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 侍女に抱きかかえられた琥珀こと珠璃は、爪を立てて侍女の腕から逃れようとした。

 どうもこの侍女からは悪意しか感じられない。

 孜門の視線が届かないところまでくると、侍女は猫の口の中に手巾(しゅきん)を押し込み、声を上げられないようにした。さらに納戸のような部屋に入ると、(あさ)(ぶくろ)を手にして、そこに猫を放り込んだ。

「にゃーっ!」

 口の中の手巾をなんとか吐き出し、なにするのよ、と珠璃は叫んだが、麻袋の口は手早く紐で縛られてしまい、出ることができない。

「うるさいね。黙らないと殴るよ」

 ()()ましげに侍女が怒鳴る。

 はすっぱな物言いから、どうやらこの侍女は貴族令嬢の出身ではないようだ。

 それなのに王太后のそば付きの侍女をしているということは、よほど王太后にとって便利な存在なのだろう。

(あの王太后……明らかにわたしを見て怯えていたわね)

 孜門の腕の中でちらりと見た王太后の姿を思いだし、珠璃はいかにも怪しげな王太后の態度に不審を抱いた。

 ただの猫嫌いではない雰囲気だった。

 琥珀の正体が猫ではないことに気付いている風だ。しかも、琥珀に警戒していた。

(蛇みたいな顔をしていたけど、もしかしてあれは蛇が化けているのかしら)

 王太后が孜門の命を狙っているとは聞いていたが、あの目は獲物を狙う()(ちゅう)(るい)の目だ。

(そういえば、この王宮には猫がいないわね。鼠もいないけれど)

 王宮に限らず、大きな屋敷には鼠が住み着いている。

 鼠が出ない家はほとんどないと言っても過言ではない。

 これほど大きな宮殿であれば、あちらこちらに鼠が暮らしていても不思議ではない。

 なのに、鼠は一匹もおらず、鼠を捕まえる猫もいない。といって、(ねずみ)()(じょ)(ほう)(さん)(だん)()などが軒下などに置かれているわけでもない。

 先日、孜門に贈られていた酒壺からは鼠の死骸が出てきたが、あれはどこで捕まえてきたのかと驚くほど、王宮内で鼠を見つけるのは困難だ。

(まさかあの王太后、実は正体が蛇で、夜な夜な王宮内の鼠を捕まえては食っているんじゃないでしょうね)

 その光景を想像して、珠璃は背筋がぞっとするのを感じた。

 地界に堕とされて以降、天女としての力はまったく使えない。

 なにも飲み食いしなくても生きてはいけるが、所詮はただの猫だ。

「まったく、あの王太后も猫を見るたびにぎゃーぎゃーとうるさいったらありゃしない」

 主人の()()をこぼしながら、侍女は麻袋を持ち上げると、どこかに運び始めた。

 猫を捕まえては麻袋に入れてどこかに捨てるという作業は、侍女にとってこれが初めてではないらしい。

「王太后といい、王妃といい、なんであんなのが後宮で(あるじ)気取りなんだかわかりゃしない。王だってこんな猫なんか()でて」

 ふん、と侍女は鼻を鳴らすと、珠璃が入った麻袋を放り投げた。

 それほど歩いていないところを見ると、玻璃殿の周辺だろう。

 ふわりと身体が浮いたと思ったら、どぷんと嫌な音がした。

(え? え? まさか池とか井戸とか、水の中? 嘘っ!)

 百年の精進潔斎を命じられた身なので、飲み食いしなくても死なないが、水の中に沈められても生きていられるかどうかはわからない。その辺りについては、天帝も誰も説明はしてくれなかった。

(ちょっと! 誰か! この際、丹陽様でもいいから助けて!)

 みゃーみゃーと叫ぶが、外まで声が届いている様子はない。

 麻袋にはすぐに水が染みこみ、珠璃の金色の毛を()らし始めた。

 手足をばたつかせているせいか、ますます身体は下へと沈んで行く感覚がする。

 全身が水に包まれた瞬間、口の中にも水が入り込んできた。

(わたしは泳げないのに!)

 じたばたと手足を動かし、なんとか麻袋から抜けだそうと悪戦苦闘する。

 (のど)の奥にも水が流れ込んでくるが、必死で爪を使って麻袋を破ろうとした。

 周囲は真っ暗でなにも見えない。

 しかし、ここで死ぬわけにはいかなかった。

(ただの猫として百年生きるのは構わないけれど、誰がこんなところで死んでやるものですか!)

