番外 貴公子ゼオンのあれこれ2
転機というものは、心構えも何も知ったことかとある日突然にやってくる。
幼いころからずっと片思いをしてきたエリィが急に伯爵位を継いだ。どうやら兄のシャーロックが心を病んでの代替わりらしい。
そんな話をいきなり耳にしてしまったゼオンは、それはもう盛大に狼狽えた。
エリィが伯爵位を継いだということは、彼女は跡継ぎを作る義務ができたということ。すなわち、そう遠くないうちに婿を取るということだ。
伯爵を継がない彼女は、面倒ごとを嫌う性格から鑑みるにしばらく独身でいるだろうからと、ゼオンはそんな風に思ってこれまでずっとアプローチもろくにしてこなかった。どうせ今告白したって振られるだけなのだから、時機を待とうと思っていたのだ。
普段は貴公子の鑑とまで言われるほど大抵のことを完璧にこなすゼオンだが、ことエリィがらみとなると彼女の兄、シャーロック曰く「びっくりするぐらいポンコツ」だ。心の中でいくら会話を計画しても声に出して練習までしても、彼女と面と向かって話そうとすると照れてしまっていつも当たり障りのないことしか口に出せない。当然会話も弾むわけはないし、エリィはそんな彼を「社交辞令として話しかけに来てくれるはとこ」としか認識していない。シャーロックからそう告げられた時、ゼオンは冗談抜きで膝から崩れ落ちた。
ほどほどのところで会話を切り上げてあげないと、つまらない会話に付き合わせたら迷惑だろうとエリィは本気でそう思っていたらしい。やめてくれ、本当にしゃべりたくて仕方ないんだ。そう言いたくてもゼオンの口は一向に思い通りに動かず、焦れば焦る程態度はぎこちなくなる一方。対するエリィはいつもさっさといい笑顔で会話を切り上げて身を翻してしまう。そしてその後に呆れた顔でやってくるシャーロックに「ほんとにポンコツだな」という目で見られるまでがワンセットだった。…………ゼオンの心が折れるまでの。
だからゼオンは、自分がきっとエリィの中でただの「知った顔」でしかないだろうという嫌な確信があった。
普通ならこれで見事に恋が散るところだが、幸いにしてエリィに結婚願望は全くない。恋知らずの伯爵兄妹として有名だった彼女は、それを面白がって自ら「恋愛に興味はない」とはっきり言っていたから、彼女に近づくような人もそういないだろう。だから今は焦らず少しずつ距離を詰めていけばいい、時間はたっぷりある。ゼオンはそう思っていた。―――――――のだが。状況は前触れもなく大きく揺れ動く。
エリィが伯爵を継ぐ?
その一報を聞いた瞬間、ゼオンの頭は真っ白になった。だってそんなことになったらこれまで考えていた計画は全てパアだ。
曲がりなりにも侯爵家一の秀才と呼ばれて育った彼には女のみで爵位を継ぐということに対する世間の風当たりも、これから起こるであろうことの全ても簡単に予測できた。
エリィは利用できるものは何でも利用するという令嬢にしては些か思い切りのよすぎる性格で、実際のところ女伯爵は相当に不利である。そもそも跡継ぎの問題もある。
するとどうなるか。エリィはきっと、どこぞの貴族と結婚するだろう。独身よりは既婚のほうをよしとするのがこの国の風習だからだ。そして、妙なところで思い切りのいい彼女はきっとあっという間に結婚相手を探してしまって自分が何も知らないうちに結婚式をあげたりして、―――――――絶対だめだ!
