8.公爵と対面
シューバットが一人になりたいと思っていたことを察したようにシークが「ご用がある時はベルを鳴らしてください」と言って部屋を出て行ったのが、一時間前。
少し空気が薄い気がする客室で待機しているとコンコン、とノック音がして返事をすると部屋の中に入って来たのは、アイラと侍女のシエナだった。
「ブルーム様…?」
「話があるのだけど、座っても良いかしら?」
「ど、どうぞ」
さっと立ち上がって彼女が座る場所を探すと空いているのは一人掛けの椅子、それとシューバットの荷物が置いてあるソファもあと一人は座れそうだ。
しかし、部屋を見回したアイラが最後に目を止めたのは、シューバットの隣。
「ええと、ブルーム様?ここに座りますか?」
「い、い、良いの…?」
「はい、構いません」
シエナは扉の近くで止まり、アイラが一人で慎重に近付いて来る様子を見つめながらシューバットはサッと立ち上がって彼女が座る場所を空ける。
席を譲ったシューバットはローテーブルを周り、向かい側の荷物が置かれているソファに浅く腰を落とした。
「……」
「?」
シューバットが移動している間にアイラが先にソファに座っていると思っていたがシューバットが座っていたソファの横で立ち止まり、ぷくりと頬を膨らませて自分を睨み下ろす。
疑問が声になる前に彼女がプイッと美しい顔を逸らして、少し乱暴にソファに座る。
その表情は全く怖くはないのだが、公爵令嬢を怒らせるのは怖い。
彼女は前にもこんな風に怒っていた気がした。
あの時は理由を聞けなかったけど、今日こそ聞けるだろうか。いや、聞くべきだろう。
公爵に会うまではここに少しの間滞在することになる。その間に彼女の気分が害すようなことはしたくない。
「あ、あのブルーム様?」
「…何よ」
「私が何かおかしなことをしたのなら、教えて欲しいです。ブルーム様に失礼に当たることはしないように気を付けますので」
シューバットが緊張を含んだ声で呼びかけるとアイラはちらりとシューバットにルビーの目を向けた。
相手が学園で仲良くなったキャルムや元婚約者のように同じ爵位だったら許されるようなことでも、目の前にいるのは公爵令嬢。貴族の中でも最上位にいる人だ。
シューバットは高位貴族に関わってこなかったため、何が許されて、何が許されないのか判断が付かない。
その境界線を間違えて、叱られるのがシューバットだけならまだ良い。
しかし、領地運営を頑張っている兄をはじめとした家族や領民にまで影響を与えるようなことになったら、シューバットは悔やんでも悔やみきれない。
「…問題ないわ。シューバットが本当に失礼なことをしたら遠慮なく言うわよ。そうではない場合は気にする必要はないから好きにしていいわ」
「ですが、今…私に怒っていました、よね?」
隣に座れると思って期待した、そんな思いを心の内に隠していたアイラにシューバットは気付かずに戸惑いながら言葉を選んで問いかけた。
「ち、違う!い、今のは……、ただ、その、」
「?」
「なんでもないわ!忘れてちょうだい!」
叫ぶように声を張り上げた彼女は、膝の上に置いていた両手でぎゅっとドレスを握り締める。
何かを耐えるような彼女の仕草にシューバットは柔らかいソファから腰を上げようとしたが、その前に顔を上げたアイラに動きを止めた。
「貴方に知らせがあって来たのよ」
「はい…」
「夕食前にお父様にシューバットを紹介するわ」
「え?」
こんなに早く面通りが叶うとは思っていなかったから、突然の知らせに身体がカチンと固まった。
思い出すのは、恐ろしく出来上がってしまった人物像。
アイラを説得するために味方につけるどころか、娘を誑かしやがってと怒られたらどうしよう。
思い詰めた顔でぐるぐるとマイナスなことばかり考えていると彼女が小さく笑った。
「私も一緒にいるから心配しないで」
そういう問題ではない、と思いながら彼女の笑みに解されてゆっくりと固まった身体を溶かしていく。
直接対面する前に彼女の父親について少しでも聞いて、脳裏に浮かんでいる公爵像を払拭させておいた方が良い。
心の準備ってやつが絶対的に必要だ。
