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路地裏の国のアリス  作者: 和泉キョーカ
ジャックドッグ編
8/28

或るシベリアン・ハスキーの独白

 ハッターは豆が苦手らしい。

 今でも少しだけ思い出すときがある。色とりどりの可憐な花々が咲き誇る、昼下がりの中庭。金色の太陽の光をそのまま身に宿したような髪を持った少女が、きゃらきゃらと笑いながら、蝶を追いかける。私はそれをずっと見守っていた。きっと、彼女の心の中にも、この光景は残っている。彼女がそれを思い出した時、彼女が破滅してしまうのは、目に見えているのだが。


 私の種族は犬である。よく狼と間違われるのだが、犬である。正真正銘、食肉目イヌ科イヌ属のシベリアン・ハスキーである。シベリアン・ハスキーの体躯じゃないだとか、そんなことを言われても困る。確かに私の身体は普通の人間なら一目見るだけで一瞬臆してしまうような巨体ではあるが、何度でも言おう。

 私は、シベリアン・ハスキーである。

 私の名はバンダースナッチ。アリス嬢の飼い犬として、その人生の大半を共に過ごしてきた。今、新しくミス・ドルフィンから買い取った新しいショットガンの性能を笑顔で試しているあの少女も、ひとつ、ただ一点の運命の悪戯によって、その生涯を狂わされてしまった、哀しき被害者なのだ。


 では、その始終をお聞かせするとしよう。ご清聴願う。


 アリス嬢は、ジャックドッグの高級住宅街、ヘッドレスヒルズに住む、資産家の家庭に生まれた、無邪気な少女だった。絵を描くことよりも、中庭で蝶を追いかける方が好きな女の子だった。

「バンダースナッチ! わたしをつかまえてみて!」

 何度もそう私にその汚れを知らない笑顔を見せては、私を困らせていた。いや、実際、私が本気を出せば一瞬で決着はついてしまう。だがそれではアリス嬢はふてくされてしまう。いい具合に手加減をするというのは、いくら知能に長けたシベリアン・ハスキーである私であっても、難しい物であった。そもそも当時はただ知能が高いだけの飼い犬だったのだ。今のように言語がわかっていれば、もっと簡単に手加減の方法が思いついていたのだろうが……。

 そうやって、共働きの両親が留守の間、アリス嬢は太陽の光を染み込ませたようなその髪を振り乱し中庭を駆け回り、太陽よりも眩い笑顔を私に見せてくれていた。

「バンダースナッチ! わたしね、おおきくなったら、べんごし? になるの! ママみたいにかっこいい、べんごしよ!」

 弁護士なるものがわからなかった当時の私は、しきりに首を傾げていたものだ。

 運命は残酷である。いつだって、運命というのは、アリス嬢を嘲笑って、敵に回っていた。

 私の見たメッセージボックスの画面の情報が記憶通りならば、ご両親はその日、買い物をして帰ってくる、と言っていた。数時間して、父親殿から新着メッセージが来た。

『マーサの買い物が長くなってしまったよ、ごめんね。すぐ帰る。』

 私とアリス嬢は、ずっと待っていた。冬の寒い夜だったのだ。暖炉の火の傍で二人で丸まって、暖を取っていた。待てども待てども、ご両親が帰ることはなかった。ふたりで丸まること十数時間、アリス嬢が目を覚ました時には暖炉の火も消え、そして――ご両親は、いなかった。

 自爆テロだそうだ。ちょうどご両親が乗っていたバスに乗り合わせていた過激派宗教組織の戦闘員が、エンジン近くで自爆をしたらしい。もちろん乗客は全員死亡、運転手も全身不随の重体。何もわからない私とアリス嬢は、大人に言われるがまま、屋敷を追い出された。身につけているものと、少しの食糧と、一枚の家族写真だけ。

