カーティス・スカーレット殺害任務(後編)
ハッターは元々は薬剤師だったらしい。
「あっれ~? アリスじゃないか。」
カーティス・スカーレットの別荘の車寄せに停車した黒いセダンからアリスが降りると、そこにはファイランが立っていた。
「どうしたのさ……あ、もしかして今日のお客さんって君だったの!?」
「なんだ、そんなに驚くことでもないだろ。」
「いや、よくあの爺さんに接近できたもんだなと思ってさ……。ちょっと見くびってたかも。」
ファイランは肩に担いだノベスキーN4を左手でぽんぽんと叩きながら、アリスと会話を続ける。
「今の君は謎の御令嬢『アリス』ってワケだ。」
「あぁ、お前が殺す対象じゃないぜ。」
「あぁ~その通りだ。一杯食わされたよ。さすがにここまでビッチだとは思ってなかった。たかが十五のガキが……。」
「子供の方が柔軟な思考ができるんだぜ。」
「そのやり方は柔軟な思考のたまものなんかじゃない。それは破滅願望の結論だ。はっきり言って殺し屋としてはナンセンス。もっと歳の食った状態で取る作戦だったらばっちりだったがな。」
「なんだ、心配してるのか?」
「まさか。」
はぁ、とファイランは溜息をつき、しっしと手を振り、アリスを中に通した。
「ほら、行った行った。ベッドの上で行われることにまで干渉するようには言われてないし、中でされることは俺たちは何も知らねぇ。行け淫乱魔。」
アリスはキシシと笑いながら、別荘の中に入っていった。
目の前の少女しか見えなくなる程加速した欲情の中で死ぬ感覚とは、いかなるものなのだろうか。
「服着ろよ。」
別荘の廊下でまたもファイランとすれ違ったアリスは、全裸のままでいた。
「久しぶりのセックスだってのに短小チンコしやがって……。何も愉しくなかったぜ。」
「いや服着ろよ。」
ファイランはジャケットを脱ぎ、アリスに向かってそれを投げつけた。
「そういやぁよ、ファイラン。」
「あ?」
「玄関のお守りはいいのかよ。」
「仲間と交替したんだよ。」
「何のために。」
「聞くか? それ。」
しばらく、二人は睨み合ったままでいた。
「あー、トイレ行きてぇんだわ。アリス、そこどいて。」
「ファイラン、仕事もらった時に見取り図もらったのか? この先には地下室行きのエレベーターしかないぜ。」
また視線による銃撃戦。
この二人がこの場でこんな茶番をしているのには、ひとつの原因があった。
時はさかのぼって、オープンセレモニー三日前。
「フシギに関する論文だと?」
『ワンダーランド』の倉庫で、アリスはラルヴァから情報を聞き出していた。
「ヘッドレスヒルズの大学、知ってるでしょ。名前忘れたけど。」
「ホープクラウン大学だろ。ご大層な名前してるから覚えてるぜ。」
「あぁそうそう、あそこの教授が、ジャックドッグのチンピラたちが使ってる裏掲示板サイトに投稿した論文があってね。」
「何が書いてあるんだ?」
「フシギに関すること。具体的には、フシギのメカニズムと、フシギの生成方法。」
「生成方法……ってことは、その論文が正しければ……。」
「人工的にフシギが生み出せる。メカニズムがわかっていれば、解除の方法もわかるかもしれない。」
アリスの瞳に、恐怖とも驚愕ともつかぬ感情が宿る。フシギというのは、今まで超常現象や怪奇現象を人の身に宿す、言ってしまえばモンスターになってしまえる能力だったのだ。それが人間の力によって生み出せるようになる。その意味が分からないほど、アリスも愚か者ではなかった。
「それの原稿が、ジジィの別荘に?」
「うん、その教授から買収したっていう記録が残ってた。どういう意図かまでは……。裏掲示板サイトの論文は既に削除されっちゃってて読めないけど、原稿そのものならまだ現存してる。爺さんを殺した後に奪えたら重畳じゃないかな。」
普段からその場のテンションだけで動くアリスが、この時ばかりは神妙な顔つきで考え込み始めた。確かにアリスは、何度もフシギの力で任務をこなしてきた。だが、フシギの力は得ばかりではない。ディーとダムが持つフシギ、『フジミ』のせいで、アリスは老衰以外の死因で死ねなくなっている。だがそれは、痛覚だけが残った、回復するまで続く地獄すら生温い苦痛なのだ。死にたい、死なせてくれと泣き喚いても、吹き飛んだ下半身が生えてくるまで、内臓が溢れ出た傷口を寒風に晒されながら、アリスはずっと生きていた。
フシギは、決して人が超人となるための力ではない。ディーとダムだって、フシギの力がなければ、あそこまで気がふれることもなかっただろう。そう、フシギは怪奇現象。怪奇現象は人間に恐怖をもたらす。恐怖がいつでも自身の身にくっついているなんて、アリスはともかく、ディーやダム、ダンテといった幼子たちに、これ以上味わせたくはないのだ。
