表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

わたしの部屋にはゆうれいさんがいる。

作者: 藍染三月

 会いたくても会えない人が、私にはいる。話せるだけでよかったのだけれど、今となっては話すことすら出来ない。彼はもう、彼ではなくなってしまったから。


 それでも、彼はここにいる。いつでも、ずっと、私の傍にいてくれている。


 私は胸に手を当てて、瞼を閉じた。眠りに落ちようとしている意識の中、きっと届くことはないのであろう声を、ぽつりと零した。


「ねえ――。そばに、いるよね。私……一人なんかじゃ、ないよね」


          ◆


 中学二年生の冬。高校について考え始めなければいけない時期だ。私は制服が可愛いからという理由だけで志望校を既に決めたのだが、今の成績では確実に合格なんて出来ない。


 期末テスト前日で机に向かっている私だけれど、開かれたノートは真っ白だった。だって、勉強をする気なんて起きない。何も楽しくないのだから。それに可愛い制服の高校に行けたとして、楽しい高校生活が待っているとは限らないのだ。だとしたら、頑張って勉強をしてまで高校に行く意味などあるのだろうか。


「はあ……」


 机に頬をくっつけて、私はとりあえず鉛筆を握った。意味もなく、ノートに同じ文字を書いていく。漢字の勉強をしている人のノートのように見えなくも無い。


 一行にびっしり書かれた『暇』の文字。このノートを先生が見たら真面目に勉強しなさいと怒ることだろう。私だって、頭の中では真面目にやらなければ意味がないことくらい分かっている。やらなければという思いが生むものイコールやる気、とは限らないのだ。


 目を閉じると簡単に眠れそうだった。勉強は明日の休み時間でいいかな、なんて甘い気持ちで、私はもうそのまま瞼を閉じた。




 目を開けて机の上に置かれた時計を見ると、十分ほどしか経っていなかった。勉強しろ、という神からのお告げかもしれない。一時間くらい頑張ってみようと思いノートを見ると、書いた覚えのない文字が書かれている。暇と書かれた行の次の行に、少し大人っぽい文字が。


『暇なら日記でも書いてみたらどうかな。それとも、ぼくが話し相手になろうか?』


 きょとん、としてから、私は部屋を見回す。当然、誰もいない。母は今家にいないから、私しかいないはずだ。だとすると、これは心霊現象というものだろうか。


 なんだか楽しくなってきて、私はその次の行に返事を書く。


『あなただれ? ゆうれいさん? お名前は?』


 いつ、どうやってゆうれいさんが返事をくれるのか気になって、わくわくしながらじっとノートを見つめた。


 しかし、なかなか書かれない。


 ……まだ、書かれない。


 さすがに待ちきれなくなって、待っている間勉強をすることにした。別のノートを出して、そこに計算式を書いていく。視線が落ち着かないのは、返事はまだかと気になって仕方がないからだ。


 意味の分からない数式とにらみ合っていると、玄関の扉が音を立てた。母が帰ってきたのだろう。私の様子を見るためか、帰宅した母が部屋の扉を開けて顔を覗かせた。私は鉛筆を置いて、母に微笑む。


「おかえりなさい」



          *


「……ん」


 気が付くと、もう朝だった。勉強は脳を必要以上に疲れさせるものだと思う。気付かないうちに眠ってしまったということは、私は充分勉強をしたということ、と思いたい。これでテストもちゃんと解ければいいのだけれど、湧いてくるのは不安ばかりだ。


 学校に行く準備をしなければならない時間だから、私は机の上のものを片付けて――ふと、返事が書かれていることに気が付いた。食いつくように、持ち上げたノートに顔を寄せる。


『名前は君の好きなように呼んで欲しい。それから、何でも話して欲しいな。ぼくも君と同じで、退屈だから』


 彼は、名前がないのだろうか。それとも、名乗りたくないのだろうか。私にネーミングセンスというものは勿論無くて、仕方がないから彼を「ゆうれいさん」と呼ぶことにする。


 ゆうれいさんはきっとこの部屋に住み着いているのだろうから、返事を書いたノートをそこに置いたままにして部屋を出た。憂鬱な気分に任せて口を開くと、ため息が漏れる。学校。ああ、なんて嫌な響きなのだろう。



          *


 ――じゃあ、ゆうれいさんって呼ぶね。私は双葉ふたばです。何を話すか、少し悩むなあ。私、学校って嫌いなの。ゆうれいさんは、学校好きだった? あ、そういえばゆうれいさんってどうしてここに住み着いているの?


