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今あちらこちらで軽々しく使われている一つの言葉に、私はこれから反旗を翻す。その言葉は、そんな風に使うものじゃない。その意味は、そんなに軽いものではない。それを証明する、一つの悲しくて美しい話と共に。
淡々と過ぎ行く日々の中でただ一つ、あなたの周りにだけは色がある。他のことなんて構いやしない、あなたがいてくれればどんな世界だってきっと美しい色にあふれるだろう。
兄は、毎日そう繰り返している。最早目覚めぬ人となった最愛の女性の前で、ただひたすらに彼女を思う言葉だけを。
俺がいるよ、誰が君を嫌っても、何が君を拒んでも。この世界の中で俺だけは変わらない愛を誓うよ。だからどうか、目を覚まして。
――――真実の愛、と人はそれをまるで面白い冗談か何かのように呼ぶけれど。私は、知っている。本当の真実の愛は、狂おしくも美しいものだ。その相手さえいればもう何もいらない。相手がいないなら、何があっても意味がない。だって真実の愛をささげる相手を持った人にとってはもう、そのたった一人だけが生きる理由で死ぬ理由にもなるのだから。
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兄の婚約者は、社交界から締め出された元貴族の一人娘だった。貴族位を失ったところで貴族として育てられた人間がいきなり庶民として暮らせるわけもない。ろくな財もなく身分の盾を失った一家はたちまち困窮した。どんなに細々と暮らしても物は入用、明日の暮らしにも行き詰ったところで一人娘が身を売ろうとしたときに出会ったのが、商品の買い付けでたまたま下町まで下りていた私と兄だったのだ。
零落したとはいえ貴族は貴族だ。彼女の所作は令嬢にあるまじき大雑把さを持つ私などよりよほど綺麗だったし、心根も驚くほどに真っすぐだった。彼女の家族も同様に慎ましく穏やかな人柄で、それは彼らが一体何をして社交界から締め出されたのかと兄妹二人して首を傾げたほどに。いや、首を傾げていたのは私だけで、兄はその時すでに顔を真っ赤にしてバレバレの想いを隠そうと必死だったようだが。
シャラという風変わりな名を持っていた彼女は、その音があらわすように軽やかで美しい人だった。兄が一目惚れしたのも無理はない、私だって自分が男だったなら間違いなく一目惚れしていた。寧ろこんなにも魅力的な人がなんだってこんな下町に埋もれていたのだろうかと不思議で仕方なかった。
かくして、恋知らずの伯爵と言われた兄の猛烈な求婚が始まる。彼女が身売りせざるを得なくなった理由である金貸しの組織はそれはもう容赦なく裏から表から手をまわして壊滅にまで追い込み、平穏を取り戻した彼女の家になにくれとなく通った。両親が既になかった私は優しい彼女の家が大好きになって、兄にやめろ着いてくるな俺の邪魔をするなと何度言われてもめげることなく引っ付いていった。
今までどんな女性から言い寄られても「断る」しか言わなかった兄が、歯の浮くような美辞麗句を必死になって彼女に捧げる様に驚きながらも、その光景を微笑ましく見守っていたものだ。見るな散れ去れあっちへ行けとそれはもう物凄い剣幕で言われたけれど、実の妹である私をなめないでもらいたい。そんなちゃちな恫喝に怯むようでは令嬢は務まらないのだ。…嘘だ、令嬢は務まる、多分。
もちろん調子に乗ってからかうと痛いげんこつが落ちてくるので(兄はきっと私が伯爵令嬢だということを忘れている、全く女性の扱いが雑な男だ)、そこを見極めてほどほどに。そうやってからかう私と兄のやり取りに、初めはただただ怯えていた彼女も思わずといったように笑みをこぼすことが増えてきて。そんな彼女の姿に初心な兄は顔を真っ赤にしたりして、そうやって月日は過ぎていった。
…それはめでたいことなのだけど、彼女が笑ったのは私のおかげといっても過言ではないのだから、兄は私にげんこつを落とす前に礼を言うべきではないのだろうか?