「それは……絶対にわたしが持ち帰る。」
解除だけではない。兵器としてフシギが人の身に生み出せるようになってしまえば、人類は――。
廊下の攻防は続く。武器を何も所持していないフェイラン、全裸のアリス。両者睨み合ったまま、互いに言葉の斬り合いを継続する。
「おら、早くしねぇと、上物のズボンがおしっこでびっしょりになっちまうぜ? トイレは向こうだっつの。」
「あー、お前は知らねぇと思うが、お前の後ろにもトイレはあるのさ。そっちの方が速いんだよ。」
「おいおい、あのエレベーターホールのどこにトイレがあるってんだ? 壁の中か? 随分と狭苦しいトイレだな。安いセックスホテルか?」
苛立った表情でアリスを見下ろすファイランとは対照的に、アリスは終始ニヤニヤしている。ファイランはやがて、業を煮やしたのか、舌打ちをして、自身の顔を両の平手で覆った。二秒ほどでその手を離した時、ファイランの瞳は、赤からオレンジのグラデーションに染まっていた。
残像すら見えるほどの速度で繰り出されたファイランの掌底を躱すアリスの瞳も、同じ色に輝く。依然ニヤニヤ顔のアリスは、ファイランが伸ばした腕を掴もうとするも、またも残像が残る速度でファイランがその腕を引き、バックステップ、アリスの前のめりになった体勢の鳩尾に、的確なミドルキックを打ち込んだ。
「ぐふッ!!」
アリスは蹴り飛ばされるがまま後退するも、突進してきたファイランの眼前でファイランがアリスに投げてよこしたジャケットを翻し、ファイランの視界を塞いだところで、彼の脚を払い、倒れた腹に踵落としを決める。
「お前ら!」
呻き混じりにファイランが叫ぶと、どこからともなくスーツ姿のアジア人集団が窓の外や部屋の中から現れ、アリスに機銃掃射を浴びせてきた。そのことごとくをアクロバティックに避け――ることはさすがに叶わず、その傷ひとつない真っ白な素肌に紅い筋がいくつか生まれたが、それでも構わず、瞬時に肉薄してきたファイランの首にハイキックを見舞い、そのまま両脚でファイランの首にしがみつく。その状態で上体に重心を移し、手が床に接地した瞬間、腕と脚の力だけで、ファイランを持ち上げ、プロレス技のようにエレベーターホールとは反対側へと投げ飛ばした。
「オネンネしてなチャイニーズ!」
そこからまた、ファイランの手下たちによる銃弾の嵐を躱しながら、無謀にも突っ込んできた者は首の骨をへし折り、エレベーターに乗り込んだ。
直下が海の崖に建てられた別荘の地下室は、海側の壁が全てガラスになっており、夜の海が一望できた。
「さァて、原稿探すか……。」
内装はこざっぱりとしていて見通しがいい。どうやらトレーニングルームだったらしく、それらしい機材がゴロゴロ転がっていた。くまなく探した限りでは、何もせず目に見える範囲内には原稿らしきものは見つからない。地下室最奥にあったスチール製のデスクの引き出しにもそれらしいものは見当たらず、残るは北側の、エレベーター横のロッカーだけとなった。
「……ご丁寧にパスワード式だぜ。こりゃあ間違いないなァ。」
だが、ここまで経験豊富なアリスでも、所見でパスワードが看破できるほど超人ではない。適当に数字を打ち込んでみるも、エラー音しか発さないセキュリティシステムに段々と苛立ちを覚えるアリス。
その時、すぐ右で、エレベーターシャフトが駆動する音が聞こえた。アリスは持ち前の反射神経と運動能力ですぐにエレベーターに駆け寄り、ドアをフシギ付きのキックで蹴破り、下に降りてきたゴンドラを、渾身のアッパーブローではね返してしまった。ゴンドラはシャフト天井にぶつかると同時にものの見事に大破、ひしゃげて潰れ、アリスは血の雨を浴びることになった。
さぁ、ここまでくるといよいよアリスの焦燥が怒りに変わるのも時間の問題となった。ゴンドラが下に落ちてくるよりも速くアリスはロッカーに戻り、とにかく四桁の数字を打ちまくった。――が、うまくいくはずもない。そして、とうとう。
「ンの――クソッたれがアアアアァァァァ!!!」
咆哮し、セキュリティシステムをパンチでぶち抜いてしまった。そしてロッカーも脚で破壊し、中にあった茶封筒を拾い上げる。
「もっと早くこうすりゃよかった。わたしって変なところで冷静になっちまうクセがあるなぁ。」
そう呟きながら、ふと窓を見た時。
「……ハハッ、笑えねぇジョークだぜ……。」