 ご両親は成功を収めたこの時まで、何度も親戚連中と小競り合いを起こし、父方の親戚も母方の親戚も、誰も私たちを引き取ろうとはしなかった。私がいるからという理由で、孤児院にも断られ、ジャックドッグの地方役員にも見捨てられた私とアリス嬢は、行く当てもなく彷徨い、ジャックドッグいちのスラム街――ストリート・ザ・ボッグにたどり着いた。


 誰も管理者がいなくなった自動車修理工場の軒下にうずくまる私とアリス嬢を見た大人の浮浪者たちは、ほんの少し、ほんの僅かではあるが、自身が手に入れた食糧の一部を、アリス嬢と私に分け与えてくれた。『寒がりビリー』と呼ばれていた、毛布をたくさん所持している小男は、アリス嬢に毛布を分けてくれた。

 子供がやっともぐりこめるシャッターの向こうには、打ち捨てられた修理途中の自動車があった。私とアリス嬢は、そのドアも外れた自動車の中で、毎夜毎夜寄り添って眠った。

「バンダースナッチ。あなたは、わたしのそばにいてくれる?」

 弱々しい声でそう尋ねるアリス嬢を、何度となく慰めたものだ。とはいえ、ただ知能の高い犬であった私にできることは、寂しそうな主人の頬に自身の頭をすりよせてやることだけだったが。

 何度もトラブルに出くわした。廃工場に入るための抜け穴に気付いた他の浮浪者がやってきて、アリス嬢を無理矢理外に追い出そうとした時もあった。私が、初めて『犬でよかった』と思った時だった。

 食料が底をつきて、残飯を食べたアリス嬢が腹を壊した時もあった。胃の内容物を廃工場の端にあった下水道直結の穴の中に思い切りぶちまけ、その場から動けなくなった。私はなんとか毛布をそこまで運び、自身も寄り添うことで、アリス嬢の身体を温めていた。

 ――だが、一番記憶に残っている出来事は、やはりアレ・・しかない。


(熱い、熱すぎる、人間の体温はこんな温度じゃなかった。)

 そう、直感で理解した時には、私はストリート・ザ・ボッグの道路を駆け抜け、外れにある闇医者のところへと急行していた。そう。アリスがとんでもない高熱を出したのだ。横たわる自動車のソファごと熱くなるほどの。

 闇医者になんとか事の次第を伝えたくても、知能が高いだけの犬である私にできることは、吠えることだけだった。診療所の玄関先で吠え続けて数十分、診療所のドアが開いた時、私は歓喜した――と同時に、脳天を撃ち抜かれていた。

「ギャアギャアうるせぇんだよ犬ッコロが。」

 闇医者はそうつばを吐き、ドアを閉めてしまった。

(ダメだ、閉めないでくれ、アリス嬢が、嬢が危ないんだ、頼む――!)

 そう叫びたくても、私に発声機関など無く、まるで鴉のような断末魔をあげながら、私は死んでしまった。

(まだ、助けなきゃいけない、アリス嬢を、あの笑顔を助けなきゃいけないのに……。)

 知能が高いだけのイヌは、その瞬間、人生最初の『死』を体験した。


『レディース、エーン、ジェントルメーン! ボーイズ、アーンド、ガールズ!』

 意識のどこかで、甲高い声がしたのがわかった。

『今宵は嬉しい不思議な日曜日! あなたのお願い叶えちゃいますよぉ~ッ!』

 お願い。願い、願望。

『あれ? ワンちゃん? あら~、僕ワンちゃん苦手なんだよねぇ……。ま、いっか。君は晴れてこのクイーン・オブ・ハートに選ばれし勇者となったんだ! 光栄に思いたまえよワンちゃん!』

 誰なんだ、一体、この声の主は。

『僕はさっきも言った通りクイーン・オブ・ハート! し・が・な・い、武器商人サ!』

 武器商人……。そもそも私は死んでいるのではないのか? なぜこんな茶番をしているのだ。

『茶番とは言うねぇ! 僕は君のお願い事をかなえてあげるって言ってるんだよワンちゃん。人間でもないのにこの僕に認められるなんて、かなり崇高な魂の持ち主ってことじゃないか!』