もうぐずぐずしている暇がないことを悟ったゼオンは、そこからこれまでの奥手ぶりはなんだったのかと思うほどの行動力を発揮する。とりあえずエリィに近づこうとしていた貴族どもは片っ端から睨みを利かせて寄せ付けないようにして(この時ほど自分が侯爵令息でよかったと思ったことはない、爵位万歳)、エリィが頷きさえすれば婚約と同時に結婚まで持っていけるよう両親を説得して根回しした。狙った獲物は逃がさない、という些か物騒な宣言にあきれつつもどうにか同意欄への記入をもぎ取った婚姻誓約書とバラの花束を抱えて、エリィの家へと向かう。
『君が僕のことを好きじゃないのは分かってるけど、僕は君を幸せにしたい』
プロポーズで告げた言葉はまごうことなき本音だった。エリィが自分のことを大勢の親戚の中の一人としてしか認識していないことは知っている。それ以上の目を向けてもらえる見込みが今のところ薄いであろうことも承知の上だ。だけど例えエリィの愛が自分になくても、それでもゼオンは彼女以外を愛することはできない。
エリィが強気に見えて実は押しに弱いということは知っていたので、どうしても彼女と結婚したかった彼はそれはもうガンガン攻めまくった。どれくらい攻めたかというと、プロポーズしに行ったその日にぽかんとするエリィを丸め込んで婚約を取り付け、取り付けたからには結婚するもしないもそう変わらないだろうとまたまた丸め込んで(騙して?)婚姻誓約書にまで名前を書かせたぐらいだ。つまり結婚。
あの時のゼオンは才能を発揮するところを盛大に間違っていた、とは、長女レイチェルを抱きながら心底あきれたように当時を回顧したエリィの言である。
ゼオン自身はちっとも間違いだったとは思っていない。だってあそこで何もしなければ、きっと今頃エリィは誰とも知れぬ馬の骨の嫁になっていただろう。…………ゼオンにとっては相手が例え公爵家だろうが王族だろうが関係ない、エリィに近寄る野郎は全部馬の骨だ、馬の骨。
あの時強引に攻めて、エリィが――その場の押しに流されただけだったにしても――頷いてくれたから今のこの暮らしがある。そう、彼は本気で思っている。今のゼオンの大切な家族。最愛の妻と子供たちと、そして。
「茶会か?」
「いえ、エリィ様とゼオン様だけです。お茶会はこの間呼んだ令嬢方の態度があんまりでしたので、ゼオン様が向こう一年はこの屋敷で開かないとおっしゃっていたかと」
「ああ、そうだったな。おいエリィ、仕事の進み具合はどうなってる?」
ふわりと柔らかく笑んだ女性の手を取って、一人の青年が近づいてくる。膨れていたエリィは、その声にピクリと反応するなりざっと音をたてて書類の束を取り出した。…いきなりドレスの裾から書類が現れるというのは、世間の常識に会っただろうか。もしかしてゼオンが知らないだけでここ最近の流行とか、令嬢たちの間での嗜みがこうなってるとか…違う気がする。
「エリィ、ドレスの広がりはものを収納するためにあるのかい?」
「あるのよ!」
「……………そっか」
やんわりとたしなめるつもりがドきっぱりと言い切られて思わずうなずいてしまう。他のことならいくらでも頭を働かせられるし上手いこと転がして意のままにできるのだが、どうにもエリィのことになるとゼオンの脳みそは途端にポンコツになるのだ。
「そう!…そんなことより、お兄様!いいところにいらしてくださいましたわ、さ、おかけになって。シャラも」
机の上にどさっと書類の束を置いて、エリィは満面の笑みで椅子を引く。座れと指し示す指先は優雅だが、なんだろう、その目は全くもって笑っていないような。
「…終わってないんだな、シャラ、帰るぞ」
「シャラ、飲んでいって。せっかく淹れたのだもの、飲んでもらわないともったいないわ」
ひかれた椅子を見た青年がくるりと踵を返そうとするのとほぼ同時に、エリィの手ががっしりと女性を掴む。アツアツの湯気を立てる紅茶を見せてにっこり笑う妻は、驚くほど可愛らしい。二人の子供を産んだ母親だとは到底思えない。が、おかれた紅茶のカップに男性は全く違う感情を抱いたようで、その整った顔を心底嫌そうに歪めた。
「絶対に嫌だ、お前が残してる書類なんてどうせ厄介なものに決まってるんだ。シャラ、帰ろう。こんなとこに居たら二人の時間が奪われる」