自分の中で納得して口を開こうとしたが、彼女にとってはこの知らせは重要なことではないようで、あっさりと話題を次へと変えられてシューバットの返事が一瞬遅れる。
「この部屋は気に入ってくれたかしら?」
「…あ、そうでした!」
「何かあったの?」
別の部屋に変えてもらうように頼もうと思っていたんだった。
公爵令嬢の彼女はこの部屋にしっかりと馴染んでいる。
この金に囲まれた豪華な部屋がアイラのものだと言われても何の違和感もない。
彼女とシューバットは確かに同じ貴族ではあるが、住んでいる世界が全然違うのだ。
「別の部屋を用意してもらえませんか?」
「気に入らないものがあるの?」
「私には身分不相応です。ブルーム様は私が田舎の貧乏貴族だとご存じでしょう?」
「…貴方はお客様なのよ」
不満げな彼女に苦笑いが零れた。
丁寧に客人として扱ってくれるのは心から感謝している。
しかし、シューバットにとっては手に余るこの部屋は息の苦しい場所としか思えない。
「分かりました。今日は、この部屋を使わせてもらいます」
「…今日は?」
「公爵様にご挨拶が終われば、領地の方に明日戻ります」
「ど、どういうこと?」
「私にはブルーム様の護衛は務まりませんから」
納得していません、という顔をアイラはしているがシューバットも同じ気持ちだ。
もっと腕の立つ人を雇った方がアイラの安全は保障されるだろう。
力不足のシューバットを護衛にして自分を危険に晒すような真似はやめて欲しい。
じっと平凡な茶の目で彼女に訴えるが、ルビーの双眸に見つめ返されてうっと息を呑む。
胸の辺りがざわざわするから見つめるのはやめてくれと願いながらも、吸い込まれそうなほど綺麗な輝きからなかなか目が離せなかった。
「…夕食前にまた来るわ」
「ブルーム、さま…?」
先に目を逸らし、スッと立ち上がったアイラの目には激しい感情の色が見て取れる。
また、彼女を怒らせてしまったのか。
びくびくしながらアイラの様子を窺っていると腰に手を当ててシューバットをじろりと睨み下ろし、広い部屋中に響くほどの声量を上げた。
「せいぜいこの部屋に慣れておくことね!ここは一生、貴方の部屋になるのよっ!」
ポカンとしているシューバットを残した彼女は、豪華な客室から出て行った。
・◇・◇・◇・
シークが客室の扉をノックしたのは、窓の外が暗くなってきた時間帯。
どうやら公爵と会う時間が来てしまったらしい。
アイラが部屋を出て行ってから鞄に入っていた教科書を取り出して礼儀作法を見直し、公爵に訴える内容を必死に考えて準備したが万全とは言い難い。
この部屋にいる間、随分と長い時間に感じられた。
何度、時計を見たか分からない。
時間が進むにつれて胃がキリキリと痛んで、無意識のうちに擦っていた。
「シューバット様」
「はい?」
「よろしければ私の方で荷解きをいたしますが、中身を見ても構いませんか?」
彼が部屋に入って来て一番気になったのは、膨らんだままの荷物らしい。
ここを自分の部屋と認めるつもりのないシューバットは首を横に振る。
触れられて困るものはないが、また片付ける羽目になるのは避けたかった。
「…分かりました。では、参りましょう」
今回も道案内をしてくれるシークについて行く。屋敷の中は迷いそうなほどに広く、彼がいなければ客室にも戻れないかもしれない。
心臓がバクバクして、足の進みが遅くなる。
シークと距離が離れて行くのを感じながらも見失わないように彼の後ろ姿からは目を離さない。
誰か、腕を引っ張ってくれないだろうか。背中を押してくれないだろうか。
卒業式で注目の的になり、王城で国一番の偉い人と言葉を交わし、貴族社会の上位に君臨する相手をこれから味方に付けようとしている。
それがたった数日の出来事の話だ。経験値をめちゃくちゃに上げている。
こんなに心に悪い時間はもう、こりごりだ。二度と味わいたくはない。
「シューバット様、こちらです」
「はい…」
シークが扉を開けてくれて、シューバットが中に入ると先客がいた。
「ブルーム様…先ほどは……」
「お父様はすぐに来るわ。座ってちょうだい」
「…っ」