まあ、とにもかくにも。そんな風にして彼女が笑ってくれるようになってから結婚にこぎつけるまでにかかった時間は何と五年。当時十二だった私は十七に、十九だった兄は二十四になっていた。遠慮深い性格のシャラを何としてでも嫁にすると、その間一日も欠かすことなく雨の日も風の日も、視察だろうが王城に謁見で上がろうが意地と根性で彼女の家に通い続けた兄は本当にすごい。
まさか鬼兄の本気をこんなところで見せつけられるとは思ってもいなかった。そして余った分の本気をげんこつに回してくるのは本当にやめてほしい。うん。
恋知らずの伯爵は、ゆえに愛する相手に心を告げるを躊躇わない。歯の浮くようなセリフも聞いているこちらがあてられるような甘い囁きも、何度も何度もシャラに告げていた。愛している、君だけが欲しい。身分も財力も関係ない、必要なものは全て俺が持っているのだから君は身一つできてくれればいい。君が笑って隣にいてくれる以上のことなど俺は望まない。子供が欲しくないのだったら妹の子を養子に取ればいいのだから。
…最後の一つはちょっと待てと思ったが。私の子供ってなんだ、私は結婚する気などない。恋知らずの伯爵、その妹だって当然恋知らずの伯爵令嬢なのである。
そんな風に思ったりもしたけれど、何十度目かにそれを聞いたシャラが泣きながらうなずくのを見て、仕方ないなあと絆されてしまった。もちろん恋情ではないけれど私だってシャラのことが大好きだ。彼女が家族になってくれるというのなら大抵の無茶はやって見せるし、万一仲たがいでもした日には愚兄にこの手で天誅を下してやる気満々である。その彼女が兄の求婚に五年越しでようやく頷いて、その決め手となったのが子供のことだというのならば。
―――任せなさい、次代伯爵の十人や二十人、私が産んで差し上げます!
…うっかりそれを口に出してしまって、次代は一人だ馬鹿者と呆れ返った兄にそう言われたのも今となってはいい思い出、…のはずだ。
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「私の血筋を伯爵家に残すわけにはいかないのです」
嫁いできてすぐ、午後のお茶でもいかがですかと誘いに行ったその部屋で、シャラは悲しげにそう言った。
「私の家は王に弓引く恐れありとして粛清されたのですから」
だから貴族から平民に落とされ、財も奪われ、借金で首が回らないような状況にまで追い込まれたのだと。初めて聞くその話に私は唖然として、次いで頭の中が一気に沸騰した。
「恐れあり、で粛清ですか…!?本当にその意思があるかどうかも確かめぬままに?」
「ええ、意思があろうとなかろうと、是と答えるわけがないのだからと」
もちろん彼女の家がそんなことを考えていたわけもなかったのだという。弁明の機会すら与えられないまま粛清されて消えていった、そんなことがあっていいのか。ふざけるな。
「今から王に直談判を」
彼女の家を再興してもらうのだ。いや、それだけでは物足りない。無実の罪に対してしっかりとした謝罪と彼女らが受けた仕打ちに見合うだけの賠償を今すぐに。すっくと立ちあがっていこうとした私を慌ててシャラが止める。
「お待ちください、いいのです、私たちはもうこのままで」
「いいわけがありません!」
いいのです。シャラは、そう繰り返して淡く微笑んだ。
「王に逆らって、どうしてこの国で生きていけましょうか。私たちは貴族ではなくなりましたけれど、今こうして生きています。シャーロック様は私たちが生きていけるよう、仕事も暮らしも与えてくださいました。もう、それだけで十分なのです」
「シャラは、欲がなさすぎる…!」
呻いたわたしにシャラは苦笑した。兄の名を呼んでふわりと笑う彼女はとてもきれいだけど、だからって今耳にしたことを聞き過ごすわけにはいかない。十分なわけがないのだ、無実の罪で平民に落とされ、財も伝手もなくいきなりただの庶民になった彼女たちはどれほど恐ろしい思いをしたことか。それを、兄の行動だけでもう十分などと、人がいいにもほどがある。
「いいえ、そんなことはないのです。欲がないどころか、私ほど欲深い女はきっとどこにもいない…」
「どこが!」
「私は、シャーロック様の婚約打診に頷いてしまいましたから。ただの平民が烏滸がましいことと重々承知の上で、それでもどうしてもあの方と添いたいと思ってしまったのです」
「それの何がおこがましいのです!?シャラのおかげで、恋知らずの伯爵は恋を知ったのよ。お陰でこれまでどれだけ頼んでも認められなかった婚前旅行を急に広めだしたし、シャラを喜ばせるためにって服だのアクセサリーだの、新しく手を出した商品が大成功。そりゃあもうびっくりするくらいの儲けがでてるのも、全部シャラのおかげ」
「…そんなことは」
あくまでも信じられないと首を振るシャラに、今度は私が苦笑した。恋知らずの伯爵、という二つ名がついていることから分かるように、兄の女嫌いは社交界でも有名だった。何しろ女の顔も名前も一切覚えないと社交界デビューのその日に宣言し、実際今に至るまで一人も覚えずに来たほどの兄である。ダンスは踊らねばならないが女性に触れるのも嫌だということで、デビュー前の私を引きずり出して数曲踊って帰る、という暴挙に出たこともある。
我が兄ながらこの傍若無人っぷりは相当だ。……というか女性と踊りたくなくて私を引きずり出すとは、一体妹を何だと思っているのか。兄は一度妹という感じの左側をよくよく見たほうがいい。女だ女、儚くてたおやかな女!