『ぼくは学校、好きでも嫌いでもない、かな。君はどうして学校が嫌いなの?

 住み着いている理由、か……。君が寂しそうだったから、ってことにしておいてくれる?』


 憂鬱だった気分は、家に帰ってゆうれいさんの返事を読むと消えていった。


 正直、ぼうっとしていたせいで自分の部屋に着いたことにすらすぐ気がつけなかった。寝ぼけていたのか、帰ってきたというはっきりした記憶は無い。ノートを目の前にしてからすぐにはっとするなんて、私は自分で思っている以上に彼からの返事を楽しみにしていたのかもしれない。


 話し相手が出来たことも嬉しいけれど、なにより、悩みを話せるかもしれない相手が出来たことが、とても嬉しい。私が抱えているのは下らない悩みかも知れないが、その下らない小さなことは積み重なって私の気持ちを暗くし続けていたから。


 ゆうれいさんの文を読んでいると、ゆうれいさんはこんな人だろうかとイメージが作られていく。きっと、優しい人だ。字が、どこか優しく私を受け入れてくれている。


 私は下らない悩みを、胸の奥からノートに落としていった。


『教室に、居場所がないの。友達がいない。話し相手も話せる人も、一人もいない。そんな孤独な中、笑ってる子達が羨ましくなるし、怖くなるから。あそこにいると、息が苦しくなるの。いじめられているわけじゃないから親にも相談出来ないし。毎日あんなところに行かなきゃならないのが、ずっと一人でいなきゃいけないのが、辛いよ』


 書いていると、不思議と涙が出てきた。そんな自分があまりに馬鹿馬鹿しいから、情けなさ過ぎて涙が更に溢れる。ぼろぼろとノートに染みを作りながら、私はそれでも書き続けた。書き終えたら、少しはすっきりすると思ったのだ。溜め込んだものを書くことで、ノートにこの苦痛も移せるような気がした。


『分かってるの、私がダメなんだって。でもね、変わることなんて出来ないよ。私、こういう人間だから、今がどんなに嫌でも、私、変われない。もう、あそこにいたくない。でも、行かなきゃ』


 袖で目を拭った。これ以上は、書かなかった。これ以上書いたところで、私がどれほど駄目な人間か伝えるだけになる。ゆうれいさんに見放されてしまうことが、少しだけ怖かった。せっかく話し相手になってくれた人を、失いたくなくて。弱く脆い部分を、全部曝け出すわけには行かなかった。


「――双葉」


 涙を拭いておいてよかった、と思った。振り返ると、母が扉に寄りかかっていた。私がにこっと笑うと、母は私の方へ近寄る。


「お母さん。帰ってたんだ」


 母は、笑わない。そういえば、笑った母を最後に見たのはいつだっただろう。


 視界で上げられた母の腕を、ぼんやりと眺めていた。



          *


 また、知らないうちに眠っていた。いつからかこういうことが増えている。寝る前の記憶だって曖昧だ。精神的なものだろうか。ストレスとかそういう類の、所謂心の病。


 けれど大きな問題はないから、病院に行くほどのことでもないと思う。


 私はベッドから体を起こして、机の上に目をやった。ゆうれいさんは、大抵私が寝て起きると返事をくれている。書いているところを私に見られたくないのかもしれない。ゆうれいさんは優しいから、私を怖がらせてしまうと思っていそうだ。


 自分がなにを書いたかも覚えていない中、ゆうれいさんの大人っぽくて優しい文字を目で追いかけた。


『大丈夫。君は一人じゃないよ。ぼくが傍にいるって思ってほしいな。ぼくがいれば、一人じゃないだろう? 一人じゃないと思えば、きっと君は前に進める。人は変わることが出来るんだから、君だって変われる。勇気があれば絶対に』


