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火曜日、教室に入るとすぐに咲和ちゃん達に取り囲まれた。ちなみに月曜日は代休でお休みだったんです。
「予選突破、おめでとう~!」
「咲和ちゃん達の色紙のお蔭だよ! 本当にありがとね!」
昨日のうちに仲のいい子達には、お礼と報告のメールを送っておいた。新聞にも結果が載っていたので、そこで私の名前を見てくれた子もいるみたい。休み時間の度に、「どうだった?」「緊張した?」と質問攻めにされた。田崎くんには「他の参加者ってどんな感じだった? 野郎じゃなくて、女の子限定で情報ぷりーず!」とねだられる。
「みんな可愛かったよ。お嬢様って雰囲気の子が多かったかな~」
「清楚系か! くそー。汗まみれでグラウンド駆け回ってる場合じゃなかったんじゃね、オレ」
「はい、そこ! 邪な目的で見に行くのはやめようねー」
すかさず同じ班の女子がツッコミをいれる。間島くんは「お前、ほんとにブレないな」と感心していた。激しく同意。
そして、あっという間に土曜日がやってきた。
15名に絞られたセミファイナリストを、更に選別する準決勝当日。
課題曲は、バッハのシンフォニア第9番。奏者によっては簡単で平易な曲に聴こえるかもしれないけど、バッハの対位法が最も色濃く出ている曲だ。
休符に彩られた主題。半音階下行を含んだ他の2つの主題と合わさる時に生まれる不協和音は、哀切さを強く訴えてくる。最後の3度の和音は希望の象徴。複雑な構造を極めて細やかに編み上げ、作り上げられたこのシンフォニアは、バッハを弾くうえで避けて通れない一曲だろう。
自由曲は、一次予選で選んだ作曲者以外を選ぶこと、という規定があった。技術的にも難易度が高く、独自の曲想を込めやすいショパンを自由曲に選ぶ子も多いだろう。私はもうショパンは選べない。
「エントリーされた自由曲を見る限り、ましろちゃんと被ってる子はいないみたいね」
亜由美先生は、満足げに事前に配られた演奏順表を眺めた。
「良かったです。やっぱりショパンが多いですか?」
「そうね。後は、ラフマニノフ、リストってところかしら」
予想通りだった。
私の選んだ「亡き王女の為のパヴァーヌ」は技術的にいえばそう難しい曲ではない。ノスタルジックな抒情性が裏目に出て、コンクール向きではないと考える人もいるだろう。
だけど予選と同じ審査員を相手にするのなら、ガラリと印象を変えたほうがいいかな、という計算もあった。
私は今日は制服ではなく、薄いブルーの半袖ワンピース姿。
実はこのワンピ、桜子さんと千沙子さんがわざわざ家まで持ってきてくれたのだ。紺ちゃんに止められたせいでシンプルな膝丈のワンピースになってしまった、と2人は不服そうだった。恐縮する母さんと私に「ファイナルにはもっとちゃんとしたドレスを用意するから!」と華やかに微笑み、桜子さんたちは嵐のように去っていった。
実は今日も、会場に来てくれてたりするんだよね。実の娘のように私を可愛がってくれている彼女たちに、すこしでもいい演奏を届けたいな、としみじみ思う。
すべすべとしたサテン生地の裾に指を這わせ、私は目を閉じた。集中力は申し分ない程高まっている。早く演奏したい。
私は午前の部の一番最後にエントリーされている。
案内の人に連れられ舞台袖までいくと、背の高い男の子がリストのメフィストワルツを演奏しているところだった。
体力がある男の子ならではだろう、低音部のアグレッシブさもテンポスピードも申し分ない。高音へオクターブ奏法で駆け上がる前半の見せ場も決まっていた。
やっぱり準決勝に残るような人は上手いなあと感心しているうちに、曲は終わってしまった。盛大な拍手に満足げな表情を浮かべ、彼が舞台からはけていく。決勝に残ることが出来るのは、5人だけ。改めて考えると怖くなりそうだったので、きつく目を閉じて邪念を追い払った。
「ナンバー8。島尾 真白。自由曲は、ラヴェル作曲、亡き王女の為のパヴァーヌ」
アナウンスに、会場がわずかにざわつく。
ラフマ、ショパン、リストと難易度が高く、しかも長い曲が続いていたからだろう。一瞬不安になったけど、ここまできちゃったんだから、もうどうにもできない。
私はピアノだけを見つめながらステージに出て行った。ペコリと一礼し、椅子の高さを上げる。
鍵盤に手を置き、すう、と一つ息を吸う。
バッハ シンフォニア第9番
テンポはゆったりと。だけどあまり重く引きずり過ぎないように。
一小節の間にクレッシェンドとデクレッシェンドが共存するこの曲を、祈りを込めるように丁寧に歌い上げていく。大聖堂でのミサ。ステンドグラスから差し込んでくる一筋の光。希望を求めながらあがく人の心をイメージして、鍵盤を追った。私の奏でるイメージ通りの音がホール全体に広がっていく。
