7.豪華な客室
シューバットは荷解きを済ませていなかったパンパンに膨れる大きめの鞄を兄に渡されて、慌ただしく領地を離れた。
自分達よりも格上の家に向かうシューバットを満面の笑みで送り出そうとしている家族に「俺の行い一つで男爵家の未来が暗くなるんだよ!?」と声を大にして言いたくなった。
しかし、近くに公爵令嬢のアイラがいたために言えずに終わってしまう。
持たされた鞄の中に入っているのは、学園の男子寮で使っていたもの。
半分は衣類だが教科書なども入ったままのため、少し重い。学園では散々お世話になったが今は余計なお荷物になっている。
こんなものまで持って遂に、公爵家まで来てしまった。
出来るだけ早く彼女の父親、つまり公爵にお目通しを願って自分の平凡さを熱弁しなければならない。
そんな悲しい役目をどうして自分自身で背負わなければならないのか、とても疑問である。
シューバットは、役に立つかも分からない田舎の貧乏貴族の次男を護衛騎士に絶対にさせようとしているアイラを最後まで説得出来なかった。
彼女に諦めてもらうには、公爵を味方につけるしかないだろう。
ブルーム公爵はどんな人なのだろうか。
会ったことも、見たこともないが公爵像は時間が経つにつれて自分でマイナスの方に傾けてしまい、だんだんと酷いものになっている。
娘が連れて来た怪しい男の首を容赦なく斬るとか、食事を抜いて休む暇もなく労働を延々と与えるとか、覚えのない借金を背負わされるとか。
色々と考えてしまって、ぞわぞわと身体に震えが走った。
ブルーム家は、この国にある五つの公爵家の中でも強い権力を持つ高位貴族。
王族を婿入りさせようとしていた家がそこそこなわけがないし、アイラの口振りでは王妃とも昔から顔見知りで懇意にしているように感じた。
そんな公爵家に今日は、いや、今日から泊まるように彼女に言われた。
持ち金を無駄遣いしたくないし、忙しい公爵に時間を取ってもらうためにはブルーム家に居た方が早く会ってもらえると思ったが、本当にこの判断で正しかったのだろうか。
アイラを屋敷の前で出迎えた執事、シークという男を彼女から紹介された。
三十代半ばの感じの良さそうな人で、焦げ茶色の髪に草色の目はシューバットと近い雰囲気を感じて強張っていた身体から少しだけ力が抜ける。
シークに案内されるままに三階建ての大きな屋敷の中に踏み入れると、吹き抜けの広い玄関にはふかふかな絨毯が敷かれていて、汚れた靴で踏みしめるのを戸惑うほど鮮やかな赤が目に入った。
壁には一際目立つ大きな金縁の額に入った街の風景画が飾られている。
どこの場所を描いているのかは分からないが、温かくて優しく、でも力が湧いてくるような絵に心が惹かれた。
他にも装飾品がいくつも輝いていて、少しでも触れたら傷つけてしまいそうで恐ろしくて近づけない。
シューバットの荷物はシークが持ってくれているので手ぶらだが、出来るだけ身を縮めながら全神経を尖らせて警戒した。
玄関以外にもポナー男爵家では絶対に手の届かないような高級品達が各所で待ち受けているのだろう。
今すぐに領地に帰りたくなった。
学園に通っている時にも一度も考えたことはないのに、今はあの田舎が恋しくて仕方ない。
この立派で大きな屋敷に泊まることになるぐらいなら広そうな庭を是非とも寝床にしたいと思ったが、シークが外に出て行く気配はなかった。
どうやらシューバットは護衛というより、客人扱いされているらしい。
確かに護衛として雇われているわけではないけど、歓迎されるような客でもないのだが。
「ポナー様、こちらの部屋をお使いください」
「は、はい…」
ピンと背が伸びた姿で前を歩いていたシークは速度を落として、ある部屋の前で立ち止り扉を開ける。
腰の引けているシューバットを当然のように受け入れている様にこちらが戸惑ってしまった。
シューバットは公爵家に唐突に現れた不審人物と認識されてもおかしくはないのに、どうして内側に入れられるのだろう。
田舎の貧乏貴族の次男ごときに公爵家をどうこう出来るわけがないと分かっているのか。
仮にシューバットが敵で、この場で暴れ出したとしても制圧出来るほどに公爵家には腕の立つ人達がいるのか。
底の見えないブルーム公爵家。この家の一欠片になれるわけがない。
「どうぞ、お入りください。足りないものがございましたら、いつでもお申し付けくださいませ」
「ありがとうございます…」
もしかしてここに閉じ込めて身動きを取れなくさせる可能性があったりするのだろうか。
だが、よく考えるとシューバットを監禁しても公爵家には何のメリットもない。
考え過ぎたことを恥じて、恐る恐る中の様子を窺うと慣れない香りを鼻が嗅ぎ取った。
部屋の外から覗き込んだだけで足を踏み入れるのを躊躇してしまうほどに豪華で、煌めきに圧倒されて眩暈がする。
ポナー家にある自分の部屋とは比べ物にならないほどに広く、金を基調とした大きな客室。
天井面には美しい模様が描かれていて、その中心から吊り下がっているシャンデリアは大きい。側面や脚など細部までこだわり抜かれたテーブルや椅子がいくつかある。
天蓋付きのベッドの横にある台には赤いバラが綺麗に咲き、値段が張りそうな花瓶に生けてあった。
