#1 side L
『その記憶』を取り戻した瞬間、私はおおいに混乱した。記憶の中の私は、何故か、疎ましく思っている異母兄アミルで、私の婚約者であるエリーザベト・シャルロッテ――通称リーゼロッテに恋をしていた。リーゼロッテも、おそらくはアミルを憎からず思っていて、ふたりはよく、今私たちがお茶をしている庭園の奥にある薔薇の迷路の中で逢引きをしていた。互いの立場を理解していたふたりが不貞を働いたとは思わないが、想いを伝えられずとも、返す言葉を持たずとも、ただ傍にいられるだけでふたりは幸せだった。
私は少し考え、目の前に座るリーゼロッテを見た。緩く波打つ黒髪と、アクアマリンの瞳の少女は、記憶にあるより幾分か幼い。当たり前だ。記憶の中のアミルはとっくに成人していて、リーゼロッテと王太子ルートヴィッヒも成人するかどうかの年ごろだった。帝国歴四七五年のことと記憶している。ところが、『今』は帝国歴四六八年。私とリーゼロッテはまだ十歳の子供だ。初めての登城に緊張した様子の彼女は、カーテンのような黒い布が顔の右半分を覆い、暑い季節だというのに首まである服と手袋をつけた少女。その下には、八年前、まだ二歳だった私が魔力を暴走させた結果だという醜いやけどの痕があるはずだ。
けれど、物心つく前の失敗を理由に婚約者に収まった彼女に会いたくなくて、私は今までリーゼロッテを避けてきた。今日だって、父上に強制されなければ彼女の顔を見ることはなかっただろう。だが、今の私は覚えている。これから先、アミルに向けられるであろう好意も、はにかんだ微笑みも、宝物を呼ぶように「アミル殿下」と呼びかける甘い声も……。それから、今日がリーゼロッテとアミルの出会いの日であることも。
アミルの記憶によれば、リーゼロッテはこの後の私の「お前なんかと結婚しない」とのセリフを受けて、失意のうちに薔薇の迷路に迷い込みアミルと出会うのだ。五つ年上のアミルは当然、彼女が誰か知っていた。先の王太子妃、ひいては王妃となる彼女を慰めるうちに、聡明な彼女に惹かれていった。
リーゼロッテは私のものだ!アミルなんかに渡すものか。
唐突に沸き上がった強い感情に当てられ、目の前がくらくらする。きっとこれは、アミルの記憶だ。
どうすれば、リーゼロッテを私の元につなぎとめることができるだろうか?考えて、馬鹿馬鹿しいと思い直す。今の私は、異母弟の婚約者に横恋慕する立場のない王子ではない。リーゼロッテの正式な婚約者だ。ならば、優しく、大切にして、アミルなんかに気持ちが向かないようにしてしまえばいい。過去を変えれば、未来だってきっと変わるはずだ。
「あの、王太子殿下」
おずおずと、リーゼロッテが口を開く。ゆっくりな話し方と舌足らずな発音は、このころから変わらない。口が上手く開かないせいで、話をするのに時間がかかるのだ。
「あまり、見ないでくださいませ」
どうやら、私は過去に思いを馳せるあまり、リーゼロッテを凝視したまま固まっていたらしい。リーゼロッテは傷痕を隠すためのヴェールをぎゅっと引っ張ってうつむいた。そんなつもりはなかったのに、傷つけてしまった?にわかに心臓が早鐘を打ち、嫌われたくないという思いが前面に出る。気付くと、私はとんでもないことを口走っていた。
「すまない、リーゼロッテ。その、つまり、そう!見とれていたんだ、君に」
……あれ。どうして侍女や護衛たちが天を仰いでいるのだろう。なんだ、その「こいつ、やらかしやがった」みたいな顔は。
「殿下、申し訳ありませんが、気分が優れないので今日は失礼させていただいてもよろしいでしょうか」
静かな声に、目だけで彼女をうかがう。リーゼロッテは青い顔をしていた。どうして?さっきまで普通に……。
「リーゼロッテ?」
呼びかけ、手を伸ばした私から逃げるように、リーゼロッテは立ち上がった。
「失礼いたします」
薔薇の迷路の方へ駆け出す背中に、呆然とする。なんで?なにが悪かったんだ。どうして過去とは違う言葉をかけたのに、リーゼロッテは私から逃げ出した?
「殿下」
「ヨハン」
私付きの従僕になったばかりの青年が、リーゼロッテに負けないくらい青い顔で進言する。
「殿下の婚約者様のお名前は、リーゼロッテではなくエリーザベト様です」
今度は私が青くなる番だった。
『リーゼロッテ』は、エリーザベト・シャルロッテを文字って貴族たちが裏で彼女を呼ぶ時に使われるあだ名だ。その名が使われるときは、王太子の過失を理由に婚約者に収まった悪女と貶められるか、釣り合わないと馬鹿にされるとき。どちらにせよ、いい意味では使われない呼び名である。
それを、本人に向けて言ってしまったのは、明らかに私のミスだった。私は慌てて立ち上がり、リーゼロッテを追いかけた。
お読みいただきありがとうございます。
王子、初っ端からやらかしました(笑)