第119回 世界平和と佐倉ユウタにうってつけの冒険②
建物をでる。そのさきは一段と自然味あふれる道すじで……というか、道なんてどこにもない。草木をかきわけ、四方八方でさえずる鳥たちのこえに方向感覚をうばわれ、ぼくらはヒゲづらのあとを付いて行った。
リンカはなんの苦もなく、ひょいひょいと山みちをすすむんだ。あらためておもうけど、ほんとうにお嬢さまなのかな? てっきり建物に残って「いってらっしゃい」と安楽椅子を決め込むと思ったのだけど。まあ、それならそもそも中国にも来ないか。
リンカ、ヒゲづら、ナカムラさん、そしてぼくの4人が「佐倉ユウタにうってつけ」山岳行のメンバーだった。
リンカの同行をナカムラさんとタナカさんは大反対した。コンティニューなんて冗談がもれるぐらいのやばい道だ。ぼくは魔法も、飛ぶこともできない。滑落するリンカをたすけることなんてできないだろう。初心者のぼくが滑落する可能性のほうがむしろおおきい。
それでもがんとしてゆずらなかったのは、お嬢様の過信とわがままだったわけではなかったのは、ぼくやナカムラさんを後目にのぼるすがたをみて得心した。
山は最初、おだやかな斜面がだらだらとつづいていただけだったけれど、ある地点をさかいに、眠気をふるいおとして身体を起こしたように角度がつく。それに合わせて緑の量もふえる。それでも木々をかき分けるおとがすくないのは、ヒゲづらがみちをえらんでいるからだろう。おおきくうかいをすることもある。敵地へとすすんでいくのだから、万全を期すのはだいじだ。
出発して3時間たったころ、あたりはうすぐらくなり、足元もおぼつかなくなりつつある。
ふいに先をゆくヒゲづらが足をとめてへいげいすると、ちかくにいたリンカに耳打った。
ぼくが歩み寄るとリンカは押し殺したこえで、「音」とつたえた。
耳をそばたてる。木々がさわさわと風にこすれる音、森に棲息する鳥や生物の音に紛れ、異音が鼓膜をかすかにふるわせていることに気づいた。
ヒゲづらが手のらを平行にし、ゆっくりと下げる。伏せろ。ぼくらはあたりの草木に身を紛らせるように身体をふした。
生いしげる樹齢をかさねた樹木の葉からモザイクにのぞく空を、くろい物体がバババババ、と不快な音をたててあらわれた。小型無人機だ。ヒゲづらの男のひとの顔に影がうかぶ。無人機はしばらく周辺をクルクルと舞うとゆっくりとその場をはなれていった。
ヒゲづらが顔をリンカのほうへ向けると、するどくみじかくつぶやく。リンカがそれをこれまたみじかく切り捨てる。ことばはわからなくても雰囲気でわかる。撤退すべきだ。ダメよ。ふたりはそういっているのだろう。しばらく男のひとはリンカをねめつけていた。ナカムラさんに目をてんじると、またごにょごにょとつたえる。ナカムラさんはまぶたをぎゅっとつむるとリンカを説き伏せようと声をあげるが、世界の女王は見向きもしない。
ヒゲづらはどうやらアイノースのにんげんではなさそうだ。中国における協力者であり、線引きは彼らがにぎっている。
ナカムラさんがヒゲづらとふたたび交渉をして、男が不承不承におなじことばをくりかえした後に道をすすみはじめた。だけどこんどの歩調はさっきよりもずいぶんとゆっくりと、慎重に。
小型無人機の音は聞こえない。あれはわざとおおきな音を立てていた。警告だ、ここらへんいったいは監視下にあることをわからせるための。だけどさっきのヒゲづらのひとの反応をみると、それは想定していなかったようだ。
J国はとつぜん警戒をつよめた。日本との交渉が進みつつある。
かなり強硬な交渉だ。優位性はあるが、優位性がありすぎると交渉相手は思わぬ行動にでてもおかしくない。つまり、裏工作である。自分たちがそうだから、相手もそうでるだろうという予測だ。そしてそれはいちぶで当たっている。日本という国じゃないというだけだけど。
