一
臻国は甯王家の始祖である甯徐暎より数えて十代、現在は甯孜門を王として戴く大陸でも屈指の大国だ。
東の端には古来より神仙が集う霊峰として名高い獅崙山の見渡す限り峻険な山稜が連なり、敵の侵入を阻んでいる。
西の端には広大な砂漠が広がり、こちらも天然の要塞の役目を果たしている。
北と南の国々とはここ十数年良好な関係が続いており、国内で小さな小競り合いは幾度か起きているものの、人々は太平の世を謳歌していた。
王都・桂成の王宮では、三年前に王位を継いだ甯孜門が王としての辣腕を振るっていた。
表向きは――。
「琥珀! 琥珀はどこへ行ったのだ?」
大声で「琥珀」と叫びながら外廷を身なりの良い青年が歩き回っている。
外廷で働く役人たちは、彼の姿を目にするや道を譲り、頭を下げる。
青年はそんな役人たちには目もくれず、ただひたすら「琥珀」を探していた。
「そなた、琥珀を見なかったか?」
槍を携えて立つ警備兵を捕まえては、琥珀の行方を知らないかと問い質す。
「陛下! このようなところでなにをしておいでですか! まもなく王太后様とのお約束の時刻だというのに!」
白髪に長い顎髭、皺だらけの顔の矍鑠たる老人が、嗄れた声で青年に呼び掛けた。
「おお、丹陽か! そなたは琥珀を見なかったか? 今朝、朝儀の前まではいたのだが、どこを散歩しているのか昼餉の時刻になっても戻ってこないのだ」
陛下と呼ばれた青年、甯孜門は宰相である芫丹陽に駆け寄ると、困った様子で尋ねた。
「琥珀というのはあの猫のことですな」
「そうだ。黄金色の毛並みと琥珀色の瞳をした可愛らしい猫のことだ」
「陛下しか懐かないあの雌猫は、実は王妃の座を狙っているともっぱらの噂でございますぞ。陛下も近頃は後宮から完全に足が遠退かれ、昼夜かまわずあの猫をおそばに置いているとか。王妃様や妾妃様方が大層お嘆きと聞き及んでおりますが」
「まさかそなた、琥珀を王宮から追い出したのではあるまいな?」
険しい目つきで孜門は丹陽を睨み付けた。
かつて獅崙山で仙人をしていたという丹陽は、一年前に孜門の前に現れ仕官を願い出た。とある事情で仙籍を失い醜く老い曝えたという彼は、十七歳で王位に就き、家臣たちに政を牛耳られていた孜門を救うことを約束した。
柳の木のように風が吹けば倒れそうなほど痩せ細った姿の丹陽だったが、その叡智は桁外れに優れていた。
わずか一年で王宮内の腐敗は一掃された。
廷臣たちは皆丹陽を頼りにし、丹陽なしには朝廷は回らなくなったほどだ。
王である孜門は家臣たちの横暴に憂うことはなくなった。
とはいえ、大きな心配事がひとつ減ったに過ぎない。
王座に就いている限り、孜門の憂悶が消えることはない。
そんな彼の前に現れたのが、黄金色の長い艶のある毛に包まれ愛くるしい琥珀色の瞳をした猫だった。
琥珀と名付けたのも孜門だ。
膝の上に載せて顎の下を指で撫でるとごろごろと喉を鳴らし、毛を櫛で梳いてやると目を細めてうっとりとした鳴き声を上げる。孜門が呼べば尻尾を揺らしながらしゃなりしゃなりと寄ってきて、侍従たちが触れようものなら爪を立てて嫌がる。
美しく気紛れ、そして自分にしか懐かないというのがまた孜門の庇護欲をそそった。
朝起きれば挨拶代わりに「今日のそなたは相変わらず美しい」と誉め、昼になると「ますますそなたは美しく可憐だ」と誉め、夜になると「そなたほど妖艶な者はこの世にはおるまい」と誉めるほどの溺愛ぶりだ。
「あの猫は陛下のおそばから追い出そうにも木天蓼すら効かず、侍従たちも手をこまねいておるほどです。儂がどうこうできる猫ではございません。猫とは気紛れな生き物です。そのうち気が向いたらひょっこり陛下の前に姿を現すでしょう」
廷臣たちの間では猫王妃とまで陰で呼ばれている猫だ。
「……もしや、私に愛想を尽かしたのでは!」
息を飲んだ孜門は、頭を抱えて嘆きだした。
