スチル30.直接対決(主人公・コンクール)
一次予選から数えると、3度目の土曜日。
まだ夏の余韻を残していたコンクール会場前の街路樹は、今では赤や黄色に色づき始めている。頬を撫でる風もひんやりとしたものに変わっていて、時の流れの早さに急かされるような気持になった。
学校が秋休みに入ったという美登里ちゃんは、予告通り日本に帰ってきた。コンクールの応援の為にわざわざ来てくれたのか、と恐縮してしまった私を彼女は豪快に笑い飛ばした。
「大した手間じゃないのに、マシロってば大げさなんだから」
イギリスと日本の距離が、美登里ちゃんにかかれば東京―大阪間くらいになっちゃう。1万キロ近く離れてるよね、確か。セレブ、こわい。
田園調布に豪奢な自宅があるそうなんだけど、ノボル先生所有のこじんまりとした建売住宅がいたく気に入ったようです。金曜日にかかってきた電話口で、彼女はそこにしばらく滞在すると教えてくれた。
「美登里ちゃん、自炊できるの?」
『出来るわけないじゃない』
無駄に自信に満ちた声で、美登里ちゃんは答えた。
メイドさんを自宅から呼ぶんだって。食事に洗濯にお掃除。その都度呼ばれちゃうのか……。心の中で見知らぬメイドさんに手を合わせる。
どうか通勤手当に色をつけてもらえますように。
『ねえ、日曜日はフリーなんでしょ? コンも誘って3人で遊びに行きましょうよ! 祝勝会を兼ねてさ』
「そうやって盛大にプレッシャーかけるのは止めようよ~。残念会になったらどうするの」
美少女2人に挟まれて、がっくりと肩を落とす自分の姿が浮かんでくる。
ビジュアル的にも切なすぎるわい。
『またまた~。謙遜は日本人の美徳っていうけど、今どき流行らないわよ? ネットに上がってたセミファイナルの映像を見たけど、マシロが一番上手かったじゃない。本番でよっぽどのことをやらかさなきゃ、マシロで決まりよ』
よっぽどのことって何だろう。
褒め言葉はふんわりと耳を通り過ぎ、嫌な想像だけが脳みそにこびりついた。
楽譜が全部飛んで大勢の観客の前で真っ白に燃え尽きる私。ましろがまっしろに。もうだめだ。
「うん……頑張る」
「take it easy! マシロ」
朗らかな声でエールを残し、美登里ちゃんは通話を切った。
部屋の壁にかかっているペールグリーンのコンサートドレスを、今一度眺めてみる。千沙子さんと桜子さんが、ついさっき届けてくれたばかりだ。
ノースリーブでシンプルなAラインのドレスなんだけど、金糸の縫い取りのアクセントとして胸や裾に散りばめられている真珠の輝きが眩しい。準決勝では紺ちゃんに窘められ、無難なワンピースしか準備することが出来なかった彼女たちの本気が感じられる。すっごく悔しそうだったもんな、あの時。
一体いくらしたんだろう。考え出すと、胃がキリキリ痛む。
眠れそうになくて、ベッドの上で何度も寝返りを打った。
枕元に置いた玲ちゃんの御守りとみんなの寄せ書き色紙に手を伸ばす。べっちんを小脇に抱え、私は何度も彼女たちの文字を目で追った。
明日で全てが決まる。
優勝を逃せば、青鸞に入学は出来なくなるだろう。音楽学校には行かずプロのピアニストになった人だっているんだから、道が閉ざされるわけじゃないけど、それでも――。
長年の夢が叶わなくなるのは、辛い。応援してくれてるみんなの期待を裏切りたくない。どうしよう。あがらずちゃんと弾けるかな。準決勝での富永さんの鮮烈な音が鼓膜を叩く。
結局眠れたのは、深夜2時を回ってからだった。
ファイナルでは、5人全員に個別の控室が準備されていた。
ドレスに着替え、花香お姉ちゃんに髪を結って貰う。鏡に映った私の顔色はお世辞にもいいとは言えなかった。
「まだ呼ばれるまで時間があるわね。どうする?」
亜由美先生に問われ、私はふうと溜息をついた。
「ちょっと外の空気を吸ってきてもいいですか?」
私の演奏は一番最後になっている。一番目のコンテスタントが、もう舞台に上がった頃だろうか。他の人の演奏を聴く余裕はなかった。引きずられそうで怖い。
