アダム・アバークロンビー殺害任務(後編)
アリスの身長は154センチらしい。
アリスは、エントランス・ホール両壁際に配置された二階への階段の裏側に隠れていた。既に体力を大幅に消費し、肩で息をしている。
「お疲れですか? アリスちゃん。」
「ケッ、『ちゃん』はやめろトニー・スターク! お前女癖悪いだろ!」
相手もどうやら反対側の階段の裏側にいるようだ。アリスは弾切れになった拳銃をリロードしながら、階段越しに怒鳴る。
「そこそこ楽しいぜ、せっかくだ、お前の名前聞いてやるよ、トニー・スターク。お前名はなんていうんだ?」
「皆からは『早撃ちのシュガーハット』と呼ばれているよ。」
「聞いたことねぇ名前だな……お前ジャックドッグの人間じゃねぇだろ。」
「流石、ジャックドッグに名高い何でも屋の総大将だ。お見通しだね。そう、僕らは遠くフロリダから来たのさ。」
「はん、反対側じゃねぇか。よくもまぁこんなヤク漬けチンコの護衛なんて引き受けたな。」
「アダムは僕の軍役時代の後輩でね。まぁそのツテでさ。」
「あー? お前今何歳だ?」
「今年で六十八になるよ。」
「馬鹿言え、んなツラじゃねぇ、そいつぁハタチそこそこの甘ちゃんじゃねぇか。」
「僕、ムカシトカゲのクォーターでね。流石に純正並みの長寿とまではいかなくても、六十八ってのは本当さ。」
「はーん。……ところでよぉ、シュガービーンの兄ちゃん。そろそろシェスタおしまい、でいいか?」
「僕はいつでもそのつもりさ――!」
その声がしたのは、アリスの頭上だった。吃驚の表情でアリスが直上を見上げると、吹き抜けのエントランスホール二階から、シュガーハットがアリスを飛び越えながら二挺拳銃をこちらに向けているところだった。
アリスは咄嗟に前転でその場から離れるも、その白いニーソックスを裂き、弾丸が彼女の太ももをかすめた。
「ち――!」
自分の目の前に着地するシュガーハット目掛けて発砲しながら、アリスは踵を返して階段の裏側に回り込んだ。壁に背をくっつけ、飛び出してくるシュガーハットの鳩尾に裏拳を入れようと手を鋭く動かす。
しかし、逆にその腕を掴まれ、アリスは高く宙に投げ飛ばされた。アリスとシュガーハットは互いに銃を向け合い牽制しつつ、やや距離を取る。
「さて、僕のことを甘ちゃんというんだ……十五やそこらの君が甘ちゃんでないという理由を提示してもらおうか?」
「ケッ、シュガーバナナ野郎が……。」
「シュガーハットね。」
「うっせ死ね!」
そう吐き出し、一気に三発発砲する。しかしシュガーハットは素早く低頭姿勢を取り、銃弾を躱し、走り出した。視界から消えたシュガーハットを目で追って振り向いた瞬間、アリスの鼻先に鈍い激痛が走る。
「……っの……!」
拳銃のグリップでアリスの顔面を殴ると、そのまま彼女の額目掛けて発砲するシュガーハット。アリスは相手の拳銃のスライドを掴んで照準をずらし、なんとか頬のかすり傷で済ませた。
「クソガキとのチャチャチャは楽しいかよ、シュガーパイ!?」
「シュガーハットね!」
シュガーハットの中段蹴りを避けた次の瞬間、アリスの眼が、文字通り光った。それは彼女の持つ青い目ではなく、虹彩が赤からオレンジのグラデーションという、不思議な色合いの眼だった。
「それは……!?」
吃驚したシュガーハットが一歩退くと、彼の腹部に強烈な衝撃が突き刺さった。
「アリスアリス! こちらディーとダムだよ!」
「アリスアリス! 門番死んじゃったよ!」
ぐちゃぐちゃになった肉塊の前で、ディーとダムが無線のスイッチを入れ、報告する。