「今朝、琥珀のために用意した座布団が気に入らなかったのだろうか? あれは西の旅商人から買い求めた毛織物で作った物だったが、肌触りが好みではなかったのだろうか。それとも昨日新たに作らせた絹の布団が気に入らなかったのか? 確かに刺繍が地味だったかもしれぬが、あれは生地の光沢を引き立たせるためにもあれくらいの刺繍が良かろうとお針子が申したのを鵜呑みにしたのがいけなかったのか」
「猫に貢いで国を傾けるおつもりですか」
頬を引き攣らせて丹陽が文句を垂れる。
「琥珀は自分から贅沢を望んだりすることはないぞ。ただ私が琥珀のために勝手にあれこれと贈り物をしているだけなのだ」
「それが鬱陶しくて姿を消したということは考えられませんか」
「私ほど琥珀を愛している者はいないというのに?」
「その愛の半分でも良いので、王妃様にお気を向けてはいかがですか」
額に浮かぶ青筋を隠しもせず、丹陽は声だけは必死に冷静を装って忠告した。
「王妃に? それは無理だな」
我が儘な子供のように孜門はまったく考えもせず答えた。
「王妃は私に愛されることを望んでおらぬ。私も王妃を愛したいとは微塵も思わない。妾妃たちは私に愛されたいのではなく、王に愛されたいだけなのだ。もし私が王でなかったなら、彼女たちは私になど見向きもしないだろう」
「陛下ほど見目麗しい方は大陸中を探しましても数えるほどしかおりますまい。もし陛下が王に即位されなかったとしても、多くの御婦人方を魅了されていたことは間違いございますまい」
「そなたのおだてには乗らぬぞ。そもそも、王に必要なものは容姿ではない。才覚だ。そして私は自分に王としての才覚が足りないことは充分自覚しておるが、自分にはない才知に長けた家臣を手に入れることはできた。私はそなたであれば傀儡になっても良いと思えたから、宰相に任じたのだ。そなたが宰相として頑張ってくれている限り、私は琥珀と一緒にのんびりと昼寝をしていられる。せいぜい長生きしてくれ」
「儂を宰相として長く扱き使われたいのであれば、陛下にも長生きしていただかなければ困りますな。儂が宰相位に就いていられるのも、陛下の御代だからこそ。陛下に万が一のことがあれば、儂はすぐさま政敵によって捕らえられ、朝廷を支配した者として裁判にかけられることなく処刑されるでしょうからな」
「そなたは不老不死の仙人ではなかったのか?」
「不死は仙籍と一緒に失いました」
丹陽は別段悲しむ風でもなく淡々と答えた。
「そういえば以前から聞きたかったのだが、仙人が仙籍を失うなど余程のことであろう? 一体なにがあったのだ」
興味本位で孜門は尋ねた。
「あるとき、天界で天女を口説いてひとときの恋を楽しんだところ、別れ話がこじれてしまい自暴自棄になった天女がある罪を犯したのです。それが天帝の逆鱗に触れ、天女が罪を犯した元凶である儂も連座する格好で仙籍を剥奪されたのです」
「天女が犯した罪とはなんだ?」
「それは儂には知らされておりません。ただ、その天女は不憫にも天界を追放されたと聞いております」
「天界を追い出されたということは、地界に堕とされたということか」
「おそらくは。儂も獅崙山の主殿から知らせを受けたものの、仙籍を失った以上はいつまでも獅崙山にとどまることもできず、山を出ましたので後のことは……」
「天帝を怒らせておきながら大手を振って一国の宰相位に就いているとは、そなたなかなか豪胆だな」
「そのようなことはございませぬ。仙籍を失い、このように老いた身となったいまとなっては、臻国と陛下に身を捧げて滅私奉公することのみが罪滅ぼしかと」
「では、私は天帝に礼を言わねばならぬな。そなたという有能な宰相を得られたのも、天帝がそなたから仙籍を奪ったから――おや、琥珀。そこにいたのか」
孜門は庭の芍薬の木の下から顔を覗かせている金色の毛並みの猫を目敏く見つけた途端、目尻を下げた。
金色の長毛に丸く金色の瞳。長い睫は黒々としており、髭は白銀だ。
紅色の満開の芍薬の花がちょうど頭の上に乗っており、まるで花飾りをつけたような姿は猫ながら美しい。
琥珀は孜門と丹陽をじっと見つめているが、自分からは近寄ろうとしない。機嫌が悪いのか、眉間に皺を寄せたように険しい表情を浮かべている。