というようなことをつらつら語っていると、シャラが噴き出した。
「まあ、シャーロック様にそんな一面があったなんて」
「そんな一面、も何もお兄様の本性はむしろこっちですよ、全く人を人とも思わないというか、令嬢を令嬢とも思わないというか、妹の扱いがとにかく雑で雑デッ!?」
ここぞとばかりにこき下ろしていると、突然ゴインという音と共に目から火花が飛び出した。頭を押さえて涙目で振り返ると、そこには苛立った顔の兄が立っている。
「おいエリィおまえ、シャラになに吹き込んだ?」
「なにも変なことは言ってません、事実を言っただけですもの」
「事実?」
「ええ、お兄様は女嫌いで妹の扱いがひどく、とにかく人を人とも思わないったあ!」
「喧しい口は閉じておいた方が世のため人のためだ」
「シャラ、聞きました!?これが本音ですよ、お兄様の笑顔に騙されちゃだめでいったああ!」
ごつんごつんとそれはもう容赦なく振り下ろされるげんこつに悶える私と、怒りに満ちた表情で拳を構える兄とを交互に見ていたシャラがふわりと笑う。
「――ええ、私が思っていたよりもシャーロック様は素敵な方ですわね」
「なんでぇ!?シャラ、間違ってます、それ絶対間違ってます!」
「…………っ」
思いもよらない感想が帰ってきて狼狽えたのは私だけではない。無論、彼女を愛してやまない兄にとってその微笑みと言葉は最早凶器といっていいだろう。顔を真っ赤にして手で隠そうとする兄を前に、シャラも「まあ」と頬を染める。
「つい素敵だなんて、軽々しく言ってしまって。恥ずかしいわ、申し訳ありません」
「いや、……構わない。というか、その、もっと言ってくれても」
「すごく照れるけど嬉しいからもっと言ってほしい、そうですよ」
「エリィは黙ってろ」
「いったあい!」
げんこつに呻く私にシャラが赤い顔でくすくすと笑う。それを見ている兄の顔も赤くて、ああ、二人はお似合いだなぁと、多分その感想を抱くべき時はいまではなかったのだけれど、それでも私はなんだか幸せな気持ちになって一緒にふわふわと笑った。…げんこつの痛みを思い出して呻くのは、このすぐ後のことである。
そんな風に穏やかに日々は過ぎていくはずだった、のに。―――どうしてなのだろう、いつの頃からかシャラの顔から笑顔が消えていった。私や兄がいるところでは無理をして笑っているようだったけれど、一人の時には今まで浮かべていた微笑が消えているようだと。最初に気づいたのは兄だった。
兄妹二人で物陰からこそこそシャラを見て、本当に笑わない彼女の姿に愕然とした。何もなくともいつも温かくほのかに笑っていたシャラが、その瞳に何の感情も浮かべていなかったのだから。
いったい何が起きたのかと半ば殺気だった兄と共に情報を手当たり次第に集め、そして私たちはシャラがずっと無理をしていたことを知った。私たちが公務で家を空ける日に、シャラはいつも他家の茶会に出ていたのだそうだ。侯爵家からの誘いとあっては無下に断ることもできず、止めても大丈夫だからと口止めまでされてしまっていたのだと、数人の使用人が語る。
当然口止めするのには訳がある。執拗に招待をかけてきたというその貴族たちは社交界でも有名な鼻つまみ者だった。あることないこと噂をまき散らしては顰蹙を買うような、けれど噂好きの貴族界においてはそんな人物を支持する人だって決して少なくはない。それに、彼らには権力があるのだ。いくら我が家に力があったとしても、所詮は伯爵家。侯爵とは家格が違う。
そんな人々に呼び出され、シャラはどれだけ辛かったことだろうか。生まれを、育ちを、平民に落ちた経緯を晒されてあげつらわれるのだという、その地獄のような茶会に何度も出席せねばならない彼女の苦境はいかばかりだったか。――――それをもっと早くに気づけていればとそう思っても、もう全ては後の祭りなのだ。