 願望を、叶えてくれるというのか。

『そ~そ! さぁ言ってごらんワンちゃん! 君のお願い事を、サ!』

 私は――。


 あの笑顔を救うチカラが、欲しい。


『うむ! さすがは僕に選ばれし魂! ただの犬畜生だというのに、なんて立派な願望! しかも偽善ではなく心からの願望と来た! 君は聖人認定されてもいいね! 僕が許す! さて……。』

 甲高い声は、嘲るように私に囁きかける。

『これで君は普通じゃなくなった。君が手に入れたチカラ、フシギは、「ゲンゴ」。君は人間の言葉が理解できるようになったのだよ! さぁ、そのチカラで、君のプリンセスを助けたまえ! 黒きナイトさん☆』


 降り積もる雪に染み込んだ自身の血溜まりの中、私はゆっくりと起き上がった。周りを行き交う人々が何を言っているのかが理解できる。

 私は犬だし、神なんて信じてもいないが、ここまで神に感謝したいと思ったこともなかった。

 私はすぐさま駆け出し、筆記具とプラカードを廃れた教会で入手し、口にペンを咥え、プラカードに文字を書き込んだ。素晴らしい、こんな芸当もできるものかと、当時の私は心が躍ったものだ。

 そのプラカードを首にかけ、私は、ストリート・ザ・ボッグの大通りのど真ん中で、背中に雪が降り積もるのも構わず、私の字に気が付いてくれる人物を待っていた。こんな時に自らの犬種を誇りに思うとは――シベリアン・ハスキーは北方の狩猟犬にルーツを持ち、耐寒性能も、スタミナ面でもとても優秀な犬種なのだ。

 待ち続けること数時間。このままではアリス嬢の容体が危ない。そう思った時、私に声をかける者がいた。

「あァ? 『ショウジョ ヲ タスケテ クダサイ』? ……おいワンコロ。こいつァどういう意味だ?」

 中折れ帽を被った若い男は、私の目線に腰を落とし、私のプラカードについて尋ねてくれた。私は一回吠え、アリス嬢が待つ廃工場目掛けて駆けだした。

「なんだッてんだァ、おい……。」

 そう言いながらも、中折れ帽の男も、私についてきてくれた。男を廃工場の中に引きずり込み、アリス嬢の容体を見せると、男はしばらく考え込んだ後、私に提案してきた。

「こいつァけっこうひどい。まだ数時間前ならなんとかなったかもしれねェが、この状態になると治るかどうかは五分以下だ。ワンコロ、俺ァ一旦仕事場に戻って特効薬作ってくる。その間、なるべくお嬢さんが動かず、かつ体温を維持できる状態にしておいてやってくれないか。」

 待つのには慣れている。私は頷き、自身の身体で押さえ込むように、アリス嬢を固定し、自身の体温でアリス嬢を温めた。

 数十分もして戻ってきた男が持っていた試験管の中に入った液体を飲み干すと、アリス嬢の体温が少し下がった気がした。私は男に礼を言い(吠えただけだったが)、その後もアリス嬢の傍でアリス嬢を見守り続けた。


「ん……。」

 アリス嬢が意識を取り戻した時、私はアリス嬢の目をじっと見つめていた。

「バンダースナッチ……わたしを助けてくれたんだね……。」

 私は、男にもらったペンとスケッチブックで、アリス嬢に意志を伝えた。

『ダイジョウブカ?』

「バンダースナッチ、あなた……! すごいわ、人の言葉がわかるの!? やっぱりわたしのバンダースナッチは世界一だわ!」

 そう言って、病み上がりにも関わらず、アリス嬢は太陽のような眩しい笑顔で、私に抱きついてきた。

 その後も、私とアリス嬢の苦難は続いた。

 最も私が心を痛めたのは、アリス嬢が十歳になった頃のことだった。十歳になっていくぶんしっかりしてきたアリス嬢は、お金を稼ぐことを思い立ったのだ。いつまでも浮浪者のみんなからもらうばかりじゃいけない、そう考えたらしい。だが、十歳の女児にできる金稼ぎなんて限られてくる。悩みぬいた末にアリス嬢が行きついた答えが――身売りだった。