 優しさというモノは、どうしてこんなにも胸を苦しくさせるのだろう。震え出した唇を噛み締めて、私は鉛筆を走らせる。


 ゆうれいさんは、優しい。ゆうれいさんが言っていることは、きっと正しい。けれど正論を素直に受け入れられるほど、人間は簡単に出来ていない。


『ほんとに? ほんとに変われるかな? ねえゆうれいさん、私勇気なんてないよ。すぐに逃げたくなって、ずっと逃げてばかりなんだよ。私は、そんな、駄目な人間なんだよ』


 正しい言葉からも逃げるように、私は部屋を飛び出した。



          *


 学校がようやく終わる。テスト日だったから三時間授業だったけれど、それでも長いものだ。


 教室という空間で、私は喋ることを許されない存在。笑うことも、きっと許されない。それが苦しくて声を出そうとしても、私自身がそれを許さない。


 友達もいないのに声を出したら、友達もいないのに笑ったら。きっと私は不審な目で見られる。怖くてたまらない。非難されるくらいなら、孤独でいた方がマシだ。


 孤独なんて、慣れている。


 そう強がっても、本心までは騙せない。寂しい。寂しい。辛い。苦しい。一人は嫌だ。胸の奥底から響く叫びが、繕った無表情を崩そうとする。


 私は、早足で家に向かった。早く、ゆうれいさんと話がしたかった。自分の部屋に行きたかった。


 あそこなら、この仮面を剥がしてもいいのだ。笑っても、ゆうれいさんに話しかけても、いいのだ。




『君は少し後ずさっているだけで逃げているわけじゃないんだよ。だって、嫌なことを忘れようとか思ってないじゃないか。君が変われば、周りだって変わる可能性があるんだ。君が変わらなければ何も変わらない。ずっとそのまま。それは自分を守るためにはいいことかも知れないけど、前に進めず停滞し続けることは、いいことかな? 自覚しているのに弱いままでいて、君が嫌いな孤独に浸かったままでいて、君はそれが幸せだと言えるの?』


 少しだけ、厳しさの入った言葉に感じた。それでも彼の優しさは消えていない。この人の言葉は、不思議なことにいつだって私の涙腺を緩める。隠し続けた悲しみを前に出すことを、許してくれる。


 ――幸せ。


 幸せとは、なんだろう。


 幸せの定義はきっと、人によって異なる。私の幸せがなにか、私は馬鹿だから分からない。けれどはっきりと分かることは、今の私は幸せじゃないと言うこと。


 こんなにも黒色のかんじょうばかりが胸に溜まっている私を、誰かが幸せ者と言ったなら。それはその人が私よりも黒く染まっているだけだ。今の私が幸せだなんていわれても、私はそんな言葉信じない。


 ぼやける視界の中で、私は鉛筆を持った。手が震えてしまう。こんな字をゆうれいさんが見たら、笑う――なんてことは、絶対に無いんだろうな。



『つよくなりたい。変わりたい。変わりたいよ、ゆうれいさん。どうしたらいいの。どうしたら変われるの? 私は どうすればいいの』



 ぱたん、と。扉が開く音が聞こえた気がした。実際にしていたかどうかは分からない。その時既に、意識は夢の中に行っていたかもしれない。



          *


『少しずつでいいから、前に踏み出してみて。誰か一人に対してだけでも構わないから、挨拶をしてみて。次の授業何? とか、それだけでいいから話しかけてごらん。それで気を悪くする人なんていないから。勇気を出して、一歩ずつ前に出てみてよ。大丈夫、何かあったら、ぼくが助けてあげる』


 二日間のテストが終わって、今日はテスト返しの日だ。結局、ゆうれいさんと話すことばかりに夢中になって、勉強はほとんど出来なかった。しなかった私が悪いのだけれど、テストを作った先生の性格も悪いと思う。


 いつもより少しだけ気持ちが軽いのは、ゆうれいさんのおかげだろうか。それとも、テストが終わった安心感からだろうか。


 まだ不安が胸の中に残っているし、黒色の塊だって無くなったわけではない。けれど、前に進もうという気持ちは少しだけ出てきた。私だって今の状況から変わりたい。


『うん。頑張ってみる。私、ゆうれいさんに頑張った姿見せたい。だから、ゆうれいさんに助けてって言わないよ。私だけで頑張ってみるから、ゆうれいさん、もし私に友達が出来たら、姿を見せてくれますか? ゆうれいって、見えるんだよね?』