「こちらホワイト。連絡が遅れたが狙撃手は始末できた。あまり遅くなるなよ。」
本拠地倉庫の車庫、高級そうな黒塗りのセダンのトランクで丸まって眠るダンテに毛布を掛けながら、ホワイトも無線を入れる。
「お嬢! こっちもなんとかなったぜェ!」
「俺の脚が折れたことは『なんとかなった』に入るのか!?」
小型照明機材が突っ込まれたプールの中に沈む熊の獣人を覗き込みながら、ハッター、マーチも連絡を終える。
「――だってよ。どうだい、気分は?」
アリスが無線を切って左を向く。そこには、頭から血を流して壁にもたれかかるシュガーハットがいた。背後の壁には小さなへこみができており、どうやらそこに叩きつけられたのだろうと考えられる。
「……ハハハ、人間の身体能力じゃないよ、それ……。一体何が起きたのか教えてもらえるかな?」
「こいつか?」
赤みがかった瞳を指さし、アリスは不敵に笑う。
「この街で見られる怪奇現象だ、総称『フシギ』。怪奇現象を人間の能力として備えるチカラって言って方が分かりやすいか。
わたしが持っているのは『ユウキ』らしい。圧倒的不利な状況に陥った時や自分の身に危険が迫った時なんかに発動する。こいつぁわたしの挑戦心や闘争心の強さに応じて、わたしの身体能力をガン上げしてくれるのさ。ま、夢の国から来たお砂糖さんにはわからんだろうな。」
そう言って、踵を方向転換させ、シュガーハットめがけて突進していく。シュガーハットは苦々しい表情で舌打ちし、その場で二挺拳銃を乱射した。そのことごとくを人間とは思えぬ速度で躱し、シュガーハットの鼻先まで肉薄するアリス。そして。
「おチンチンにバイバイしなァ!!」
そう雄叫びを上げ、その上昇した脚力で、シュガーハットの股間を蹴り上げた。人間を容易く吹っ飛ばすほどの脚力で股間を蹴られたシュガーハットは、白目をむき口から泡を吐きながらその場に倒れ伏した。
アリスはそのまま邸内をくまなく探したが、アダム・アバークロンビーの姿はどこにもない。
「あー。ハッター、マーチ。ターゲットは見つかったか?」
無線で尋ねると、すぐにマーチから返答があった。
「お嬢、書斎に地下通路への隠し扉があったぜ。」
「でかしたマーチ!」
アリスが書斎に向かうと、確かに本棚の裏の床にぽっかりと穴が開いており、下へ降りるためのはしごがかかっていた。
七メートルほど降りた地下通路は薄暗く、遥か先まで続いていた。進行方向を見つめると、暗い闇に吸い込まれそうな気がして、アリスは少しぶるりと身を震わせた。
「あ? なんだお嬢、チビりそうか? ケケケ!」
そうからかうハッターの股間も蹴り上げたが、幸いその目は青色に戻っていた。
「イテテ……おいお嬢、蹴るなら蹴るって言えよ!」
「言ったらどうしたんだよ。」
「逃げた。」
「それ見ろ。」
不用心に銃も構えず突き進むアリス。ハッターとマーチはやれやれと首を振りながら、手にしたAK-74を構え、アリスに追従して歩く。
十分ほど歩いた頃、進行方向から声が聞こえてきた。曲がり角があるらしく、アリスがその曲がり角で一旦停止し、声のする方をちらりと覗くと、そこには写真で見たアダム・アバークロンビーと、黒服の男が話し込んでいるところだった。
「話が違う! お前たちならどんな暗殺者が来ても対処できると言ったじゃないか!」
「これは想定外だ。まさか相手が『ワンダーランド』を雇うとは思ってもいなかった。完全に私の慢心だ。この通路の先は下水道につながっていると言ったな? アバークロンビーさん、あなただけでも逃げてくれ、ここは私が――。」