「いいわ。15分くらいしたら、戻って来てね」
「はい」
「客席で応援してるからね」
「うん。ありがとう、お姉ちゃん」
ドレスの裾を持ち上げ踏まないように気を付けながら、控室のドアノブを回した。
裏庭に休憩スペースがあったはず。
そこに行こうと踵を返したところで、富永さんの控室からちょうど出てきたトビーと鉢合わせしてしまった。
「こんにちは、マシロ。今日のドレス、すごくよく似合ってるね」
「こんにちは。ありがとうございます」
軽く会釈をして通り過ぎようとしたんだけど、何故か後ろからついてくる。
ヒールのある靴で走って、本番前に転んだりしたら目も当てられない。なんなの、もう! 内心、盛大な溜息をつきながら足早に裏手に回った。
自動ドアをくぐると、爽やかな風が髪をなぶる。空は澄み渡っていて、雲一つない。本当に今日はいい天気だ。
何度か深呼吸を繰り返して、意識からトビーを締め出そうと頑張ってみたんだけど――。
存在感がとんでもないことになってるトビーを透明人間みたいに扱うなんて、一般人の私にはハードル高すぎました。
「あの。……こんなところにいてもいいんですか?」
いやダメだろ、という反語はトビーには通じなかった。
「君を一人にするなんてありえないよ、マシロ」
そうですか。
私はむしろ一人になりたいのですが。
どうやって追い払おうか考えながら、ベンチに近づくと。
「待って。そのまま座ると、ドレスが汚れてしまうよ」
トビーはスーツの胸ポケットから白い大判のハンカチを取り出し、木製ベンチの上に敷いてくれた。流れるような一連の仕草は、悔しいくらい様になっている。
やられた。これじゃ、一緒に座るしかないじゃない。
渋々お礼を述べて、ドレスの裾を汚さないようにしながら浅く腰掛ける。当然のように、トビーも隣に腰を下ろしてきた。
「今日のコンディションはどう?」
「……あまり良くないです」
隠したって仕方ない。正直に口にすると、トビーは信じられないものを目にしたかのように私に視線をあてた。
「マシロ。君は、馬鹿なの?」
はあ!?
突然売られた喧嘩だけど、即、買っちゃうよ?
ただでさえナーバスになってる今の私に『自制心』なんていう高尚なもんはない。
「ほら、そうやって思ってることをすぐに顔に出す。僕は、君の今日のライバル側の人間なんだよ。ちゃんと分かってる?」
これはきちんと自分を敵認識しろ、と迫ってるんだろうか。
随分前からあなたのことは警戒してますけど、何か。
「分かってますよ。でも、嘘はつけません。コンディションは良くないです。だから、1人になりたいんです」
「君に一つ、頼みごとをしようと思っていたけど、どうやら必要ないみたいだね」
暗にあっちに行け、と示した私の言葉を受け、トビーは人を小馬鹿にするような冷笑を口の端に浮かべた。
「頼みごと?」
「そう。富永くんに勝ちを譲って欲しいと頼もうかと思ってた」
正気なの!?
堂々と八百長を持ちかけてきたトビーを凝視すると、彼は肩をすくめた。
「あくまで“思っただけ”だからね。勘違いしないで、聞いて」
「聞きたくありません」
私はすっくと立ち上がり、お尻にひいていたハンカチを掴んだ。
「これは洗ってお返しします。さようなら」
精一杯の軽蔑を込めて睨みつけ、前を通り過ぎようとしたその時。
トビーはおもむろに足を組み替え、こう言い放った。
「僕の顔を立ててくれたら、君を青鸞の奨学生にしてあげる、と言っても? 君の望みは調べさせてもらったよ。青鸞に通いたいんだよね。僕なら、その願いを叶えてあげられる」
頭を横殴りされたような衝撃だった。
眩暈を感じ、思わずよろめいた私を支える手。
華奢な見かけによらずがっしりとした大きな手が気持ち悪い。トビーの甘い香水の匂いに嘔吐しそうになって、慌ててハンカチを口元に当てた。
これが。
こんなものが、コンクールイベントなの?
