79話 婚約
俺は名刺入れを誘拐犯に返した。
誘拐犯の男はうろたえた様子で、それをひったくるように受け取った。
名刺は遠見グループの役員のもので、それも一枚だけではなかった。
つまりこれはこの男自身のものということになる。
男たちは慌てて部屋を出て行った。
玲衣さんと琴音は顔を見合わせていた。
「なんか……様子がおかしかったよね?」
と玲衣さんが言い、琴音もうなずいた。
男たちは挙動不審だった。
加えて、遠見グループの令嬢を狙ったはずの誘拐に、遠見グループの役員が関わっているというのも妙だ。
俺はしばらく考え、玲衣さんたちに部屋の外に行くと告げた。
「だ、大丈夫なの? もし部屋の外に勝手に行ったなんて知られたら……」
「あの男たちと話に行くんだよ。大丈夫。俺の読みが正しければ、問題も解決するよ」
「うん……。でも、無理しないでね? 晴人くんがいなくなったら、わたし……」
玲衣さんが俺を上目遣いに見た。
俺はそっと玲衣さんの髪に手を乗せた。
顔を赤くして玲衣さんがうつむく。
「姉さんだけずるいです!」
そういうと琴音は急に俺に抱きついた。
柔らかい感触があたり、俺がうろたえていると、琴音はそのまま俺の唇に自分の唇を重ねた。
キスは一瞬だったが、琴音は顔を真赤にして俺を見つめていた。
「私も先輩のこと、心配しているんですからね?」
「ありがとう」
一方、玲衣さんは頬を膨らませて、俺と琴音をにらみ、そして、俺の不意をついて、琴音と同じように俺にキスをした。
「琴音よりわたしのほうが晴人くんのことを好きなんだから!」
「……っ! そんなことありません。姉さんより、私のほうが……!」
二人とも、俺のことを好きだと言ってくれる。
でも、俺にその価値はあるんだろうか?
ともかく、目の前の問題を解決しないといけない。
俺は部屋の外へと出た。
俺たちが誘拐され、閉じ込められているのは、どこかの別荘のような建物の二階だった。
一階の管理室のようなところに男たちがいるんじゃないか。
俺はそう思って、階段を下りていったけれど、男たちのほうが向こうからやってきた。
彼らはなにか諦めた様子で、俺を見つめ、そして俺に丁重に一礼した。
「こちらにお越しください」
誘拐犯たちは急に敬語になり、そして、俺を一階の広間のようなところに案内した。
その中心の赤いソファに、一人の老人が腰掛けていた。
遠見総一朗。
遠見グループの総帥にして、玲衣さんと琴音の祖父だ。
「やあ、秋原の息子よ」
「どうしてここにあなたがいるんですか?」
「想像はついておるのだろう?」
俺はしばらく黙り、そして遠見総一朗を見つめた。
「今回の一件は狂言誘拐だったんですよね?」
遠見総一朗はうなずいた。
考えてみれば、不自然なことだらけだった。
厳重な警備がなされているはずの遠見の屋敷のすぐそばで、俺達はあっさりと連れ去られた。
しかも、まるで俺たちの行動がすべて見えているかのように、あまりにも手はずよく誘拐が進んでもいる。
他にもいろいろあるが、決定打は遠見グループの名刺の件だ。
琴音の誘拐は、偽装に過ぎなかったことになる。
「どうしてこんなことをしたんですか?」
「……琴音のためじゃよ」
「琴音の?」
遠見総一朗はニヤリと笑った。
しまった。
ついうっかり、琴音を呼び捨てにしてしまった。
「琴音はいろいろあって性格が歪んでしまってのう。父親は事故で、母親は自殺でいなくなったし、遠見の屋敷の親族どもの影響で傲慢になってしまった。おまけに玲衣にもあれこれと嫌がらせをしておったようじゃし」
「あなたは……玲衣さんのことを……」
「大事な孫じゃよ。親族どもはあれの母親のことでいろいろ言うが、わしにとっては孫であることには変わらない」
「それで、琴音に対するお仕置きとして今回の誘拐を仕組んだわけですか?」
「琴音はだいぶ怖がっておったじゃろう? これで、玲衣にも同じような嫌がらせをしようとはせんじゃろう」
たしかに琴音は玲衣さんに対する嫌がらせを反省し、もうしないと言っていた。
だからといって、このやり方は迂遠すぎるのではないか。
「それともう一つ狙いがあってな。琴音は君に懸想しておるじゃろう?」
懸想、という言葉の意味がすぐに出てこなかったが、異性に好意を持つ、という意味だったはずだ。
たしかに、琴音は俺のことを好きだと言った。
「琴音はもともと君に関心があったが、今回の一件でそれが明確になった」
「お孫さんの恋愛事情に口をはさんで何がしたいんです?」
「……遠見グループは後継者を得る必要があっての。ただでさえ経営が傾いているのだから」
「ええと?」
「じゃが、本家にはろくな人材がおらん。そこで、優秀で前途ある若者を婿に迎え、後継者候補とするというわけじゃ。遠見の血を引く者となると、それほど選択肢は多くない」
俺はしばらく考え、そして遠見総一朗が何が言いたいか、思い当たった。
おそるおそる俺は尋ねる。
「……まさか」
「秋原晴人。君を琴音と婚約させようと思う」」