 私は猛反対した。言語が分かるようになり、わたしは街の図書館で本を読む人の背後から、その本をこっそり読み、人間の知識を多少だが得ていた。身売りというものが何なのか、私は把握していた。それはあまりにもアリス嬢の身体に負荷をかける。最悪、死に至る可能性だってありえる。そんなのはいけない、本末転倒だ――。私は何度もスケッチブックでそうアリス嬢に説いたが、結局、アリス嬢はどこかへと行ってしまい、私が次にアリス嬢を見たのは、ストリート・ザ・ボッグの四番交差点のど真ん中だった。固まった血がこびりついた脚で、ふらふらとよろめき、その場に倒れてしまったのを見つけ、私は駆け寄り、背中に担いで、廃工場に運び込んだ。

「……はは、バンダースナッチ。金、手に入れたぜ。見ろよ。大金だ……。これで一か月は食い物に困らないぜ……。」

 あの病の日にも負けず劣らず弱々しい声で囁くアリス嬢の身体を、私はずっと支えていた。


 その後、ラルヴァさんに拾われることになる日まで、私とアリス嬢はなんとかして生き延びていた。今でこそご両親の死因を知り、犯罪を憎む犯罪者となったアリス嬢だが、その根っこは、誰よりも強く、そして眩しい笑顔の、正義を愛する少女なのだ。

 おや、ショットガンの試遊が終わったらしい。私はアリス嬢の元へ歩み寄った。その時、ふいに、ダンテくんが写真を持って来た。その写真は、アリス嬢が家を追い出された時に持っていた、ご両親や私と一緒に写る、家族写真だった。

「アリス。これ何? 落ちてた。」

 いかん、アリス嬢にあの頃のことを思い出させたら、今までのことを想起して身が保てなくなってしまう――!

 案の定アリス嬢は写真を受け取り、笑ってごまかしながら、倉庫の端へと去っていった。ホワイトさんに説教されるダンテくんの横を過ぎ去り、私はアリス嬢を追いかける。

 アリス嬢はどうやら、はしごを使って倉庫の屋根の上に行ってしまったらしい。私はスケッチブックとペンを咥えて、私専用のルートで屋根の上に向かった。

「……バンダースナッチ。」

 私に気付いたアリス。しかし、寂しげな顔で、またそっぽを向いてしまう。睨み続ければ吸い込まれてしまいそうな星空の下、私はアリス嬢の傍に座って寄り添い、しばしそのままでいた。

「……ずっと一緒にいてくれてありがとうな、バンダースナッチ。」

 ふと、アリス嬢はそんなことを口にした。

「お前がいてくれなきゃ、きっとわたしゃ、今頃ストリート・ザ・ボッグの廃工場でのたれ死んでたよ。」

『アリス ツヨイ。キット ウマク ヤル。』

「そんなことはないさ。バンダースナッチがいなきゃ……わたしは……。」

 アリス嬢はそう呟いて、私を抱きしめた。じわりと、肩のあたりが湿る。人前ではほとんど泣かないアリス嬢が、涙を流しているのだ。

「ずっとそばにいてくれよな……。」

 もちろんだ。私はアリス嬢の忠実な飼い犬であり、誰よりもあなたのそばであなたを守り続けてきた、ナイトなのだから。

 太陽のような髪と、太陽のような笑顔と、そして、太陽のような明るい正義感を持った少女を、これからも私は、見守り続けることだろう。

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