 ノートに微笑んで見せても、ゆうれいさんに私の笑った顔は見えないのかもしれない。それでも、私はゆうれいさんに笑いたかった。


 あなたのおかげで仮面を剥がして行けそうです。ありがとう。そう、胸の中で呟いてから、私は学校に向かった。


 心の中にある勇気の絵の具。その蓋を、ようやく開けられそうだった。私の勇気は何色なのだろう。感情と同じくろだったら、嫌だなと思った。


          *


 頑張ったよ、ゆうれいさん。そう言いたくて、私は玄関から真っ直ぐ部屋に向かった。


 今日の私は、声を出した。少しだけ笑った。勇気を、振り絞った。喋ったのは二言くらいだけれど。何を怖がっていたのかと思うくらい、優しい子がクラスにいた。


 おはようって言ったら、ちゃんと言葉が返ってきた。次の言葉に困って自分の席に向かうことにしたら、挨拶をした子が話しかけてくれた。


 すごく緊張したし、すごく不安で、顔も引きつっていたと思う。それでも、あの子は私に優しい微笑をくれた。


 ねえゆうれいさん、私、もう少し頑張れば本当に友達が出来るかもしれない。


 そのことを早く伝えたくて、私は自分の部屋の前に立った。


「あ――」


 母が、私の部屋の扉を背にして立っていた。この時間に家にいるなんて珍しい。今日は早く仕事が終わったようだ。


「おかえり、お母さ」


 頭がぐらりと揺れた。雷に打たれたら人はこんな感覚に陥るのだろうか。


 いきなり叩かれた頬が段々と痛くなってくる。押さえて痛みが引くわけではないけれど、私の手は頬を押さえた。


 頬を叩かれただけなのに、どうしてこんなに震えているのか分からない。母に叩かれることが初めてだからかもしれない。母に怒られるのが初めてだから、言いようのない恐れが湧いてくるのかもしれない。


 ――初めて? 本当に?


 瞬きをするたびに、知らない光景が瞼の裏に映されていた。それがなんなのか、全く分からない。分かりたくないと本能が叫んでいる。分からなくていいと、叫んでいる。


「双葉、先生から電話があったわ。あんたまたひどい点数とったんだって?」


「……ごめん、なさい」


「あんた何を聞いていたの!? この前言ったばかりじゃない! 次のテストで点数落とすなって! それともなに、あんたはそんなに私に叩かれたいの!?」


「違う、お母さん、違うの」


 この前。お母さんは、この前何を言っていた?


 なにも思い出せなかった。本当に、忘れっぽい脳みそだ。なにも分からない。分からないけれど、抵抗なんて出来るわけ無く、私はそのまま母の怒鳴り声と暴行だけを受けていた。


「どうしてこんな馬鹿な子に育ってるのよ! あんた、私を苛立たせて楽しんでるんでしょ!」


 ――違う。そんなわけない。怒ってるお母さんなんて、見たこと無い。見たくない。


「こっちは仕事で疲れているっていうのに! いつだってそう! そうやって……あいつと同じ目で私を見て……!!」


 私は。私、は。


 ――愛されたい、だけなのに。


「忘れたの? 叩かれたくなかったら、優秀な人間になりなさいって言ったでしょう」


 ――知らない。聞いていない。


 これ以上、聞きたくない。もう、これ以上はなにも、聞きたくない。


 聞きたく、ない。




 ふと、誰かの声が、聞こえた。私を呼んでいるようだった。


 ゆうれいさん……? …………いや、違う。これは――。


 ――――私の声?