私はこんな方法でしか、自分の夢を叶えられないの?
「そんなに驚く話かな。まあ、今の君の状態でコンクールに挑むのは無理だよね。潔く棄権するのも一つの方法だよ」
トビーの歌うような声に、頭がかき回される。
悔しい!!
しゃんとしろ!!
ガクガク震える自分の足に命令するのに、ちっとも言うことを聞いてくれない。
――『一緒にいきましょう、この道を。あなたには、その才能がある』
――『頑張ってね! ましろがめちゃくちゃピアノ頑張ってきたの知ってるから。絶対、大丈夫だから』
指の震えが止まらない。みんなあんなに親身に応援してくれてたのに。立て直す時間がない。あとちょっとで、私は舞台に立たなきゃいけない。こんな状態で?
ああ、どうしよう。どうすればいいの。
泣きだす寸前まで追い詰められた私を救ってくれたのは、紺ちゃんだった。
いつだって、彼女が私の救世主だった。
「こんなところにいたのね。ましろちゃん、もうそろそろ準備しないと。一緒に行こう?」
裏口に姿を見せた紺ちゃんの顔を見て、膝が崩れそうなくらいホッとした。紺ちゃんは足早に私に近づき、トビーから私を奪還してくれた。
「大丈夫だよ。掴まって」
ただ頷くだけの私を抱きかかえるようにして、紺ちゃんは自動ドアに向かっていく。最後までトビーの方は見なかった。まるで私達以外は誰も存在してないかのように、紺ちゃんは私だけに話しかけた。
トビーに対して、私もこんな風に振る舞うべきだったんだ、とぼんやり思った。
控室まで戻ると、紺ちゃんは私によく冷えたミネラルウォーターを渡してくれた。一口飲んで、口の中の気持ち悪さを拭う。亜由美先生はすでに客席に行ったと聞かされた。
控室の中で帰りを待っていてくれた紅と美登里ちゃんが、おぼつかない足取りの私を見て一斉に息を飲んだ。
「なっ!」
「マシロ!?」
彼女たちが何か言う前に控室のドアがノックされ、案内の係りの人が顔を覗かせる。
「島尾さん。そろそろ舞台袖に移動をお願いします」
「……はい」
その時になってようやく、手の中に握っているのがトビーのハンカチだ、と気づいた。気持ち悪い! 反射的に投げ捨ててしまう。
紅が私の仕草を見て、顔色を変えた。ハンカチの端にはトビーのイニシャルが刺繍してあったから、私が今まで誰と一緒だったのか分かったのかもしれない。彼は険しい表情のままトビーのハンカチを拾い上げ、イニシャルを確認すると「くそっ」と小さく毒づいた。
「これ使って」
美登里ちゃんが私に新しいハンカチを貸してくれた。
「ソウも今頃、きっと応援してる。中継動画を見るんだって、すごく楽しみにしてたから」
――ましろはすげえな。
眩しそうに私を見つめる幼い蒼が脳裏に浮かぶ。
ああ、彼にだけは無様な姿を見せたくない。
「いってくるね」
3人を振り返った。みっともないなあ。声が掠れちゃってるよ。
私を見つめ、紺ちゃんはギリと歯を食いしばった。
紅のそんな顔、初めて見たな。ちっちゃい子みたいな不安げな表情がおかしくて、思わずふふ、と笑ってしまう。
その途端、紅や蒼や紺ちゃんと音楽で肩を並べたいと心の底から願ったあの日の記憶が、ありありと蘇ってきた。
――そうだ。私の夢は、そっちだった。
手の震えはいつの間にか止まっていた。
◆◆◆◆◆◆
本日の主人公ヒロインの成果
イベント名:決断
攻略対象:なし
無事クリア
序盤の主人公の心理が分かりにくい、というご指摘を受け、8話目まで見直しました。話の筋や台詞の大意は変わっていません。伏線を新たに追加したということもありません。(少しでも伝わりやすくなってるといいのですが、大幅な改稿は無理でした。すみません)
改めて読み直して頂く必要はないのですが、ここで報告させて下さい。