謝ろうと思ったのにそれを言わせないアイラにシューバットは口籠る。
四人用のテーブルの周りに置いてある四つの椅子の一つに彼女が座り、その左隣の椅子をシークが引く。
少し迷ったが、素直に従ってシューバットは彼女の隣に移動した。
椅子の移動を補助してくれたシークのおかげで膝裏に椅子の角が当たり、落ちるように座る。考えていたよりも深く腰を掛けてしまった。
シークが二人の後ろに移動すると、アイラが言った通りにすぐに公爵は姿を見せた。
公爵と一緒に現れた白髪の男が当然のようにシューバットの正面にある椅子を引き、公爵が座る。
自然なその流れは自分とはまるで違う。
初めて会った公爵はオニキスのような黒髪に、彼女と同じ赤色の目を持っている。
朗らかに口角を上げている公爵は一見とても優しそうに見えるが、それだけではないことに野生動物を知っているシューバットは気付いてしまった。
「はじめまして、シューバット・ポナー殿。私はアイラの父、フィンリー・ブルームだ」
「お初にお目にかかります。この度はお時間を頂き…」
「ああ、いいよ」
挨拶を容赦なくばっさりと切られて、シューバットの背中からは冷たい汗がだらだらと溢れ出す。
公爵は、瞳の奥に絶対に獲物を逃さない鋭利な牙を隠している。
この部屋に公爵が踏み入れた瞬間から、シューバットを見定めているのが分かった。
周囲に素早く目を走らせ、逃げられないことを悟ったシューバットは、誰にも気付かれないようにゆっくりと身体から無駄な力を抜く。
野生動物を目の前にして力が入り過ぎると動きが鈍くなる。
程よく力を残し、いつでも動けるようにわずかに踵を浮かせた。
「大丈夫。そんなに身構えないで」
「……」
「僕は君に感謝しているのだよ。王城で殿下からアイラを守ってくれたそうだね。ありがとう」
「いえ…」
「これから先もアイラのことをよろしく頼むよ」
公爵が楽しそうに笑い、ちらりと右隣に座っている彼女に視線を投げかけている間にシューバットは態勢を戻す。
隣のアイラの気配が揺れたのを感じたが、シューバットにはもっと引っかかることがある。
護衛の話は断るつもりだ。
しかし、公爵がすでにそれを認めているような口振りにとても焦った。何のために胃を痛めてまでここに来たのか分からなくなる。
「お、お待ちください!」
「なんだい?」
「私にブルーム様の護衛は務まりませんっ!護衛の経験もなく、剣には触れたことすらありません!頭も悪く、礼儀作法も半端でブルーム様にご迷惑がかかります。それに私は田舎の貧乏貴族ですから!」
これでどうだ。
娘が連れて来たのが役立たずの平凡な、いや平凡以下な出来損ないだと理解してもらえれば考え直してくれるかもしれない。
「どういうことかな、アイラ」
「…私はシューバットを手放すつもりはないわ」
「納得させずに連れて来たということか」
そうなんです、と思わず声になりそうだったがグッと堪えた。
目を伏せた公爵に均衡が崩れそうな予感がして、張っていた気持ちが緩む。
これで彼女の護衛騎士は免れるだろう。
まずは領地に帰って一度落ち着いてから、これからのことを考え直す。
兄は怒るかもしれないが、彼女の安全には変えられない。
「まあ、いいか」
「え!?」
「心配する必要はない。アイラの護衛は君だけじゃないし、護衛として役に立たないのなら他の仕事をしてもらうよ」
シューバットが納得する理由を公爵は簡単に並べていく。
逃げ道を残しつつも、公爵家と関りを持たないようにはしてくれないらしい。
身の振り方に迷っているシューバットにとって、雇ってくれるというのはありがたい話ではある。
護衛が務まらないのなら他の、シューバットに出来ることを与えてくれるというのも魅力的だ。
しかし、それまでは彼女の護衛騎士ということになるわけで。
シューバット以外にも護衛がいるなら最初から役立たずの護衛なんて雇わなくていいのに、と思うのだがそれでは駄目なのだろう。
似た者同士の親子が首を縦に振ってくれる想像が出来ない。
「……分かりました。よろしくお願いします」
こうしてシューバットは正式に、アイラの護衛として雇われることになった。