ペダルを踏まず、レガートで音の連なりを際立だせた。レガートのフレーズは、全部同じ音質で揃える必要がある。じゃないと、隣あう2つの音が綺麗につながらないのだ。濁らずに2音をつなげる、というのはやってみると実はすごく難しい。腐心して練習した甲斐あって、なかなか上手くいった。
一息ついて、気持ちを切り替える。
会場は、恐いくらいに静まり返っていた。
そして自由曲。
ラヴェル 亡き王女の為のパヴァーヌ
古典的な和声進行から解放された独自の音楽を作りたい、と工夫を重ねていたラヴェルだけど、この曲ではまだ彼の目指した音楽は完成していないと言われている。その代わりに、聴く人の胸を強く揺さぶるノスタルジックな主旋律を生み出すことに成功したのだとしたら、作曲家にとってなんて皮肉なことなんだろう。鏡合わせに配置されたかのような副旋律。均整の取れた上品な構造もまた、この曲の魅力だろう。
B部にあるTres lointain(非常に遠くから)という指示にしたがって、その部分は音量を極限まで絞って弾いた。ただピアニッシモで弾くのではなく、遠くに見える雲の切れ間から見え隠れする光の煌めきを音に変えるつもりで鍵盤を撫でる。そして中声部。ここはフォルテに近いような音量で一音一音を際立だせた。
異なる世界に同時に存在する同じメロディ。鏡の向こうには、もう手の届かない人が映っている。聞こえてくる微かな囁きに耳を澄ませ、こちら側で叫ぶ。決して相いれることのない二つの世界のはざまを行き来できるのは、この音楽だけ。どうか、届いて欲しい。二度と触れることの出来ない大事なあなた。確かに私は、ここにいるのです。
もう二度と会えないお父さん、お母さん、みんな。置いてきてしまったあなた達との時間が、今の私の一部を形成しているのだとしたら、別れはそう悲しいことではないのでしょうか。それでも思ってしまうのです。もう一度会えたなら、と願ってしまうのです。
全神経を指先に集中させ、私は想いの丈をこの曲に込めた。
最後の一音を鳴らし腕を上げ、膝に戻す。
静謐さを破るように、まばらな拍手が起こった。
たちまちそれは、会場全体を包む嵐のような音に変わる。
立ち上がって拍手してくれている人達までいた。しばらくやみそうにない拍手に包まれ、私は一礼して泣きたくなるような気持で舞台を去った。
もっと、弾いていたかった。
もっともっと、あのピアノと私達の音楽を奏でていたかった。そう思えたのは、これが初めてだった。
控室に戻って、先生のところまで走っていく。
「どうでしたか?」
息をきらせて尋ねると、亜由美先生は目尻に浮かべた涙をその細い指で拭った。
「すごく……良かったわ」
私は思わず一歩後ずさってしまった。手放しで褒めることなんて滅多にない先生の、最上級の賛美に腰がひける。
「――ええっと、ミスタッチはなかったですもんね!」
「そういう次元じゃなかった。――ねえ、8歳だったのよ。うちに通い始めたばかりのあなたは、たどたどしい指でバイエルを弾いてた。あれから、たった6年で、ましろちゃんはここまで来たのね」
亜由美先生は私の肩に両手を置き、じっと瞳を覗き込んできた。
「一緒にいきましょう、この道を。あなたには、その才能がある。もっともっと世界を広げて、自分の音に変えてちょうだい。そしてその音を、みんなにも聴かせてあげて」
「――はい」
まるで、私が決勝に残ることを確信しているようなその言葉に、内心首をひねった。
まだ午後の部もあるし、ファイナリストになれるのはそのうちの5名だけなのにな。
用事があるという亜由美先生に手を振り、父さん達と近くのファミレスでランチを食べに行った。
興奮状態の2人に、褒められまくってむず痒くなる。さすが、マシロ。さすが、父さんの子。いやいや、母さんに似たんだよ、って。最後は必ずノロケになっちゃうのは何故ですか。
「じゃあ、母さんたちは先に帰ってるから。亜由美先生によろしく伝えてね」
「うん。今日もありがとう」
「ましろもお疲れ様。夜は奮発して、お寿司でも取ろうかな」
「やった!」
父さんのピカピカに磨かれた国産車を見送ってから、コンクール会場に戻った。
出場者パスを係りの人に見せてホールに入る。ほぼ満員なんだけど、出場者の為に準備された席があって、そこまで案内してもらえた。
ここからはリラックスして、一観客として演奏を楽しむことが出来る。
青鸞の3年生が確か、午後の部の最後だったはず。演奏曲は、リストのパガニーニによる超絶技巧練習曲集より第6番か。いいね、いいね!!