          *


 気が付くと、部屋のベッドにいた。お母さんがベッドに寝かせてくれた、のだろうか。寝る前のことはあまり思い出せなかった。それでも、お母さんの言葉はなんとなく覚えていた。


 私が知らない言葉ばかり並べるお母さんを思い出すだけで、怖くなる。私が知らない表情を浮かべるお母さんを思い出すだけで、胸が痛む。


 不安な気持ちから逃げたくて、優しさが欲しくて、私は机に駆け寄った。ノートにゆうれいさんの字を見つけるとほっとする。文字を見ているだけなのに、優しい腕に抱かれているような気分になれた。


 ゆうれいさんの顔が見えたら良いのに。そうしたらきっと、温かく柔らかい笑みを見ることが出来たはずだ。


『わかった。頑張って。君が頑張っている間、ぼくも少し頑張るから』


 頑張って、という言葉に、これほどの効果があったとは知らなかった。頑張って。その言葉をかけられたのは、思い出せないほど昔のことだ。どうしてゆうれいさんは私が欲しい言葉を、かけて欲しいときに言ってくれるのだろう。彼は、私が悩みを零すまでも無く、弱さを曝け出すまでもなく、なにもかも見透かしているようだった。


『ところでさ、君は君が忘れてしまったことを思い出したい? ぼくはずっとこの部屋にいるから、全部見ているよ。君が忘れたこと、ぼくは覚えている』


 次の行に鉛筆の先を押し付けて、私はどう返すか考えながら、ゆうれいさんの文字を見返した。


 ――思い出したい?


 私は私に問いかける。記憶力が悪い私が、忘れてしまったこと。……本当に、記憶力が悪いから、なのか。そうは思えなかった。なぜなら、とても嫌な記憶だけを都合よく無かったことにしているような気がするからだ。


 嫌な、記憶。思い出したくない、怖いこと。きっと、さっきのお母さんよりももっと怖いお母さんがその記憶の中にいるんだろう。


 考えただけで、鉛筆が、全身が、震えた。怖かった。ゆうれいさんに教えてもらうことで思い出すことが、とても怖い。


〈自覚しているのに弱いままでいて、君が嫌いな孤独に浸かったままでいて、君は幸せだと言えるの?〉


「…………っ」


 私が、踏み出せば。一歩ずつで良いから、前に踏み出せば。そうしたら、幸せに近づけるだろうか。どれほど怖いことでも、思い出して、ちゃんと向き合えば、私の目の前にある道の霧は……晴れるだろうか。


 先にある未来が分からなくても、待ち受ける何かが予想できなくても、それでも私は前に進まなければならない。


 だって、変わりたい。変えたい。


 そうだ。私は、頑張るってゆうれいさんに言ったんだ。強くなりたいって、言ったんだ。だったら、こんなに悩む必要なんて、ない。


「……覚悟、決めるね。ゆうれいさん」


 ゆうれいさんに言っているようで、それは自分自身に言い聞かせるための言葉だ。覚悟を決めろ、双葉。私が恐れて忘れたことを、ちゃんと受け止める覚悟を。


 濃く、震えた字が、ノートに綴られていった。



           *


『ゆうれいさんも、頑張ることがあるんだね。頑張って。

 私、知りたい。私が逃げ続けたこと、ちゃんと知りたい。また逃げ出したくなって忘れたいと思うかもしれないけれど、もう、向き合うって決めたの。だからゆうれいさん、私に会ってくれますか? 頑張ったねって、褒めてくれますか?』


 ――私、は。


 私はいつ学校に行ったのだろう。


 昨日ノートに返事を書いて、眠って。朝から今に至るまでの記憶が一切なかった。その代わり、走って逃げたくなるような夢を見た。


 帰宅した母が、毎日のように私を叩く。毎日のように、怒鳴り声を上げる。そんな夢を見たけれど、きっと、夢ではないのだろう。


 恐らく夢ではなく、記憶。私が、思い出したいと望んだもの。過去の私が、忘れたいと望んだもの。


 私は、小刻みに震える手で机の上に置かれている時計を手に持った。時間は夜七時。私は昨日の夜からずっと、あの夢を見ていたということになる。


 ノートに目をやると、返事が書かれていることがすぐに分かった。いつもよりも長い文がそこに書かれていたから、嫌な予感がした。騒いでいる胸に手を当てると、そこにある心がいつもと違うような、おかしな感覚に陥る。


 それに小さく首を傾げながらも、私はゆうれいさんの文字に触れた。


『もう、さよならになる。

 身勝手でごめんね。君がようやく前に進めてよかった。君が、切り離した記憶をそのままにしておかなくていいと思えるようになってよかった。

 もう気付いたかな。ぼくは君の心を守るために君が作ったんだ。君はようやく、ぼくに抱えさせた記憶を思い出すことを望んだ。前に進む決意をした。だから、もうぼくは必要ない。会ってあげられなくてごめんね。

