107話 今は雨音さんのもとへ行っていいよ
俺の望みはなんだろう? もちろん、玲衣さんと一緒にこの家に戻りたいのは確かで、その目的のためには、雨音姉さんに協力してもらう必要がある。
だけど、それ以前に、雨音姉さんは俺にとって大事な女性の一人だった。
「雨音姉さんが我慢しているっていうなら、自分の望みを犠牲にしているなら、俺は嫌だよ。雨音姉さんの気持ちを無視して、俺はこの家に戻るつもりはない」
次の瞬間、雨音姉さんは俺の胸ぐらをつかんだ。避けることもできたし、さっきみたいに突き飛ばす事もできたと思う。
でも、俺はそうしなかった。雨音姉さんは悲しそうな目で俺を見つめる。
「だったら! 晴人君は私を選んでくれるの? 私とだけ、この家に住んでくれる?」
「それは……」
「そう言ってくれなかったら、何の意味もないじゃない! 私は水琴さんにも夏帆にもなれない。だから、私は晴人君の姉でいようとした。そうじゃなかったら、私は惨めなだけだから……ずっと我慢してきたのに! なのに、今更どうしてそんなことを言うの?」
俺は答えられなかった。
この状況に至ったのは、全部、全部、雨音姉さんの気持ちに気づかなかった俺のせいだ。
雨音姉さんの目には涙が溜まっていて、そして俺を突き飛ばした。
やがて雨音姉さんは涙をぬぐうと玄関から出て行ってしまった。
後には俺と玲衣さんだけが残される。
どうして、こんなことになったんだろう?
俺は魂が抜けたようにその場に座り込む。俺は雨音姉さんを姉として頼りにしていたし……大好きだった。雨音姉さんも俺のことを好きでいてくれて、でもそれは異性としての好意だった。
どうしてお互いを大事に想っているのに、俺は雨音姉さんを傷つけてしまったのだろう。
このままだと雨音姉さんとは喧嘩別れだ。もっと嫌な想像もできてしまう。
雨音姉さんが、本心を偽りながら、それでも俺と玲衣さんや夏帆のために協力してくれるという可能性だ。
本当は傷ついているのに、無理して笑顔を作って、俺たちの幸せを祈ってくれる。そんな立場に、俺は雨音姉さんを追い込みたくはなかった。
だけど、だからといって明確な解決策はない。もちろん、俺が雨音姉さんを一番だと言えればすべて解決なのだけれど……。
俺には、玲衣さんがいる。
俺はちらりと玲衣さんを見た。玲衣さんが心配そうに、青い瞳で俺の顔を覗き込む。
「大丈夫? 晴人くん、ひどい顔色……」
「平気だよ。心配なのは、雨音姉さんだ」
「あまり自分を責めないで。晴人くんは悪くないと思うから」
「俺が一番悪いんじゃないかな」
ずっと雨音姉さんに俺は無神経なことをしてきた。雨音姉さんの気持ちも知らず、玲衣さんや夏帆のために協力をお願いしてしまって、この家に玲衣さんと一緒に住みたいなんて言ってしまって……。
もし俺が雨音姉さんの立場ならとても苦しかったはずだ。
けれど、玲衣さんは首を横に振った。そして、眉を下げて、申し訳無さそうな顔をする。
「悪いのは、わたし。わたしが雨音さんの居場所を奪っちゃったんだと思う……」
「玲衣さんは気にしなくていいよ。俺も雨音姉さんも納得してそうしたことなんだから」
玲衣さんをこの家に受け入れるのは、雨音姉さんがお膳立てしたことだ。もちろん、俺の父さんの意向もあったし、玲衣さんを保護する必要があったからだとは思うけど……。
そもそも問題はもっと前からのことだ。俺と雨音姉さんの疑似姉弟関係は5年前からずっと続いている。
俺はその関係が心地よかった。雨音姉さんにからかわれて、甘やかされて、時には俺が雨音姉さんの支えになって……。
でも、雨音姉さんにとって、それが違ったとしたら。
やっぱり、俺は雨音姉さんと話さないといけない。このままではダメだ。
どうすればいいかはわからないけれど……。傷ついた表情で、逃げるように去った雨音姉さんを放っておくことなんてできなかった。
俺は雨音姉さんの「弟」なのだから。
俺が立ち上がると、玲衣さんが俺の服の袖をつまんだ。
そして、不安そうに、俺を見つめる。
「雨音さんを追いかけるの?」
「うん。玲衣さんは……反対?」
玲衣さんは目を伏せた。それから、一歩こちらに近づく。そして俺の胸に顔を埋めた。
玲衣さんのきれいな銀色の髪から、ふわりと甘い香りがする。玲衣さんの行動に俺はどきりとさせられる。
「え、えっと……」
「ほんとは、晴人くんに雨音さんを追いかけてほしくない。だって、雨音さんは晴人くんの一番大事な人だから……晴人くんを取られちゃう気がするの」
「玲衣さん……」
「でもね、大事な人が泣いているのに、放っておくなんて、晴人くんらしくないよ。だから、雨音さんを救ってあげて。雨の中、わたしを追いかけてくれたときみたいに」
玲衣さんはそうつぶやくと、俺の背中に手を回し、ぎゅっと抱きついた。
俺は雨音姉さんだけじゃなくて、玲衣さんも不安にさせてしまっている。
罪悪感を感じたけれど、顔を上げた玲衣さんは、微笑んでいた。
「大丈夫。晴人くんが最後に選んでくれるのは、わたしだって知っているから。ね?」
玲衣さんは自信たっぷりに言う。
「わたしは、雨音さんよりも晴人くんにとって大事な存在になるの。いつか晴人くんがこれをはめてくれるって……信じてる。だから、今は雨音さんのもとへ行っていいよ」
そう言って、玲衣さんは右手を伸ばし、俺の頬を優しく、そっと撫でた。
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