 爪に麻袋は引っ掛かるが、どうもがいても袋は破れない。

 それどころか、袋は水を吸って重くなり、ますます下に沈んで行く。

 珠璃の爪がひっかかった小さな穴からは、さらに水が入ってくる。

 暴れ続けたせいか、水を飲んでしまっているせいか、意識が(とお)退()き始めた。

(あの侍女、もしわたしが生きて再び会うことができたら、絶対真っ先にひっかいてやるんだから!)

 怒り狂いながらも、手足の動きはもたつき始めていた。

 このまま自分は水の底で骨になっても誰にも救い出されない運命なのか。これは丹陽に振られたときから決まっていたことなのか。それとも自分が天女として生まれたときからのさだめなのか。

 ぼんやりと考えた珠璃の手足の動きが止まったときだった。

 突然、身体が上に引っ張られるのを感じた。

(え――?)

 水面に袋が持ち上げられた瞬間、水がざばざばと音を立てて下に落ちていく。

 袋に引っかけていた爪が、びりりっと音を立てて麻布を引き裂いた。

 ぱっくりと裂けた袋の外に頭を出すと、新鮮な空気が鼻に触れると同時に勢い余って飛び出て地面に落ちてしまった。

「おや、琥珀ではないか」

 身体の力が抜けかけていた珠璃は、不格好に地面に倒れ込み、げほげほと肺にまで達しかけていた水を吐き出した。

 しばらくそれを続けて、ようやく落ち着いたところで顔を上げると、(しわ)だらけの丹陽の顔があった。

「陛下と一緒に王太后の茶会に行ったのではなかったのか?」

 膝を地面について珠璃の顔を覗き込んでいる丹陽は、王の愛猫の身になにが起きたのかお見通しといった表情を浮かべている。

 まるで、こうなることをわかって王と一緒に送り出し、その後珠璃を助け出したような態度だ。

 珠璃が丹陽から視線を外して辺りを見回すと、王太后の侍女が衛兵ふたりに両腕を捕らえられている。

「この侍女がなにやら袋のようなものをこそこそと井戸に捨てるところを見つけたので、捕らえたのだ。まさか、陛下が大切にされているそなたが入っていたとはな」

 丹陽は猫が相手だというのに、わざわざ説明した。

「あたしは王太后の命令に従っただけだよ! 捕らえるんなら、王太后を捕らえな!」

 憎々しげに侍女は丹陽を睨んで叫ぶ。

「とにかく、そなたが無事で良かった」

 わざとらしく着物の袖で丹陽は目尻を拭う。

 老人の姿になったせいか、小芝居が上手くなったように見える。

「にゃ」

 あぁそう、と答えると、珠璃はぶるんと全身を振って毛の水を飛ばした。

 (すい)(てき)が飛び、丹陽の顔にもかかる。

「うっ」

 わざとらしく丹陽は(うめ)いたが、珠璃は無視した。

 丹陽がこれほど都合良く自分を助けに来たということは、王太后が侍女の命じてこっそり王宮から猫を排除していたことは明らかだ。猫を排除するだけなら、普通に命令すれば良いのに、王にも宰相にも隠していたということは、王太后は自分が猫を苦手としていることに気付かれたくないということになる。

 しかも、丹陽は王太后の謎の行動に不審感を持ち、以前から見張っていたことになる。

 ただの野良猫であれば、丹陽も侍女を捕らえることはできなかっただろうが、王が可愛がっている猫となれば話は別だ。

 どうやら自分はおとりに使われたらしい。

(そんなことよりも、孜門は大丈夫なのかしら)

 まだ身体は濡れていたが、気にしている場合ではない。

 辺りを見回し、ここが玻璃殿の裏にある厨房近くの井戸の横であることを知った。

 暇にまかせて王宮内は毎日探索をしているので、地理感はかなり養われている。

 王太后の茶会が開催されている四阿の場所もわかる。

(あの王太后はいったい何?)

