幕間 世界平和とおうちカレー
換気扇からいいにおいがただよってきた。階段をとんとんとリズムよくのぼる。夕ぐれどきの晩ごはんのにおいほどいいものはない。それがカレーとかだったら、もうさいこうだ。ぼくは辛口が好みだ、どうでもいいけれど。
そのいいにおいがちかづき、さらに正体がまちがいなくカレーであったことと、だけどそれがじぶんの家からただよってきていることで、ぜんぶふきとんだ。そうじゃない? だって、だれもいないはずなんだよ? ちょーこわい。
ドアノブに手をかけてゆっくりとひねると、なんの抵抗もなくすんなりとひらいた。ここでいっておくと、ぼくはかぎを閉めたかどうかが相当に気になるタイプだ。かぎをかけわすれたんじゃないかと、1度もどることはざらです。短気なかえでからいちどおしりをけりあげられたこともある。だから9割9分9厘の確率でしめ忘れはない。ないってば。ただ、次回からもう一度余計に確認しよう、とぼくはつよくこころにちかった。
玄関には見おぼえのないくつがそろえられてある。女の子のくつだ。そろっているという点で、かえでとエリカじゃない。いっそう謎がふかまる。あのふたりだったら、かぎを持っていてもおかしくない。
音をたてずにドアをしめ、そーっと部屋へとはいる。カレーのとんでもなくいいにおいとともに、かろやかなはな歌が聞こえてきた。終末戦争前にはやった曲だ。曲名わすれたけど、サビぐらいは歌える。
玄関から直線上にはトイレと風呂場がつらなり、その先の右手がキッチンだ。からだを壁にはりつけ、台所へ顔をのぞかせた。
そこにいたのは……。
まじ、だれ?
ほんとうに見覚えがないんですけど。
そのひとは背中をむけてしゃがいんでいたから、正体がわからなかったのかもしれない。髪を後ろでまとめ上げ、がさがざとビニル袋をあさっている。そのシャツがめくれあがり、ジーンズとの隙間から白いものがのぞいてみえる。
ぼくは息をのんだ。いや、緊張で。けっしてそんなアレなわけじゃなくって。ほんとうに。
だけど、その正体はようやく判明する。
女の子はすっくと立ち上がり、なにかの梱包を爪ではがしたのか、ぴりぴりという音がする。「よしっ」と満足げにひとりごちて、くるりと振りむき、ぼくと目があって、「ひゃあっ!」悲鳴をあげた。
それは、片桐メイだった。
手洗いうがいを命じられ、ついでおふろにはいることをてきぱきと指示された。ほんとうに行動に「てきぱき」という擬音がつきそうな感じで。だから、なんでメイがわが家でカレーを作っているのかを聞く間もなかった。脱衣所には着替えが下着つきでそろえられている。うわ、パンツは超絶はずかしいんだけど。
湯船につかって、あたまのなかはハテナで満載だ。
まさかお背中ながしましょうか、とはいってくるんじゃないかって、マンガのようなシチュエーションもあわせて妄想してしまったけれど、男の子ならだれもせめられない。そうでしょう?
だから、
「すみません、ほんとうはお背中をながしにいきたかったんですけど」
と夕食の席でメイにいわれて、ぼくはのんでいたみずをふき出しそうになった。
「じょうだんです」
「まじでやめて」
「でもセオリーかなと。男の子はそういうのが好きと学びました」
「そんなセオリーを学んで踏襲しなくていいから」
うふふ、残念です、とメイはわらった。
この子の考えていること、さっぱりつかめません。
夕食はチキンカレーに豪勢なサラダで、めちゃくちゃおいしかった。
ぼくが絶賛すると目をぱちくりとさせ、市販のカレールーと市販のドレッシングですよとわらっていった。それでもほんのちょっとうれしさがかくせてなかったことは、にぶいぼくでもわかった。
「でも、なんでメイがうちで晩ごはんを?」
あらかた食べおわって、ぼくは思いだしたようにたずねた。
「お礼です。現世界のときの」
「お礼って、そんなの気にしなくても」
「って、ユウタさんならいうとおもってました。まあ、うそじゃないですけど、それが目的じゃありません」
「じゃあ、なんで?」
「うーん。なんとなく?」
なんとなくって。それで、家に入れるの? メイにぼくの家のかぎをわたした記憶はない。だから計画的じゃないとそもそも無理じゃない?
「ひろったんです」
「え、うちのかぎを?」
「いえ、エリカさんを。みちばたで」
「は?」
魔王とおそれられた水と氷の魔女が、落としもののようにあつかわれた。
……つまり、こういう次第らしい。
メイがこのマンションに向かっているとき、ものかげにひとの気配を感じてのぞいてみると、暑さで目をまわしたエリカがいた。あわてて担ぎ上げて、エリカを部屋におくった(エリカも小柄だけど、おなじぐらいのメイがエレベーターもこわれているなか、よく運んだな)。何かひやすものをさがしたけれどまったくなく(ここでぼくは、こんどエリカの生活用品をきっちりと用意しようとこころにちかった)、エリカからとなりのぼくの部屋のかぎをうけとり、氷やらなんやらで介護した……。
「で」
とメイがちらりとキッチンへ視線をむけた。「勝手にはいって、あるものをつかってしまいましたので、つかったものの買い替えをしようとおもっていたんですが……このキッチン、家族と暮らしていたときのものとそっくりだったんです」
それでひさびさに、家族と食べていたごはんをつくりたいと思ったらしい。
「勝手につかっちゃって、ごめんなさい」
「こんなうまいごはん食べられたし、むしろ、エリカのことをたすけてくれてありがとうな」
「いいえ、でも、われながら、うまく家の味を再現できました。市販品ですから、むずかしくないですが」
「メイの家族って……」
とぼくはうかつにもたずねてしまった。
メイはぱちっとウィンクして、
「ないしょです」
といらずらめかしてこたえた。
「……でもいけませんねー。おとなりにかわいい女の子。かぎまでわたしている。そして、エリカのことをたすけてくれてありがとう、ですか。お嬢さまがきいたら、1週間はスーパーご機嫌ななめなお嬢さまのめんどうをみることになっちゃいます。面倒くさくなったら、ユウタさんのところにお嬢さまをおくりますね」
無制限長広舌があたまをよぎる。かんべんしてください。
「……それで?」
「それで?」
「なにか用があって、来たんじゃないんだっけ?」
「ああ、はい。でもそれはすみました」
「すんだ?」
「きょう、わたしお休みだったんですよ」
そういって、じぶんの服をつまんでみせた。たしかにリンカのメイドをしているときは、外でもメイド服だ。私服では、メイだとぜんぜん気づかなかったのはそのせいだろう。
で、メイはそれっきりことばを切ってニコニコをわらった。
えーっと、それではよくわかんないんですが。
そういうと、メイはやれやれ、とばかりにため息をついて、そしてまた、くるりと表情を変えて満面の笑顔をうかべた。
「おやすみの日に、あこがれのひとに会いにくるって、とってもだいじな用事だと思いませんか?」