「琥珀。そなたも私と一緒に王太后様との茶会に行くか?」
自ら芍薬の木の下まで歩み寄ると、孜門は琥珀を抱き上げる。
「陛下。王太后様との茶会に猫を連れて行くなど――」
猫を溺愛する王の姿を見かねた丹陽が意見する。
「なにを申すか。琥珀はただの猫ではないぞ。一昨日は、私の酒に毒が仕込まれていることを見抜いたのだ。私の有能な毒見係として連れてまいるのだ」
よほど琥珀はただの猫ではないのだと主張したいらしく、孜門は猫の手柄話を始めた。
「陛下のお酒に一昨日毒が仕込まれていたですと? そのような話は初耳でございますぞ」
「あ――うん、いろいろあってそなたに伝えるのを忘れていたが、そんなこともあったのだ。しかし、琥珀の活躍により大事はなかった」
丹陽に隠していたことを思いだした孜門は、視線を不自然なくらい琥珀に向けた。
「そのお酒はどのように陛下の元に運ばれたのですか」
厳しい口調で丹陽が問い詰めると、孜門はしどろもどろになった。
王宮内に刺客がいるとなると、丹陽が警備を強化する。警備が強化されると、孜門の周囲には常に大勢の侍従と衛兵が詰めていることになる。できれば仕事以外ではひとりでゆっくりと過ごしたい孜門にとって、いくら自分の身を守るためとはいえ、たくさんの者に囲まれているのはありがた迷惑なのだ。
「誰かの贈り物だと言って、酒壺が届いたのだ。王太后様だったか、王妃だったか、どこぞの大臣だったか。とにかく、誰かの名を語って私の部屋に届けられた酒壺には毒が混ぜられていたようでな。酒壺の匂いを嗅いだ琥珀は、にゃあと一声上げたと思うと一撃で壺を倒したのだ。こぼれだした酒と一緒に死んだ鼠が出てきてだな」
「鼠が――」
「どうも毒入りの酒を飲んで死んだらしい」
「酒壺に入った鼠がただ溺れ死んだだけという可能性もありますが――」
丹陽は別の見解を示したが、孜門の耳には届かなかった。
「琥珀が酒壺を倒してくれなければ、うっかり飲むところであった」
「鼠の死骸入りの酒というのも嫌がらせとしてはかなりのものですが、勝手に鼠が壺に入り込んだのだろうという言い訳ができる分、たちが悪いですな。しかしその猫も、鼠の臭いがしたので壺を面白半分に倒したということも――」
「琥珀は断じてそのようないたずらをする猫ではない。私の身を案じ、毒入りの酒壺を倒したのだ」
「酒が飲みたかっただけなのかも」
「琥珀はけっして私の物は飲み食いしない。それどころか餌を与えようとして新鮮な魚や肉を用意させてもまったく口をつけないのだ。それなのに、私の食事の匂いを嗅いでは、毒が入っているとおぼしき物は皿ごとひっくり返すのだ。見て匂いを嗅ぐだけで毒を見抜ける有能な毒見係など、世界広しといえども琥珀くらいのものだろう」
「まさか、官吏としてその猫を雇えとおっしゃるのではないでしょうね」
「官位を与えよとは言わぬが、私が琥珀を連れて歩くことに異を唱えることは許さぬ。食べてみなければ毒が入っているかどうかも確認できぬような毒見などいらぬ。それに、琥珀であれば王太后様の茶会でも堂々を毒見ができるではないか」
「猫に王位を譲ると言い出す前に陛下を抹殺してしまおうと王太后様がお考えにならなければ良いのですが」
呆れ返った口調で丹陽が大きな溜め息を吐くと、黙って孜門の腕の中に収まっていた琥珀はなにが不満なのか、じいっと丹陽を睨み付けた。
「陛下。やはり王太后様との茶会に猫を連れて行くのは――」
ふたたび丹陽は意見しかけたが、琥珀の恨めしげな視線に気圧されて黙り込んだ。
この瞳はどこかで見覚えがあった。
丹陽も、これまで幾度か琥珀の姿を孜門の部屋や執務室でちらりと見かけたことはあったが、いまほど間近で見たのは初めてだ。しかし、琥珀の態度は初対面という感じではない。
はて、と丹陽が首を傾げると、琥珀の方から目を逸らした。
孜門の肩に顎を乗せ、可愛らしく甘えた声で鳴いている。
そんな琥珀の態度に孜門はますますしまりのない表情を浮かべ、老宰相は長い溜め息を吐いた。