白んできた空から、黒塗りのガンシップが降下してきたのだ。銃座には、頭から血を流したファイランが立っている。その12.7ミリ重機関銃をアリスに向けると――。
「おいおいよせバカやめろッ!!?」
豪快な破砕音と共にガラスが割れ砕け、先程の手下たちの一斉掃射にも負けぬ銃弾の濁流が、アリスを襲った。アリスはデスクの裏側に滑り込むも、デスクにもどんどんと風穴が空いていく。
「ファイラン!! お前には貸しがあるだろ!?」
「それとこれとは別だ小娘!! その原稿よこしな!」
「やらんっつったら?」
「お前のつるつるお肌が蜂の巣になるぜ!」
「素っ裸の十五歳撃ってて楽しいかよ!」
「需要はあるぜ、ここの爺さんみたいな変態達にはよ!」
「撃ってるもんがちげぇよ! 鉛玉とザーメン一緒にすんじゃねぇ!」
「どっちも撃ってて気持ちがいいじゃねぇか!」
「知らねぇよ男じゃねぇし!」
と言ってる間に、アリスの腹部を銃弾が貫通した。
「がァッ!?」
次々に腹に空いていく通気口。溢れる血液を押さえながら、アリスは力の入らない腕で、茶封筒をデスク横へと放り投げた。銃撃がその方向へずれていくのが分かる。動くものに反応し、銃座を動かしてしまったのだ。
「あぁ――!? こッのアリスウウゥ!!!」
「ざ、まぁみやがれッてんだ、グラサンモンキー……。Fuck off, scumbag!!」
口癖のようなその言葉を口にした時、アリスの意識は途切れた。
目覚めた時、アリスは黄色い毛布を掛けられた状態で、倉庫のソファに横たわっていた。横を向けば、バンダースナッチが、その赤い瞳で、じっとこちらを見つめている。バンダースナッチは少し俯き、もぞもぞと動き、スケッチブックを咥えて頭をあげた。
『ダイジョウブカ?』
そう、幼子のような拙い文字で書かれたスケッチブックを見て、アリスは彼女らしくもなく優しく微笑んで、バンダースナッチの頭を撫でた。バンダースナッチはアリスの無事を確認すると、どこかへと去っていき、しばらくして、ホワイトとハッターが駆け寄ってきた。
「お嬢、大丈夫か!?」
「心配すんなよ、お前のクスリとわたしのガッツがあれば、あんなエテ公の銃弾なんてモノじゃねぇだろ。」
「なんとかファイランがお前に機銃を向ける前に駆けつけることができたんだ。遅れてすまなかった。」
「いや、ナイスピックアップだったぜ。原稿が粉微塵になったのは失敗だったけどな……。なんにせ、これで報酬天井知らずだぜ!! ――てて!」
アリスがびしっと腕を天に掲げようとするも、激痛に襲われ、すぐにおろしてしまった。
依頼主のノエルが倉庫に来る日まで、アリスはずっとソファで安静にしていた。時折暴れたそうにじたばたしていたが、後遺症の激痛に見舞われ、すぐに鎮静化していた。そのそばには、ずっとバンダースナッチが座っていた。
「さて、一応我が社の今年度の予算の半分と、父の会社から借りた金がいくらかあるが……満足してもらえるだろうか。」
「合計いくらなんだ?」
「はした金ですまない……三億ドルだ。」
その金額に、アリスはもちろん、『ワンダーランド』の面々はかなり面食らった様子だった。当のアリスなど、感激のあまり涙すら浮かべている。
「ヨソもん……いや、ノエルの兄ちゃん……今度夜暇な時ねぇか……? 今わたし猛烈にお前に抱かれたくなった。」
「あー。男としては嬉しいが……ティーンを抱く趣味もないし、妻がいるから……。」
「そんな金額、会社がつぶれてもおかしくないんじゃないか? どうやって用意したんだ。」
「予算の半分、というのはそこまでの金額ではなくてね。実質この報酬金の八割は、父のお金なんだ。ジャックドッグの建築業界のパワーバランスの頂点に位置する会社が犯罪会社だなんて、父も許せなかったらしくてね。話をしたら、成功した時に返す約束で、このお金を用意してくれたんだ。持つべきものは良い父親だね。」
アリスがつまらなさそうな顔をするのを見て、ノエルは話を逸らした。
「天井知らずと言っておきながら限度のあるお金ですまない。これから定期的にお金を納めていくし、なんなら報酬金以外に資金援助をさせてもらえないだろうか。」
「あぁ、ノエルの兄ちゃん。今お前はわたしの脳みそにキッチリ記憶されたよ。人が良すぎるぜ……そんなんじゃこの街では生き残れないぜ?」
「ならば変えればいいんだよ。」
「……何を、なんて、聞いてもいいのかい?」
「もちろん、ジャックドッグというこのイカレた茶会のルールをさ!」
そう言ってノエルは立ち上がり、力なく寝転がるアリスと、キラキラした笑顔でしっかりと握手をするのだった。