しばらく歩きつづけると角度はぐいぐいとせりあがり、緑はあるところを境に減り始め、ぼくらの眼前に切り立った崖がひろがるその200メートルと前のあたりで身をひそめて歩けるスペースはほとんどなくなった。
とたんーー、
ごうっ、
と強い風がぼくらのからだをたしかめるように……いや、押しもどすようになぐりすぎた。よしておくがいいさ、いのちが惜しければ戻る選択肢はうしろに広大にひろがっている。あるいは、あたらしい可能性だってあるかもしらん。よしておくがいいさ。
空が木々のすきまからのぞく。
山の背にひそんでいたのか、黒々とした雲がたれこめている。山岳行にはまったくうってつけではない日和だ。
ヒゲづらが手ばやく荷物をひもとき、ロープ、フックをとりだす。
人数分のグローブをわたす。てのひらにすべり止めがついている。すべらずロープをしっかりとにぎれるように。
ヒゲづらがアイテムをにぎると目の前の崖でレクチャーがはじまる……といっても簡単なものだ、あとは実地でなれろということだ。ビデオゲームの説明書をろくすっぽ読まないぼくにはぴったりです。初見でミスしたらゲームオーバー、いっかんのおしまい。死にゲーは好きだけど、セーブもコンティニューもないんじゃ上達しようがない。きほん、ゲームが下手なんだ。
ヒゲづら、リンカ、ぼく、ナカムラさんが登攀の順だ。後から知ったけれどナカムラさんはロッククライミング界では知られているひとなんだって。
ヒゲづらが岩肌をつかむ。
最初は感触を確かめるようにゆったりとしていたけど、すぐにリズムをきざむようにスイスイとすすむ。腰のロープを岩にとおす。目をこらすと、ずいしょに金具がみえる。ハーケンというらしい。10メートルほどの位置にあるすきまに身をおくのをみとめると、ナカムラさんがロープの感触を確かめる。しっかりと岩肌につきささっている。
リンカはナカムラさんからクライミングロープを受け取ると、ためつすがめつロープの行先を見つめて、足と手をかける。ヒゲづらほどではないけれど、しなやかな手足がむだのないゴムのようにのびてはちぢんですすむ。
ついでぼく、そしてしんがりがナカムラさんだ。
ヒゲづらはぼくらの登り方を確認していたようで、手ばやく登り方の修正ポイントを伝え(ぼくへのコメントがいちばん多かった)、ふとい指で空をさした。
ごつごつとした岩肌のはるか先はきりがかっている。
あそこを目指す。
そういっているようだけど、目標がさっぱりわからない。
無名の山だ。
周囲とつらなる、空からみればなんてことのない山なんだろう。
でも、ヒゲづらの指さす先は空をつきやぶって天国までつづく道のように思えた。まあ、真っ逆さまに落ちていっても天国への道だけど。
真っ直ぐは登れない。
ふとい指が蛇行して岩肌をなぞる。
ここから左上に。
そこから右上。
直進。
そしてまた右上。
指がまるでコンダクターの指揮棒のようになめらかに動いていく。
せり立つ岩、崩れやすいルート、遠望から見つかりやすい筋、それらをしりぞけて山頂を目指す。
行けるか?
ヒゲづらは今度はリンカに目を向けた。
戻るなら今だ。
ただの登山行じゃない。ついた先が問題だ。ザックのなかには登山のアイテムだけではなく、武器も備えてある。1キログラムの防衛武器。それでも登攀にはそぐわない。、命取りになる重さだ。
のぼらねばならない、山を。
たたかわねばならない、J国と。
うばわなければならない、マオウ熱のワクチンを。
そして、戻らねばならない、
帰らなくてはならない、
日本へ。
バケモノとおそれられたリンカでも山の前ではただの人間だ。巨万の富を持っていようが、山で持っていけるのは身に収まる荷だけだ。ちからを試される。
リンカは戻らなかった。
ヒゲづらはいった。
登れ、虫のように。
そうして、岩肌に右手をかけた。