第63回 世界平和と忘れられた虚報
待っているあいだに、ぼくはナナミさんへ電話をかけた。電子の先のナナミさんはぼくの話を聞いておどろいたようにしばらく二の句をつげなかったけれど、それが事実なら、と復興対策本部の協力を約束してくれた。
つぎの一手は、ぼくの手にかかる。
通話を終了させると、ぼくはディスプレイに映る時間をみた。やくそくの時間まであと5分ちょっと。
店のなかはあけみさんが手配をしてくれたのだろう、店主さんのほかはいなかった。入り口にはクローズのプレートがかかげられている。店のなかにはかすかなあかりだけだった。視界が暗闇によって制限をされると、鼻や耳に意識が向く。コーヒーのすごくいい香りがする。
そういえば、前に来たときにはばたばたしていたから、その味を楽しむことができなかった。あけみさんは秘密のはなしをするときはこの店をよく使っているようだけれど、それはけっしてマスターと懇意にしているだけというわけではないようだ。この美味しいコーヒーの味に魅せられているからだろう。ぼくにはまだコーヒーの味がよく分かるほど舌がこえてはいないけれど、それでもひとくち含んだ香りには圧倒されるぐらいのおいしさがあった。
コーヒーはすっかり疲れたあたまのなかを苦味で動かしてくれる。ぼくはモバイル端末に保存をしていた画像フォルダを開いて、いくつかの写真を拡大縮小して、こまかいところを確認した。そうして、ぼくは確信したんだ。たぶん。
そしてそれはあんまり確信したくなかったことだった。
ディスプレイの数字が約束の時間に変わると同時に、店のドアが開いた。来客を知らせるベルが店のなかにひびき、その音とともに、男のひとと、あけみさんが入ってきた。あけみさんはぼくのすがたをみとめると、男のひとを誘導した。例の、あの記者だ。
記者はひどく落ち着きがなかった。その様子もおかしい。ひどく強がっているような様子をみせながら、あせっているような、そしてぼくを怖がっているようにもみえた。視線があちらこちらに飛んで行って、あけみさんにうながされるまで、そこに席があるのがわからないような様子だった。
「おいそがしいところ、お越しいただいてありがとうございます」
ぼくが頭を下げると、つられて記者も頭を下げた。
「まさか、きみから会いたいっていってくるとは思わなかったよ。でも、おれに直接連絡をくれればいいのに、あけみ経由なんてね」
「とつぜん連絡をしたら、出てくれないと思ったんです。それにお互い信頼できるひとを間においたほうが、安心して話できますよね」
「信頼」
記者はひっひっひ、とひきつるようにわらった。「信頼っていい言葉だな、なあ、あけみ」
あけみさんはその言葉を取り合わなかった。ぼくに視線を向け、ちいさくうなずく。
彼の変なあおりを受けるためにここに来てもらったわけじゃない。
目的のためにはぼくのペースに乗ってもらう必要がある。
「雑誌は明日発売ですね、今日の夜には各社に出回るんですよね?」
「ああ、そうだ。きっと騒ぎになる。なんせ、うちだけの独占スクープだからな」
「でも世間ではそんな事件より、アイノースのほうですね。ぼくもそっちが気になります」
アイノースという言葉にびくっと震えた。
彼にとって、スクープが正しいかどうかは関係ない。
売れるか、売れないか。そうしていまは、いちばん売れるネタが眼前に横たわっているのに、彼らはそれにつまづいてしまっているのだ。
「ひっひっひ、なんだ、世界の英雄様が揺さぶりか? ああ? 残念だけどな、そんなんじゃあおれはなんにも思わねえ。それに、もう本は出回るんだ。いまさらおどされようと、おれが殺されようとそれは止められねえよ」
「好きにすればいいですよ。別に止めようとも思わないですし。正直、どうでもいい」
「なんだと?」
「どうでもいいんです。興味もない。世間もそう評価します。どうでもいい。興味ない」
がたんっ、と記者が立ち上がる。からだをぐいっと前につんのめらせ、つばを飛ばしながら叫んだ。
「ふざけるな! おれのスクープに世間は飛びつくんだ! げ、現世界のでまかせなんかにあおられやがって、無能どもが!」
あけみさんがあわてて記者の体をつかんで抑えつけようとするけれど、ぼくもかまわず、身を乗り出した。
「あなたが無能とさげすむひとたちに、あなたは見向きもされないんです。あなたは日の当たらないところで、あなたからみたら無能なひとたちを呪いながらこれから生きていくんです」
ぼくのとつぜんの発言に、いちばん驚いたのはあけみさんだったようだ。目をしろくろさせながら、どすんと、ソファに体をしずめた。いったいなにがおきているの? そんな様子だった。
記者の目も最初はらんらんと輝きを見せていたけれど、それはやがて生気をすいとられたように、暗く沈んでいった。
しばらくすると、怒りにぜんぶ持っていかれたのか、からだからちからが消失したように、崩れるようにソファへ座り込んだ。
意外にも、記者が燃え尽きるのは早かった。ぼくなんかのやすい挑発に乗ってこころを乱してくれるかは賭けだったけれど、よっぽど彼は憔悴していたんだろう。ぶつぶつとひとりごとをつぶやきながら、てのひらで目をおおってしまった。
なんでこのタイミングなんだよ。
なんでうまくいかねえんだよ、くそ、くそが。
素地は完ぺきだった。
ここしかない。
「ところで今日ここに呼んだのは、そんなどうでもいい話をするためじゃないんです」
「……なんだって?」
「大スクープを差し上げますよ」
いよいよ、あけみさんの顔が百面相のようそうを見せ始めた。普段から表情はゆたかなひとだけれど、今日はいつも以上にバリエーションがたくさん見られた。
「ユータ、あんたなにゆうてんのか、わかっとるんか?」
「十二分に」
ぼくはぐいっと体を傾けた。記者のひとの目を覗き込むように、もういちど、いった。
「どうですか。大スクープです」
「罠にはめようって寸法か? それには乗らん」
「聞くきかないは自由です。ぼくは他の出版社に持っていくだけですから。では、ご足労ありがとうございました」
ぼくは手元の伝票を取ろうとすると、あけみさんが素早くそれを掴み取った。
「ごめんなさい、くわしく聞かせて頂戴」
「おい、あけみ」
「うるさい。あんたに選択の余地があるの?」
記者は口元を歪めて黙り込んだ。
あけみさんはぼくに目配せをした。さあ、話して。ぼくはうなずいた。その前に、だ。
「条件があります。撮った写真をください」
「写真? ネガでも欲しいってか? あいにくだな、推理小説の読み過ぎだ、いまじゃあネガなんてない。データはいくらだってコピーできるんだぜ?」
「ネガなんていりません。欲しいのは別の写真です」
記者の顔に困惑が浮かぶ。「別の写真だと?」
「あなたがあの日撮影した、別の写真です」
記者の目に、するどいひかりがもどった。
「おまえ、探偵の素質があるんじゃないか?」
「探偵の素質なんてないですよ。ただ、合理的な理由を探していたその結果です」
ぼくはホームズになんてなれない。ホームズは別にいる。ぼくはワトソン博士でしかないんだ。ホームズの活躍を記録する良き友人で、ホームズの天才的な推理力にびっくりするだけのメンバーなんだ。
あけみさんは慌てて、「いったい何の話をしているんや。脇に追いやらんと説明して」
「オセロの話です」
「オセロ?」
「一手を打てばかならず色が変わりますよね。ただ、今回の一手でどこまで変わるかはわからないのですが、決してちいさな範囲ではないと思います」