第131回 アイノースメイド業務日誌:パン屋襲撃
公安警察の質も低下したものです、とひとりごちてみます。
国際的なテロリストのキャンプ地、そこでおこった不用意な殺人事件におたおたしてしまい、大事なだいじな容疑者をぽつねんとおいていくなんて。もちろん、容疑者とはわたしのことです。逃げられたりしたらどうするのです。護衛のかたは大目玉ですよ。
あ、ちなみにわたしは逃げたりしません。
メイドたるもの、ドジっ子を演じるときはともかく、慌てることなく、粛々と主のために働くものですから。メイドの鏡といっていいんですよ。日々、くもりひとつなく磨きまくっていますから。
隙をみて逃げたほうが利にかなうようであれば逃げます。ですが、わたしが公安にいるのは、日本政府とJ国がリンカさまと佐倉ユウタさんの邪魔をしないための防壁の役目があるからです。ほら、囲碁とか将棋とかでもあるじゃないですか、いやーなところに置いてある碁石や歩。こいつが効いているから迂闊に攻め込めないっていう、アレです。ああいうの、わたし好きなんです。アレみると、がんばれって応援したくなります。
それを見越してわたしを放置しているなら敵も奸智に長けていますが、しばらくして、息を絶え絶えに走ってきて、わたしをみて安心した様子からして、そんなことはなさそうです。
「行きましょうか」
そういって、わたしがすたすたと歩き出すと、急に顔をきりっとさせて撫然としてついてきます。
最後にちらりと現場に目をやります。
公安警察の刑事さんを待っているあいだ、鑑識さんたちや刑事さんたちの現場検証などが行われているのを見ていました。ドラマさながらです。
そのドラマの役割では、わたしは重要な目撃者です。聴取を受け、任意同行による事情聴取をしたそうでしたけど、
「公安警察のかたを待っています」
というと、ものすごく奇異なものを見る目と、憤懣やる方ないといった複雑な横目をちょうだいし、やっぱり放置されました。
どうやら警察の質も低下しているようです。もっとぐいぐいと聞くべきでした。
わたしは逃げたりはしませんでしたが、おとなしく待っていたわけではありません。三雲外交官を壁にもたれさせると、最初の光景の記憶を呼び、現場を見た人の顔を思い出します。そのひとたちは顔順が真壁先生を撃った瞬間と、その直前までをみていた可能性があります。
記憶をもとにあたりを見渡します。数人がヒットしましたが、ちゃんと答えられたひとはひとりだけでした。入院患者で、リハビリのために中庭で運動をしていたところだったようです。
証言はこうでした。
真壁先生と顔順はふたりで病院から出てきた。
先生の顔は蒼白で、松葉杖をつきながら、びくびく後ろの顔順を振り向き、その都度バランスを崩していた。
顔順はにやにやと笑い、すばやく何かを言いながら、先生をせっついていた。
顔順は壁側の左手で、腰になにかをかまえていた。
ふたりはそこから現場となった場所(目撃地点から50メートルほど先)で立ち止まり、会話をしていた。
時々先生が悲鳴じみた声をあげていた。
何かが進展している様子はなく、先生は焦っていたけれど、顔順の方は何かを待っていたようだった。
目撃したそのひとが目をそらしていたとき、悲鳴と、ずどんという音が聞こえ、真壁先生が地面にくずれるところを見た。
証言を正とすると、顔順が真壁先生を殺すために連れ出したようです。兵士のケンカの末の殺害とは違います。顔順が待っていたのはタイミング……人、もしくは時間……でしょう。
時間。
そういえば、CJはわたしたちとの会談のとき、しきりに時間を気にしていました。CJは知っていたのでしょうか、このできごとを?
次いで、CJと会談で使われたテントに戻ってきました。残念なことに、入り口はひとりの兵士が無表情に立ってふさいでいました。すくなくとも、つまらなそうな、投げやりな仕事ではありません。出し抜くことはできるでしょう。ですが、公安さんのうっかりタイムのさなかに実行するのはすこしばかり手面倒です。あきらめましょう。
こうしてわたしは公安警察のかたをのほほんとした面持ちで待ちながら、頭のなかはコマネズミのが走りまわっていました。仮説が浮かんでは消えて、否定も断定もできないものがいくつかかたまりとなってでてきました。
これをどなたに託しましょう?