 もう二度と、ぼくみたいなものを生み出さないで。君は一人で前へと進んで行くんだ。でももし抱えきれないほど辛くなったら、ぼくのことを思い出して欲しい。もうこうして話すことは出来ないけど、ぼくはずっと君のそばにいる。すぐ近くに、いるから。君は一人じゃないってこと、忘れないで。

 ――おやすみ、双葉』



 力が、体から抜けていく。がくんと膝をつくと、あふれ出していた涙がぽろっと零れる。口を開いても、漏れるのは嗚咽ばかり。


 ゆうれいさんは、ゆうれいじゃなかった。他人でも、なかった。


 それでも確かにここにいたんだ。私の部屋に、ゆうれいさんはいたんだ。他の人に言っても信じてもらえないだろうけれど、このノートに綴られたものは妄想じゃない。これが一人芝居だなんて、そんなの信じたくない。


「ゆうれい、さん……っ」


 声を、聞かせてください。優しい腕で、私を抱きしめてください。もう一度、文字を書いてください。ゆうれいさんは、ここにいるって、証明してください。


「ゆうれいさんッ!!」


 嫌だ。嫌だ。こんなのは、いやだ。私は、私の幻想に溺れていただけ? 私は、自分で自分を慰めて、喜んでいただけ?


 ああ、どこまでも、かわいそうな奴。自分で自分を騙さなければ、こうでもしなければ、前に進めなかった弱い生き物。


「ぁあ……ぅあああああああああっ……!」


 ゆうれいさんなんて、いなかったんだ。


 そう思うたびに、胸が、喉が、悲鳴をあげる。心が痛むのは、自分に対する悔しさだろうか。――いや、違うような気がする。


 どうして。こんなに私は悲しいと思っているの? 自分がかわいそうだから? 本当に、そんなことで悲しむの?


 悲しい、苦しい。切ない。


 ……ああ。


 ――ああ、分かった。


 この悲しみは、私のものじゃない。


 ゆうれいさんのものなんだ。ゆうれいさんの心が、ここにあるんだ。ゆうれいさんが、ここにいるよって、叫んでくれているんだ。


「…………ゆうれい、さん」



 誰かがこれを幻想だと、一人芝居だと言ったとしても、私だけが知っていればいい。ゆうれいさんがここにいるって。ゆうれいさんは、私じゃなくてゆうれいさんとして存在しているって。


 誰にも分かってもらえなくても良い。私にしか分からない。だから、私がゆうれいさんを否定してはいけない。だって、ゆうれいさんにはゆうれいさんの思いがちゃんとあったのだろうから。ゆうれいさんは、私に前に進んで行って欲しかったのだろうから。


 私は、すうっと大きく息を吸い込んだ。自分の部屋を出て、リビングに向かう。まず向き合うべき人の前に、立つために。




 母はどうしてか私を抱きしめて泣いた。ごめんねって、何度も何度も繰り返されて、私が戸惑わされた。どういうことか、なんとなく分かってくる。


 ゆうれいさんが頑張ることはきっとこれだったのだ。私が記憶を思い出している間、ゆうれいさんが私の体を使っていたのだろう。記憶を思い出した私が苦しんで、前に進めなくなるなんてことが無いように、母との関係を変えようとしたのだろう。


 ゆうれいさんが母に何を言って何をしたのか分からないけれど、母の腕の中は、温かかった。



          *


 母と温かいコーヒーを飲んで、買い物に行く母を見送ってから、私は自分の部屋に戻った。


 今まで開きっぱなしだったノートを、ぱたんと閉じる。ぐるりと部屋の中を見回しても、目に映るのはいつも通りな自分の部屋だけだ。


 それでも、私は伝えたい言葉を叫ぶために、すうっと息を吸った。


「ねえ、ゆうれいさん――」


『わたしの部屋にはゆうれいさんがいる』の改稿版です。

幽霊モノ(心霊モノ?)を期待した方、申し訳ありません。

読んでいただきありがとうございましたm(_ _)m

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 素敵な物語を、ありがとうございました。
[一言] イマジナリーフレンドものだったのですね。 読みやすくすいすいと読むことが出来て、楽しかったです
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