わりと本気の口調でそう言う男性の顔立ちは、エリィによく似ている。本人たちは似ていないと口をそろえて言うが、勝気そうな瞳と、それに反して笑った時に緩やかな弧を描く口元の辺りは瓜二つだ。
彼がエリィの兄、シャーロック。エリィのたった一人の兄であり、彼女がゼオンと結婚するまでは唯一の家族でもあった人物。そして、禁忌の魔術「真実の愛」を成功させた、恐らく唯一の人間だ。
その横でふわりと笑う儚げな女性が彼の細君。シャラという名のその女性は、五年前に一度死んだはずの人なのだという。エリィを説得して丸め込んで婚姻にまで持って行った日に、彼女は半分泣きながら教えてくれた。――今、本当に伯爵家で起こっていることを。
元伯爵だったシャーロックとその婚約者が、今真実の愛のただなかにいる。
日頃から貴族らしいポーカーフェイスは得意だったが、さすがにそう告げられた時ばかりは驚きを隠す間もなく顔に出してしまった。真実の愛を発動させた?エリィの兄君が?―――そんなことが、あるのだろうか。
正直なところ、最初は半信半疑だった。
エリィの兄、シャーロックとはエリィを介さずに幾度か顔を合わせている。はとこ同士だ、そこまで血は近くないけれども親戚としての集まりで飲んだこともあるし、まあそれ以外にも色々。男と男の友情らしきものも結んだ程度には、彼とは親交がある。
そんな幾度かの面識から得られたゼオンの中のシャーロック像は、エリィのことになるとややタガが外れるが(乱暴な方向にだ)非常に理知的で冷静な人だった。冷静すぎるほどに冷静で、簡単に言えば大勝はしないけれど反対に絶対に負けることもないタイプの人間。万に一つも可能性のない禁術など、間違っても発動させるような人ではないと思っていたのだが。
だけど、エリィの真剣な顔と今にも泣きだしそうな瞳が嘘をついているようには到底思えなかった。嘘でもなんでも信じようと、縋るように必死に話す彼女を見たその時決めた。最愛の彼女が言うことならば、たとえ嘘だったとしてもかまわない。もてあそばれているのだとしたってどうせ他の女性に目を向けることなんてできっこない。そんなことができるのであれば、ゼオンはとうの昔に恋人を作っている。
――――そしてその後、ゼオンはエリィの言が真実だったことを知った。連れていかれた部屋で見たシャーロックの姿は、想像をはるかに超えて凄絶だった。
穏やかに愛を語るその横顔は痩せこけ、髪をなでる手は骨が浮き出るほどに細い。騎士とまではいかなくとも剣を持たせればそこらの貴族が束になっても叶わない程度に鍛えられていた体つきはもう見る影もなく、エリィをより精悍にした美貌もどこにも見受けられなかった。
―――ああ、これが真実の愛の代償か。そう、ぼんやりと思ったのを覚えている。
聡明で強く優しかったシャーロックはもうそこにはいなかった。ただひたすらにシャラという名の婚約者だけを見つめて、文字通り必死に愛を囁く。君だけでいい。君以外、いらない。君がいない世界では、生きていけない。
そうやって囁き続けて、しばらくの後彼はふっと意識を失った。その場に力無く倒れこんだ彼に顔色を変えたのはゼオンだけで、エリィは表情一つ変えずに近寄って脈をとる。
そのままシャーロックを床に寝かせて上に毛布を掛けるエリィの姿は、彼女にとってこの光景が日常なのだということを何より明確に示していた。その躊躇いのない手慣れた動作はどうみてももうずっと同じことを繰り返してきた証で。ゼオンは、そのことに驚愕した。
――ならば彼女はずっと、兄夫婦のことをこうして見守ってきたというのか。いつ目覚めるとも分からない義姉と、もう二度と己を見ることはないのだと分かっている兄を。
それは、その姿はまるで。
その瞬間。ゼオンの頭に閃いた思考は、その後も何をもってしても拭い去れないほどに強烈な仮説となって彼の頭の中に残った。
真実の愛は、決して成功しない術ではないのかもしれないと、そう思ったのだ。シャーロックは、シャラは助かるかもしれないと。いや、きっと助かるだろうとそんな確信が芽生えた。万が一のことがあってはいけないからエリィには告げられなかったけれど、ゼオンはずっとそう信じていた。
なぜなら、真実の愛は―――――――。