すえた匂いのするくるまに揺られながら……そしてじゃっかん気持ち悪くなってきましたが……わたしは公安警察を出し抜く方法を練っていました。外はすでに暗闇です。夏の夜はまるで濃い水ようかんのように、ねっとりと空気がよどんでいました。
そのとき、厚いウインドウ越しに消防のサイレンが聞こえてきました。
火事。
わたしはからだをおこし、窓のそとをながめました。
戦前はこのあたり一帯も高いビルが立ち並んでいたのが容易に想像できるガレキの山がまだ散逸しています。そんな防壁では覗き見れなかったかもしれませんが、空のひろがる窓ごしの景色に、もくもくと吹き上がる黒煙がみえました。くるまの向かうさきです。
公安の刑事さんが、わたしの姿をみとがめて、「おい」とすごんでみせますが、おっちょこちょいにすごまれても怖くもありません。かまわず目を向けます。
やがて煙のあがる元がフロントガラスの先にかわると、消防車が2台路肩に止まり、消火活動をつづけています。その脇で、警察官が複数人の子供を押さえつけているのがみえました。
「止めてください」
「は?」
「止めてください、と申しております」
「ばかなことを。もうじき着く。おとなしくしていてくれ」
「さっきは優しいことに、わたしにひとりの時間を提供してくださったじゃありませんか、秘密に」
するどく舌打ちがします。もう、お行儀よくありませんね。本当に質が落ちてしまったと嘆かざるをえません。
「もちろん、秘密なのはわかっています。でも、わたし、器用じゃありませんから秘密にするには黙るしかありません……ああ、でも、黙りこんでみたはいいものの、ぴたりと口を閉ざしてしまうかもしれません」
じろり、とバックミラーごしににらみつけられましたが、鉄仮面はそうそうゆるぎません。
「いちばんは忘れることですけど、もういっかい、優しいところをみせられたら、感動のあまり、むかしのことを忘れてしまうかもしれません」
くそガキが、とくちびるの動くのがみえましたが、ま、それもみなかったことにしてあげましょう。
くるまが消防車の後ろにぴたりととまります。
「さっきのことと、いまのことは忘れろ。いいな?」
「あら、忘れるってなにをですか? さっぱり記憶にありません」
くるまを降ります。
すでに匂い、そして音があたりに立ちこめています。囚われの身にはハンカチのようなものの用意はありません。モノが焼ける煙を避けるために、袖で口と鼻をおおって近づきます。
子供たちは腕を振り解いて、火災現場に向かおうとしていました……いえ、訂正します。子供ではなくて、高校生くらい。男の子2人と女の子です。
「離せ! 離せよ!」
そう叫ぶのは、地面に膝をついて身をよじっている高校生でした。
燃えているのはパン屋さんです。入り口のドアから激しく火炎の舌がなめずり、唾液のあとのように煤の黒い跡がのこります。煙は今を盛りとふたてに分かれ、空へとその腕を突き上げます。
危ない、そっちにいくな! と高校生を押しとどめるひとたちは、ですが、困惑しているようです。
パン屋さんの入るビルは4階建てです。
知り合いが逃げ遅れているひとがいるのでしょうか。高校生たちは必死です。燃え上がる炎のなかに飛び込んでの救出劇はドラマチックです。ですが、すでに消防車は来ています。プロに任せるほうがよいのですが……ただ、妙なことに、はしごはでていません。ひとではないのでしょうか。それならペットでしょうか?
ですが、もっと妙なことに、高校生たちの視線は下に向いています。
1階……いえ、もっと下……地面です。
「消すな!」
彼は叫びました。「消すな、消すな! あと少しなんだ、あと、少し! やめろ、消すな!」
「黙れ! お前たち、何したかわかってんのか!? 放火だぞ、お前、放火!」
「ヤバいんだよ! いま殺さなくちゃ……」
その時、彼の視線は何かを捉え、ぎゃあああ! と叫びをあげました。その声に周囲のひとたちが体を震わせます。
「み、見えないのかよ!」
「なにが!」
「ネズミだ!」
そのとたん、パン屋を覆う火炎と煙の隙間から爆ぜるように灰色の生命体が八方へと駆け抜けていきます。まるまるした大きなネズミの集団でした。あまりの大量に、まるで飛びかかってくるような錯覚すらあり、その場の誰もが身をよじって防御します。
高校生たちはひきとめられていた腕から逃れ、必死にネズミたちを腕で払い、押し戻そうとします。女の子が消防士のホースをぐいっと引っ張り、大群に放水をしようとしました。
ですが、効果はほとんどありません。まるまるとしていても灰色の害獣はすばやく、火に舐め尽くされた棲家からの脱出はあっという間に完了してしまったようです。
鎮火には、それからあまり時間を要しませんでした。
3人の高校生たちは身を寄せ合い、うなだれていました。それを囲うように5人のおまわりさんが見下ろしています。わたしは信じられない思いでしたが、彼らが放火犯なのでしょうか。会話の断片が喧騒にまぎれて聞こえてきます。放火……パン屋襲撃……ネズミ……関南高校……おまえたちがなにもしないから……。
わたしは近づきます。
高校生のひとりがわたしにちらっと視線をなげかけますが、ふたたび目は怒りを浮かべて目の前の警察官にそそがれます。
「……だから、いってんだろ。おれたちは街を見回って、ネズミの棲家をみつけているんだ!」
「ネズミを殺すために火をつけたって? そんなこと、信じられるか。万が一ネズミを駆除するなら、行政や、直接そのパン屋にいえばいいだろう?」
「いいました!」
女の子が悲鳴をあげるように、叫んだ。「何度もなんども! でもだれも相手してくれません! パン屋さんにもいいました、でも、お店にネズミがでるなんて言いがかりだって言って追い返されました」
「あいてにしてくれなかったから、火をつけたのか」
「見ただろう、あの大群!」
男の子が声をはりあげます。おまわりさんたちも、さっきの光景が思い出されたのでしょう、ぐっと押し黙ります。
「あいつら、逃げ出して別の群れと合流するに決まっている!」
「別の群れだと?」
おまわりさんが聞き咎めます。
男の子は、しまったとばかりに口をつむぎます。
「話によれば、お前らには逃げた仲間がいるな? そいつらはどこだ。そいつらがその別の群れを狙って放火するつもりじゃないだろうな!」
「おまわりさん、信じて」
女の子がおまわりさんにすがりつきます。
「こうなったら、頼れるのはおまわりさんたちだけなの! 信じて! あのネズミは本当にヤバいの!」
「何がだ」
「病気だよ」
男の子があざけるようにいいます。「ネズミの群れを中心に、病が広まるんだ」
「病気?」
ああ。
また、男の子がいいます。
マオウ熱さ。