第90回 世界平和と最強のふたりと、国際政治
ドアがこつこつと叩かれた。どうやらぼくは眠っていたらしく、その音で目が冷めた。頭を乗せていた腕が痺れている。ぼんやりとしていると、もう一度こつこつとノックが聞こえ、防護服に身を包んだひとがふたり入ってきた。ひとりは前田本部長で、もうひとりは見知らない人だった。その手には大きな包がある。
前田本部長はぼくの対面のパイプ椅子に座ると、防護マスク越しにじっとぼくの目を覗いた。
「検査の結果はまだわからない」
「ぼくのクラスメイトたちは?」
「全員検査中だ。とある隔離施設に移送している。検査には時間を要す。が、こちらは最大限の医療チームを抱えている。どこにいるよりも、陰性だろうと陽性だろうと、いちばん安全だ。それは安心してくれ……ただ」
ただ?
ぼくはじっと視線を前田本部長に注いだ。彼は続けた。
「エリカくんだけが検査を受けていない」
「どういうことですか?」
「行方をくらませた。マンションにもいない、消えてしまった、魔法のように」
ぼくの顔色がさっと変わったことを、前田本部長は気づいただろう。
あとから聞いたところによると、海からの帰り道、ぼくがほのかに電話をしてその後に、エリカは行方がわからなくなったらしい。ふだんから行動の読めない子だったけれど、いったいなぜ? 対策本部だって、エリカの存在は分かっている。ここで姿をくらますのはただただ悪手でしかない。それに検査結果がわからないのに、ぼくを訪ねてきたのは、つまり。
「わたしたちは鈴本エリカ捕縛チームを整えた」
ぼくは黙っていた。
「きみが真木村との取り決めでは、鈴本エリカが害悪となりうる場合には君が止めることとなっていた。しかし、いま君をここから出すわけにはいかない」
「待ってください、エリカはただ連絡がとれなくなっただけですよ? 彼女がなにをしたというんですか?」
「なにかをしてからでは遅いんだ」
前田本部長は、淡々と続けた。
「直接みたわけではないが、鈴本エリカの魔法は群を抜いているという報告だ。少なくとも過去に捕縛をした異世界からの魔法使いたちとは比べ物にならない。そんな人間を放置しておくことはできない」
「ぼくが探します」
「きみはマオウ熱の疑いがある。おいそれと出すことはできない」
「それなら、前田さんだって……!」
「その通りだ」
防護マスクからのくぐもった声が、それでも部屋いっぱいに響いた。
「防護服をきているのは、予防が目的じゃない、感染源になることを防ぐためだ。対策本部内にいて、指揮を取れる責任者はわたしだ。だが、感染者かもしれん。いつ死ぬかもしれん。でも、職務を全うする責任がある。真木村がいないいま、佐倉ユウタくん、きみにかかる責任はわたしにあるのだ」
それは、つまり、エリカのことも含めてなんだろう。黙るしかない。ここから出て行くこともできる。でも、万が一、ぼくが罹患者だったら、マオウ熱は多くのひとの命を脅かし、そして奪うことになる。
「だったら、携帯端末を貸してください。かえでに連絡をして、かえでにエリカを探させます」
「それはできない」
「なんで!」
「かえでくんの利用は国際ルールに違反するんだ……わかっているだろう? そして、彼女にこの危機を救ってもらったら、いっそうまずいことになる」
「それは……」
その通りだった。
世界を救った英雄がふたり。
それを聞いて、誰もが思うだろう、どっちが強いのか? って。答えは明白。かえでだ。この世界で最強なのは、ぼくじゃない。最強のカードは誰だって欲しい。それが核兵器なら、技術を学べば作ることはできるかもしれない。でも、本当にたった1枚しかないカードなら、どうだろう? それを奪うためだけに戦争が起きる。世界最強が日本人だと知った各国は日本にプレッシャーを与えた。ぼくとかえでを囲うことを阻止するためだ。でも、日本政府もがくがくと頷くことはしなかった。だから取引をした、最強のどっちかを自由にするって。
かえでは激怒した。
あたしたちは取引の材料じゃない。ふざけるな、って。そのとおり。気持ちいいものじゃない。でも、ぼくは彼女みたいにまっすぐな正義の味方じゃない。だからぼくはその交渉に賛同した。ぼくは人質になったんだ。その代わり、本当の世界最強は自由になった。その時に取り交わされたのは、かえでの政治・軍事利用の禁止だった。誰にも縛られないし、誰にも命令もされない。彼女は自分で判断して自分で行動するだけ。
もし、いま、ぼくがかえでに連絡をとったらどうなるだろう。かえでは自由意志で日本に飛んで帰ってきて、この危機を救おうとするだろう。
でも、諸外国は疑問に思う。
世界で2番目の英雄が対処できなくて、世界最強しか対処できない危機はいったいなんなのか。各国は探る。そして、その先にいるのが、水と氷の魔王、エリカなのだ。世界は紛糾する。魔王エリカを巡って。それはぼくがもっとも避けなければいけない事態だ。
「検査にはどれだけ時間がかかるんですか?」
「2日だ」
「それまで、待ってくれませんか。陰性だったら、ぼくがエリカを探します」
「だめだ、時間をロスすることはできない」
でも……! とぼくが身を乗り出そうとしたとき、前田本部長は首をふった。防護服ごしだから、それは本当にささやかな動きだったけれど、頑強な表明だった。
「すまない」
そう言うと、前田本部長は立ち上がった。となりにいるひとに目線を向けて、右手を振ると、ぼくの目の前に包を置いた。「防護服だ。この服を着れば、この建物
なかならばどこでも行っていい。ただ、外には出てはいけない。これ以上、感染のリスクと死者をだすことはできない」
死者。死者だって?
「まさか、竹下さんの容態は?」
「予断を許さん」
それを聞いて、少し安心した。最悪の事態ではなかった……じゃあ、だれが?
ぼくの思考を読んだのか、前田本部長は呟いた。
「あの、正体不明の男だ。ヤツがマオウ熱のインフルエンサーだった」




