序
「珠璃、天帝陛下の前で申し開きをなさい。なぜ、陛下の桃園の桃をあのように食べ尽くしてしまったのですか」
壮麗に着飾った天后が厳しく詰問する声が室内に響き渡る。
天帝の執務室に集まった天仙たちは、部屋の中央に座り込んだまま放心状態の仙女に注視していた。
天宮の数多いる宮女の中でも、特に天后に気に入られていた珠璃は、その美しい容貌と愛らしい性格で誰からも好かれていた。恋多き天女としても知られ、天仙たちとたくさんの浮き名を流していたが、それすらも彼女の美点として受け入れられていた。
その珠璃がいま、化粧をせず身繕いもせず、長い黒髪も結い上げずに背中に垂らした状態で、大理石の床の上に崩れ落ちるように座っていた。
泣き腫らした目は兎のように赤く、白い頬にはまだ涙の跡が痛々しい傷のように残っている。それでも紅を落としてもなお唇は朱く、可憐さはまったく損なわれていない。
「あの桃園は陛下だけが召し上がる桃を育てている果樹園だということは、お前とて重々承知していたはず。なのに、桃園に忍び込んだだけではなく、熟していた桃という桃のすべてを食べ尽くすとは、どういうことですか」
「美味しい物を食べれば、すこしは気が紛れるのではないかと思ったのです」
泣き疲れて嗄れた声で、珠璃は弱々しく答えた。
「陛下の桃園の桃は、天界一の美味と伺っておりました。ですから、ひとついただけばその美味しさで悲しみに満ちたわたしの心を癒やしてくれるだろう、と。でも、ひとつ食べても砂を噛むような味しかせず、ふたつ食べても土を噛むような味しかせず、みっつよっつと食べているうちに気分が悪くなり、次第に腹も痛くなりました」
「――食べ過ぎです」
重々しい口調で天后が告げた。
「天帝陛下の桃園の桃を食べ荒らして腹を壊した天女など、お前くらいのものです」
天帝の斜め後ろに立っていた大臣のひとりが、手で口元を押さえ、肩を震わせている。どうやら笑いを必死にこらえているらしい。
桃園の中で腹を押さえて苦しんでいるところを庭師のひとりに発見された珠璃は、すぐさま医師のもとへと運ばれた。腹痛を和らげる薬を処方してもらい、胃の中で消化しきれずにいた桃を吐き出し、体力を使い果たしてぐったりと寝台に横たわっていたところ、天后の宮女たちによってここへ連行されたのだ。
「そもそも、儂の桃を食べても癒やされぬほどのそなたの悲しみとは、いったいどのようなものなのだ。この天界でそれほどそなたに辛い思いをさせている元凶を教えてはくれぬか」
執務机の重厚な黒檀の椅子に座った天帝は、慈愛に満ちた声で珠璃に尋ねた。
「丹陽様が地界に帰ってしまわれたからです。わたしがどんなにこのまま天界で一緒に過ごして欲しいとお願いしても、『君とは住む世界が違うから』とおっしゃるばかりで……」
言葉にして説明した途端、珠璃の目から涙が溢れ出した。
「丹陽と言えば、地界の獅崙山からやってきた軽佻浮薄な地仙のことですな。ほれ、陛下に新年の挨拶をするために地界から参りました地仙の中でも、一番見目が良く口が巧い男ですぞ」
総白髪に白い顎髭を腹の辺りまで伸ばした老齢の大臣が天帝に耳打ちする。
「あちらこちらの天女たちに声をかけて回り楽しんでいたと聞いておりましたが、まさか宮女にまで手を出していたとは。しかも、自分は遊ぶだけ遊んで、地界に帰るとなった途端に手酷く振るとは、仙籍にふさわしいとは言い難いものがありますぞ」
「なるほど。つまり、その地仙にもそれ相応の罰を与えるべきだな」
ふむ、と天帝は黒々した顎髭を撫でながら、しばらく黙り込んだ。
天后は眉を顰めながらも、天帝が口を開くのを待っている。
しくしくと泣き濡れていた珠璃は、大臣のひとりが差し出してくれた手巾で止まらない涙を拭い続けていた。
「では、こうしよう」
威厳のある声で天帝は裁断を下した。
「珠璃。そなたは無断で立ち入ることを禁じた桃園に入り込んだだけではなく、決して食べてはならない桃を口にした。罰として、地界にて百年の精進潔斎の刑に処す」
「精進潔斎、ですか」
まだ状況がよく飲み込めていない珠璃は、耳慣れない言葉に手巾を握り締めたままぼんやりと首を傾げた。
「天仙は地仙と異なり地界の土で育った食べ物を口にすれば、それだけで身体が穢れる。穢れたままでは天界に戻ることはできない。そなたは地界にて百年間、いっさいの食を断ち、身を清めるのだ。さもなくば、天界に戻ることはかなわぬ」
「それはつまり……丹陽様がいらっしゃる地界へ、行けるのですか」
話半分に都合良くしか聞いていなかったのか、珠璃はぱっと牡丹の花が咲いたように顔をほころばせたが、天帝は険しい表情で続けた。
「この天宮であろうことか天仙をもてあそんだ地仙の丹陽にも罰を与える。そなたは地界にいる間、醜い獣の姿で過ごすこととなる。丹陽もかつての姿は失うこととなる。もしそなたが地界で丹陽と会う機会があったとしても、百年の恋も冷めることであろう」
「それはあんまりでございます! 桃を食べてしまったのはわたしひとりの罪でございます! どうか、丹陽様のお姿を変えることだけはご容赦くださいませ!」
慌てて珠璃は床に頭を擦りつけて頼んだが、天帝は首を横に振った。
「そなたはただ自分のためだけに精進潔斎に努めれば良い」
「陛下。百年も珠璃を不浄の地界に堕とすなど、いくらなんでも酷すぎます。後宮で数日謹慎させておけばよろしいではございませんか。今後はこのようなことを起こさぬよう、わたくしがきつく叱っておきますゆえ――」
天后も天帝の裁定に異議を唱えた。
禁忌の桃園に入って桃を食べたことは罪だが、珠璃が直接天帝に謝れば許してもらえるものと考え、天后は天帝の執務室まで珠璃を連れてこさせたのだ。娘同然に可愛がっている宮女を百年も地界に追放されるなど、天后も堪えられるものではなかった。
天仙が地界に流されるということは、死にも等しい屈辱だ。天帝は恩情をかけているように見せかけているが、地界行きは極刑も同然だ。百年経って天界に戻れる日が訪れたとしても、再び天宮で宮女として天后に仕えることは難しい。
「どうかこの娘をお許しくださいませ――」
胸に手を当てて嘆願する天后を諭すように、天帝は告げた。
「この宮女を簡単に許してしまっては、同じように儂の桃園の桃を盗ろうとする者が現れるに違いない。そのためにも、この娘には重い罰を与えなければならないのだ」
「陛下! 珠璃は盗人ではありませぬ!」
天后は悲痛な声を上げたが、天帝は冷酷にも無視した。
「珠璃。そなたはただいまより地界へ赴き、百年の精進潔斎に励め。よいな」
凜とした声が執務室に響く。
「――はい。このたびは大変申し訳ございませんでした」
神妙な態度で珠璃は床に額をつけて天帝と天后に謝罪した。
その瞬間、天帝の執務室から珠璃の姿は景色に溶けるように消え失せる。
後には桃の薫香だけがかすかに漂っていた。