お金を大量に注ぎ込んでいそうなキラキラとした部屋で安心して過ごせるわけがない。
シューバットが何らかの拍子に高級品に傷を付けてしまったらどうするつもりだろう。責任は取れない。
恐ろしくて足が竦み、シューバットは金のドアノブに手を伸ばして扉を閉めた。
「あ、あの…、別の部屋ってありませんか…?」
「ご満足いただけなかったでしょうか。我が屋敷の客室で一番こだわった部屋なのですが…」
青い顔のシューバットがおずおずと尋ねると眉を曲げて困惑の表情を見せたシークに慌てて、首を横に振る。
満足していないわけじゃない。そういう話ではないのだ。
シューバットに相応しいのはもっと狭くて、地味で、落ち着いた小部屋。その方が安心して使うことが出来る。
公爵家に踏み入れただけでも緊張で身体の動きが悪いのに、こんな凄過ぎる部屋では毎日が寝不足で命の心配までしなければならなくなりそうだ。
「もっと小さな部屋とか、ないでしょうか」
「小さい…」
「俺…じゃなくて、私はブルーム様に護衛として雇われる予定です。そんな奴にこんな豪華な部屋は相応しくありません…!」
本気で雇ってもらうつもりはないけど、そう伝えれば客人扱いは止めてくれるかもしれない。
それに期待して力を強く込めて言ってみる。
この部屋を使うことから回避出来るのなら多少の誤魔化しも寛大な心で許して欲しい。
しかし、事はそう簡単に望み通りにはならなかった。
「お嬢様からポナー様を丁重にもてなすように申し付けられております」
「私は犬小屋でも野宿でも構わないのですが…?」
「正式にお嬢様の護衛と決まったら別の部屋を用意しましょう。それまでポナー様はお客様ですので、こちらをお使いください」
何を言っても譲ってくれる気がなさそうな様子にがくりと肩を落とした。
彼はアイラの指示に従っているだけのようだから、この部屋から逃げ出すには彼女を説得するしかない。
もしくは、護衛になることを認めるか。
シューバットに残された道は、なかなかに険しい。
日陰を歩き、目立たない人生を歩んで行くつもりだった。
だが、全力で避けていた高位なご令嬢に目を付けられて、一生知らないはずだった場所に飛び込むことになってしまった。
遠い目で過去を振り返りながらドアノブをもう一度動かし、扉を開ける。
手垢が付いていないか、とても気になった。ここで拭いたら彼に変な顔をされるのは間違いない。
色々な理由で悩んで立ち止まっているとシークに再び「どうぞ」と促される。
先ほどとは違い、有無を言わせない声のトーンに変わった執事に、ゆっくりと震える足で一歩を踏み出す。
「し、失礼しま…す」
綺麗に整えられた部屋に踏み入れると自分の身分がこの場に全くつり合っていないことを猛烈に感じて、頬が引き攣る。
肩身の狭い気分を味わっているとシークがシューバットの荷物をソファの上にそっと置き、その向かい側に座るように勧められた。
ゆっくりと足を上げ、ゆっくりと足を下ろす。
それを何度も繰り返してどうにかソファに辿り着く。たったそれだけの動作なのに背中にはたっぷりの汗を掻いた。
一滴もそれをソファに付けるわけにはいかないと考えれば考えるほど汗が止まらないが、慎重に浅く腰を下ろす。
柔らかいソファがシューバットの身体を優しく包み込んで、ふわりと受け止める。
硬くないソファに座った経験の少ないシューバットは、その沈み具合に愕然とした。
今まで経験したどのソファよりも身体の負担が少なく、これぞ高位な貴族が座るために作られたソファという感じだ。
シューバットがソファに感動している間にシークが廊下からワゴンを押して部屋に入って来た。
いつの間に部屋の外に出たのか、ワゴンはさっきまではなかったはずなのに、という二つの突っ込みは慎むことにする。
ワゴンの上にはコロンとした丸形のティーポットと同じ柄のティーカップ、そして小皿に入ったクッキーが乗っていた。
シークは当たり前のように紅茶をコポコポと淹れて、シューバットの前にあるローテーブルの上にクッキーと甘さ調整のための角砂糖と共に置く。
カップからは良い香りが広がり、この紅茶もまたシューバットが口にしたことがあるものとは一味も二味も違うのだろうと悟った。
それに彼の流れるような一連の作業には、目を奪われるものがある。
「シューバット様。お話の一つにお聞きしたいのですがよろしいでしょうか?」
「は、はい」
「先ほど犬小屋を気にされておりましたが、犬がお好きなのですか?」
「ええと…」
適当に思いついたことを言っただけで、深い理由はない。
公爵家なら番犬を飼っていそうだな、とそう思っただけだ。
犬ではなくても、他のもっと大きくて強そうな動物とか。癒しを与えてくれそうな小動物とか。
「好きでも嫌いでもありません。犬よりは馬の方が……ってすみません。興味ありませんよね」
「いえ、ありますよ」
「え?」
緊張しているシューバットを和ませるために話題を振ってくれたのだと思ったのだが、違ったのだろうか。
心の中で首を傾げているとシークは口角を上げたまま、その続きを言わずにシューバットへ紅茶を飲むように勧めた。
後日、こっそりとアイラの元に侍女経由で「シューバットは馬が好き」という情報が内密で届くのだが、当の本人が知ることはない。