「そう簡単に行かせるかよ!」
会話を妨げ、アリス、ハッター、マーチが飛び出し、それぞれの得物を乱射させる。
しかし、黒服の男がアダム・アバークロンビーをかばうように通路に立ちふさがり、銃弾はすべて男の体に当たった途端ひしゃげて地に落ちてしまった。
「アバークロンビーさん、逃げてくれ!」
アダム・アバークロンビーが逃げ去ると、男は身動きもせずその場に立ち尽くした。
「俺はフシギ持ちのニコラ・レンポート! 俺のフシギは『コウカ』! 俺の体はいかなる銃弾、いかなる刃をも通さぬ鋼鉄の肉体だ! ここは通さんぞ、『ワンダーランド』!」
アリスたちは微動だにしないニコラから離れ、曲がり角に引っ込んだ。
「おいおい、こっちも初耳だぜ、わたしらと華僑以外にもフシギを持ってるやつらがいるのか!?」
「この前のクソネコの話じゃ、ネコ以外にもフシギをばらまいてる奴がいるんだってよ。」
「……で、あの黒くて硬くて大きなオトコ、どうすんだよ、お嬢。」
「へし折るしかねぇだろ。」
「どうやって?」
「ドク、今日のオクスリは?」
アリスに尋ねられたハッターは、ウェストポーチからコルク栓がしっかりと閉められた試験管や丸底フラスコを取り出した。どれも、中身は緑や紫の液体で満たされている。
「即時回復、全身麻痺、殺人強酸……の三種類だな。即時回復はマーチに使って一本減ってる。」
「よし、三番目で行こうぜ。」
アリスは黄色い液体の入った丸底フラスコに粘着爆弾を貼り付け、曲がり角から男のいる方向へ投げ込んだ。すぐにドカンという爆音と衝撃、爆風がしたが、その数秒後にこの世のものとは思えぬ断末魔が聞こえた。やはり、爆発では死ななかったようだ。
「どうなったかなーっと!」
曲がり角から男がいた方を見ると、そこには何もなく、血の海だけが広がっていた。
「お嬢、その血、まだ酸が残ってるから気を付けろよ。」
血の海を飛び越え、逃げ去ったアダム・アバークロンビーを追いかけて走る一行。しかし、標的は案外遠くには行っていなかった。なぜなら、暗闇の通路の途中でうずくまり、なにかをぶつぶつと呟き続けていたからだ。
アリスらは互いに互いを見合い、肩をすくめると、代表してアリスが彼の後頭部を撃ち抜いた。
「任務は完了だ、小麦屋さんよ。」
「ありがとう、『ワンダーランド』! あぁこれ、とりあえず二百万ドルだ。残りはぼちぼち返していくよ。」
ジャックドッグの港湾地区、フルゼルン。アリスは任務達成の報告を、依頼主のトーマスに伝えに来ていた。そこで報酬の一部をもらい、少し会話をしていた。
「そういや、小麦屋さんはどっからホットケーキ・ミックスを仕入れてるんだい?」
「俺か? 俺は竜門会っていう中国マフィアからさ。知ってるか?」
「いや、知らん。有名か?」
「そんなに、だな。でも容赦ないって聞いてるぜ。実際、同業の別人がイキがってその場で射殺されてるのを見た。あぁはなりたくねぇな。」
「ハッ、まぁせいぜいチャイニーズに頭ペコペコさせて生きてるんだな。」
アリスはそう鼻で笑い、ホワイトのセダン車に乗ってその場を去っていった。
「見ていたか? ワン。」
「えぇ、ばっちり録画済みです。」
「いずれ会うであろう『ワンダーランド』……まさかあんな少女がいるとはな。」
アリスたちが会話をしていた場所から少し離れたコンテナの上で、アジア系の顔立ちの二人の男が、カメラを回していることに、アリスも、トーマスも気付いていなかった。