原曲となるパガニーニのヴァイオリン曲も難曲で知られてるけど、リストの練習曲もかなり難しい。音が飛びまくるからミスタッチしやすいんだけど、ノーミスでしかもフォルテッシモの部分を音量たっぷりに演奏できればかなり高評価がつくと思う。
予選の演奏もすごく上手かったんだよね。
青鸞のクリスマスコンサートの舞台に上がるべきだったのは、沢倉さんじゃなくてきっとこの人だった。演奏順表の名前を指で辿る。富永 翔琉さん、か。
コンクールにはきちんと実力派の本命をぶつけてくるあたりが、トビー王子だ。
どのコンテスタントも素敵だった。
楽譜通りに正確かつ基本に忠実に弾いてくる子もいれば、崩しすぎ? と驚くくらい独自の曲想をつけてくる子もいる。場の雰囲気にのまれてしまったのか、ミスを連発しちゃう子ももちろんいて、思わず耳を塞ぎたくなった。うう、その気持ち分かる! 緊張するなって言われてもしちゃうよね。
あっという間に、最後の演奏者になってしまった。
流石にバッハは聞き飽きました。自由曲がなかったら、もっと辛かっただろう。
「ナンバー15。富永 翔琉。自由曲は、リスト作曲、パガニーニによる超絶技巧練習曲集より第6番」
わわ。出てきた!
教則本通りのバッハを聴きながら、ピアノを奏でる彼をここぞとばかりにじっくり鑑賞。
今日は制服じゃなくて、黒のスーツにピンストライプの薄いブルーのシャツを着ている。背はそんなに高くないけど、バランスのいい等身だからかスラっとしてみえるなあ。サラサラのオレンジの髪は短くて、きりっとした眉に綺麗な黒い瞳をしていた。
パガニーニによる超絶技巧練習曲集より第6番
鮮烈なアルペジオで始まる序奏部。重みのある打鍵。フォルテッシモの迫力。相当手の大きな人みたい。左手の10度連続和音も難なく弾きこなしていた。お腹の底まで響くピアノに圧倒される。
聞いてるうちに居てもたってもいられなくなった。ああ、すごい。私もこんな風に弾きたい!
展開部の高音の切ないくらいの響きに胸が熱くなる。とにかく情熱的だった。ミスタッチは3箇所あったけど、それを補って余りあるほどの表現力だ。悔しいけど、今の私ではあんな音は出せない。フォルテッシモをあんな風に雷鳴みたいに響かせるには、まだ手の力が足りない。体重移動で出せる音にも限界がある。
きつく拳を握りしめる。早く大きくなりたい。もっと力をつけたい。
激しい闘志を燃え立たせながら、私は舞台上の男の子を見つめ続けた。
全ての演奏が終わったので、選考に入る。
私もホールから出て、今のうちに桜子さん達に挨拶しておこうかな、と辺りを見回した。あれ? 見当たらない。もしかして、私の演奏が終わった時点で帰っちゃったとか?
紺ちゃんと紅とは、結果発表の後に待ち合わせている。
携帯を取り出して時間を確認しようとバッグを探り、あれ、と手を止めた。
ない。
……ない!?
何度もレッスンバッグを確認するけど、携帯が見当たらない。ファミレスでは一度も触ってない。最後に触ったのは、ええと。控え室だ! そこで電源を切ってバッグにしまったと思ったけど、落としちゃったのかも。
私は慌てて踵を返し、控室へ向かった。
角を曲がったところで、1人の男の子とぶつかりそうになる。
走っていたせいで、急に止まれない。よけようとしたんだけど、スピードがつきすぎていたせいかバランスを崩してしまった。
「うわっ!」
危ういところでその子が転びそうになった私を支えてくれた。
「ご、ごめんなさいっ!!」
助かった~。パンツ丸出しで床に激突するとこだった。こんな場所で恥ずかしすぎる。
すぐに手を離してくれたその子に頭を下げ、そのまま行こうとしたところで、「ねえ」と声をかけられた。
「え」
「もしかして、携帯探してる?」
その男の子が掲げた右手には、私のピンクの携帯が握られていた。
「ああっ。それ、私のです!」
可愛いパンダのストラップは、私の自作なんです。世界に一つしかないはずだから、間違いない。見つかって良かった~。ホッとしてその場にしゃがみ込みそうになった私は、その時、ようやく相手の男の子の顔を見た。
――と、富永 翔琉!?




