離れた距離から近付いて来なかった。
「…もちろんよ」
「お嬢様!」
アイラまで強がるようなことを言い出すから堪らず、声を上げた。
しかし、取り乱しているのはシューバットだけで公爵も執事達もアイラの体調を気遣う様子はない。
「シューバット。そこまでお嬢様を大切に思っているのなら抱き上げて運んで差しあげなさい」
「それは結構よっ!」
パッと顔を上げたアイラは高熱を出しているのがはっきりと分かるほど、紅潮している。
これほどまで危険な状態なら医者を呼ぶように進言するべきかもしれないが、この人達がそれを許してくれるだろうか。彼女が無理をして拒まないだろうか。
とにかく一刻も早くベッドの上で休ませる方が良いと思い、そっと左の手のひらを彼女に差し出す。
エスコートは母と義姉相手にしたことはあるが、ここまで緊張したのは初めてだ。
アイラが王城やポナー家の前で馬車を乗り降りする際に、一緒に付いて来ていたシエナに何故かエスコート役を譲られそうになったけど、視線を逸らすことで逃れた。女性二人に随分と不満そうな顔で見られたのを覚えている。
彼女に触れるのはこれで二度目になる。
一度目は王城でアイラが倒れそうになった時に支えた。
あれは事故だったので数に入れなくてもいいかもしれないが、シューバットにとって簡単に忘れられるような出来事ではない。
ゴツゴツとした綺麗でも何でもないシューバットの左手に、震えている小さなアイラの右手がそっと乗せられる。
細くて、軽く力を入れると折れてしまいそうな指先からは尋常ではないほどの熱が伝わって来た。
公爵令嬢である彼女は男性からのエスコートなど慣れているはずなのに、自分と同じように緊張しているらしい。そう思うと何だか安心した。
しかし、すぐに思い違いに気が付いた。
彼女が震えているのは具合が悪いからであって、シューバットと同じ理由なわけがない。
命令一つでシューバットの存在など闇に葬ってしまえる彼女が、格下の自分相手に緊張するはずがないだろう。
こんなにも悪化しているのなら、セバスの助言通りにアイラを抱き上げて部屋まで連れて行くべきか、そんな風に考え込んでいるとシークが彼女の座っている椅子を引き、立ち上がるのを手伝う。
エスコートばかりに気を取られていたが、椅子から立ってもらうのが先だったと反省する。今度、シークにお願いしてスムーズな椅子の引き方を教えてもらおうと心に決めた。
「い、行くわよ、シューバット」
「はい、アイラお嬢様」
彼女の歩く速度に合わせながら、公爵と執事達を残してゆっくりと二人は退出する。
その後ろ姿を誰もが面白そうに見つめ、これからの公爵家の繁栄を確信した。