 珠璃は四つ足をしっかりと動かし、駆け出した。

 四阿までは猫の足でもそう遠くはなかった。あの侍女は歩くのを面倒くさがり、近くの井戸に放り込んだようだ。

 庭木の隙間を駆け抜け、躑躅(つつじ)の茂みに突っ込み、柳の木を()けて走り、地面に散った(しゃく)()()を蹴り飛ばしながら、石造りの四阿に向かった。

「琥珀? どうしたのだ、その姿は」

 まだ毛が濡れている上、身体中に木の葉や花びらをくっつけて現れた愛猫の姿に孜門が目を丸くする。

「猫ちゃん!」

 王妃が歓声を上げて駆け寄ろうとするのを、乳母が全力で阻止する。

 それらの声を無視して、珠璃は円卓の上に駆け上がった。

 孜門の前に置かれていた茶碗の中の茶の匂いを嗅ぐと、わずかに顔を(ひそ)め、無言のまま茶碗を地面に蹴り落とす。

 ぱりーんと小気味の良い音がして、(はく)()の茶碗は粉々に砕けた。

「この猫、なんてことを!」

 どうやらこの白磁の茶碗はかなり高価な物だったらしい。

 侍女たちが目くじらを立てたが、珠璃は彼女たちに目を遣ることはしなかった。

 ただ一心に王太后を睨み付ける。

「な、なんですか、この猫は!」

 明らかに(おび)えた様子で王太后は声を震わせた。

 ただの猫嫌いには見えない反応だ。

「にゃ」

 お前こそ、と返事をすると、珠璃は王太后に向かって飛びかかった。

 もう天帝から命じられた精進潔斎など気にしている場合ではない。

 この王太后を名乗る女だけは放置しておくわけにはいかなかった。

「ぎゃ――――っ!」

 けたたましい声を上げて王太后は椅子から転げ落ちた。

 王太后の着物に噛み付くと、珠璃は両手を挙げて鋭い爪で王太后をひっかこうとした。

 途端に、王太后は着物や簪などを残して煙のようにかき消えた。

(どこに行った?)

 獲物を狙う猫の目で辺りを見回した珠璃は、着物の(たもと)の間から一匹の白い蛇が這い出てくるのを見つけた。女の細腕ほどの太さの蛇で、帯の長さくらいはある。

(これが王太后の正体か!)

 地面を蹴って飛び上がると、珠璃は蛇を捕まえようとする。

 しかし蛇も命は惜しいのか、円卓の脚の間をするすると蛇行した。

「王太后様が消えた!」

「へ、蛇が!」

 妾妃と大臣夫人たちは王太后の姿が消えたことと、猫と蛇が追いかけっこを始めたことで、大騒ぎになった。

「琥珀、これはどういうことか?」

 孜門は床の上をうろうろと歩いて蛇を避けながらも、愛猫に説明を求める。彼もこの状況にかなり混乱しているようだ。

 蛇は孜門の声を聞くと、本来の目的を思いだしたのか、孜門に向かって進んだ。

(この蛇、孜門に噛み付く気じゃないでしょうね!?)

 王太后に化けていた蛇が毒を持っているのかどうかはわからないが、酒に毒を入れたりしていた手口からすると、毒蛇の可能性がある。

(させるものですか!)

 蛇は、正体がばれた以上は王を毒殺する手段は選ばないつもりらしい。

 まっすぐに孜門に向かい、鎌首を持ち上げて足首に狙いを定める。

(えいっ)

 蛇の身体を両手両足で押さえ込むと、珠璃は蛇の頭を繰り返し手で叩いた。

 一方の蛇もそう簡単にやられてなるものかと身体をくねらせて抵抗する。

 まずは猫の方を始末してしまおうと考えたのか、蛇は蜷局を巻いて珠璃の身体を締め付け始めた。

「ぎゃっ」

 身体が締め上げられる苦しさで悲鳴を上げながらも、珠璃は爪で蛇の顔をひっかいた。

 それから、蛇の首の辺りに噛み付く。

 口の中に妙な感触が広がるが、気にしている場合ではない。

「誰か! 衛兵を呼んでこい!」

 孜門が侍女たちに声を掛けているのが聞こえる。

 珠璃はますます蛇の首に歯を食い込ませた。

 蛇はさらに身体を締め付け、珠璃は自分の身体の骨がばきばきと音を立てるのを聞いた。

(猫の身体って、なんて(もろ)いの――)

 口の中に蛇の血が広がる。

 それでも蛇は力を弛めることはしない。

 それどころか、頭を大きく振ると、噛み付いている珠璃の歯を振り落とした。

(あ――――)

 まずい、と思ったときには遅かった。

 蛇の両目が珠璃の目の前までにじり寄っていた。

 赤い舌を伸ばした蛇は、一瞬嘲(あざ)(わら)うような表情を浮かべたように見えたが、次の瞬間には珠璃の首に噛み付いた。

 全身が総毛立つと同時に、手足から力が抜けるのを感じた。

(なんてこと……わたしともあろうものがこんなところで蛇に噛まれて終わってしまうとは……)

 天女としての矜持よりも、わけのわからない悔しさで目眩がした。

「琥珀!」

 孜門が遠くで悲鳴を上げるのが聞こえた。

 視界が()(めい)(りょう)になる。

 耳鳴りがしたかと思うと、珠璃の意識はぷつんと途切れた。

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