第86回 アイノースメイド業務日誌:高俊熙という男
「よろしく、検討を願います」
「はい」
わたしはそうして受話器を置きました。記憶を辿ります。しかし、高俊熙とわたし、そしてお嬢様の人生に交わるような点がわかりません。
ですが、J国の首相・高俊熙はアイノースを指名していらっしゃる。それが不思議です。世界的コングロマリットのアイノースの本社はアメリカです。日本ではありません。もしJ国が企業に対して用向きがあるのなら、直接、あるいはアメリカと交渉をすれば良いことです。
その意図はなんでしょう。
J国は中国との対立を深めています。
中国は彼の国を国と認めておらず、今なお中国の一部であり、これはテロ行為であるとしています。
しかし、巨大国家中国ですら崩壊の危機に、大きなダメージを受け、「テロリストたちのテロ行為」に対処する余裕がないようです。幸い、J国の存在自体、国際的……いえ、「中国国内」では広く認知されているものではなく、当面の国家運営においては問題がないと考えているのでしょう。
とはいえ、J国の首相・高俊熙とアメリカの直接の交渉・あるいは取引は彼の国を国家として認める行為で、迂闊にはできないものでしょう。
それが日本である理由は、J国による日本人疎開者の拉致監禁疑惑。J国の公式発表では日本の疎開者は全員死亡が確認されたといいます。
しかし、全員という点においても、またその遺品もないことを考えると、容易に納得の行くものではありません。それでも、拉致監禁、あるいは最悪な事態とも安易に断定はしかねます。
日本政府としては、直接の交渉を試みています。そして、高俊熙との会談のその過程の中で、J国が条件として挙げたのがアイノース、そしてお嬢様リンカ・アイノースとの会談です。
お嬢様は3日後より、アメリカへと戻られます。戻られる予定はまだございません。しかし、日本政府としての公式な依頼となると、その様子は変わり、火急な対応が必要です。
先程の電話では、その要件には達していない。あくまでも日本政府の立場はエージェントとして、J国の首相・高俊熙の意向をアイノースに伝えたというだけです。まだわたしたちに選択の猶予がございます。
ですが、わたしには選択肢はありません。
高俊熙。
最悪の独裁者。
混迷の魔王による世界崩壊危機の時に、本国中心から離れた中国西部で、頻発をしたモンスターたちの襲来を防いだという中国の英雄です。
モンスターの返り血を浴びて食らいつくその姿から赤き狼の異名を持っていたと聞きます。
強力なカリスマ性と、強靭で無双の武力。中国古来の勇士のアイコンで、みるみる内に戦力を拡大していきました。そしてどこも太刀打ちのできなかった魔王軍に対しての強固な防御で、各国の避難民を受け入れると宣言をしました。
しかし、英傑の誉れはその趣を変えます。軍事による西部中国の支配の強化と魔王軍営からの解放を謳った高俊熙の指導はやがて「政策」として近隣に流布され、高俊熙は彼のグループが統治する地域一帯をさしてJ国の設立を宣言しました。
そこからの話は、ほとんど漏れ聞こえません。完全な統治、沈黙する組織。わずかにその統治から逃げ出してきた人たちからは、その国家の、歪な姿が垣間見られます。
そんな最悪の人間に、お嬢様を会わせられるわけがありません。
絶対に。




