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音楽で乙女は救えない  作者: ナツ
第二章 中学生編
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 結局、夏のセミナーにサディア・フランチェスカは参加しないことになったらしい。

 スケジュールの調整が上手くいかなかったのかな。

 その情報をいち早く手に入れた亜由美先生から改めて「どうする?」と聞かれ、私は首を振った。

 課題曲の演奏ポイントや注意点を、審査員を務める講師の人達に直接指導してもらえるのは得難い経験だと思うけど、会場が遠かったし参加費も国内学生コンクールとは思えないお値段だったんです。

 クラシックもピアノも好きだ。

 だけど、普通のサラリーマン家庭に育っている私には、ちょっと分不相応なのかなと思うこともよくある。参加費と得られる成果を天秤にかけ、結果セミナーを見送ったことなんてお見通しなんだろう。亜由美先生は私の顔をじっと見つめて、ためらうように唇を湿らせた。


 「ましろちゃんは、初めて会った時からそうだったわね」


 どういう意味?

 キョトンとしてしまった私の手を引き、先生はソファーに座るよう促した。


 「目的意識が高いことは決して悪いことじゃないのよ。ただ、必要か不必要か、やるべきかやらないべきか。それだけで物事を取捨選択していくのは、ある意味恐いことだと私は思うの」


 何を言われているのか、すぐには頭に入っていかない。

 だけど、先生がすごく私のことを心配してくれているのは伝わってきた。


 「芸事げいごとはそれがどんな分野でも、本格的に極めたいと思うなら生半可な覚悟で挑めるものじゃない。だから、ましろちゃんのひたむきさは美点でもある。でも、もっと視野を広げてみたらどうかな。パッと見、無駄に思えることでも、それが結局は人間の幅を広げることになるし、演奏の幅を広げることにもなるんじゃないかしら」

 「えっと……セミナーを受けた方が経験を積める、ということでしょうか?」


 断ったのがまずかったんだろうか。

 恐る恐る尋ねてみたら、苦笑で返された。


 「いいえ。それはそんなに大した問題じゃないのよ」


 亜由美先生は、細い腕を伸ばして私の頭を優しく撫でてくれた。


 「いつか何もかもどうでもよくなるくらいの恋でもすれば、ましろちゃんも自分の殻を破れるのかしらね~」

 「いや、もう」


 ――恋愛は当分いいです


 といいかけて、口を噤んだ。

 友衣くんと花ちゃんの恋を醜いエゴで台無しにした苦い記憶が、喉元までせり上がってくる。彼への想いは本当に恋だったのかと問われても、私はすぐには頷けない。好きで好きで堪らないから、何がどうなってもいいから、くらいの覚悟と情熱で、彼らを引き裂いたんだったらどんなにマシだっただろう。でもそうじゃなかった。私は浅はかな子供だった。

 そして、それはきっと今でも変わっていない。


 「じゃあ、9月の一次予選まで私が今まで通り課題曲と自由曲をみていくということで構わないかしら?」


 私が急に黙ったので、先生は明るい声で話を切り替えた。


 「はい! お願いします!」


 余計なことを考えずにすむから。

 前世の記憶があることも、この世界が知っているゲームに酷似していることも。自分が花ちゃんに行った仕打ちも、紺ちゃんが今でも時々辛そうな理由も。

 何も考えなくてすむから、ピアノに没頭しているのかもしれないな、とふと思った。いや、もちろん好きじゃなきゃ続いてないだろうし、先生も言ってたけど中途半端な気持ちで上を目指せるほど音楽は甘くない。

 深呼吸を繰り返し、しゃんとしろ! と自分に喝を入れ直す。

 

 感じ、考え、私は確かにここにいる。

 それ以上に自身の実在を証明できるものなんて、どんな世界にいようとありはしないのだ。そしてそんな私が選んだのは音楽の道なんだから、このまま全力で努力していくしかない。

 それしかないはず、だよね?


 

 亜由美先生の高校時代の恩師も、なんと今回のコンクールの審査委員を務めているらしい。

 その人を通じて色んな情報を持ってきてくれる亜由美先生のお蔭で、私は安心して練習に打ち込めた。一次予選ではショパンのエチュード集第10番を弾きたいと希望を伝えたら、曲についての審査基準なんかも聞いてきてくれた。

 テンポと強弱記号を楽譜通りにきっちり表現できているか。演奏者の技術的レベルをはかるのに適した曲だからこそ、自由な曲想表現よりも音色の美しさ、正確なタッチを重視するとのことだった。

 どのような演奏が求められているかが先に分かっていれば、練習は格段に楽になる。

 

 

 そして夏休み。

 予告通り日本にやってきた美登里ちゃんから連絡を貰って、私と紺ちゃんは久しぶりにノボル先生の家に遊びにいくことになった。

 夏休みが明ければ、あっという間に一次予選がやってくる。こんなことしてる場合か? と正直不安にもなった。ああ、約束しなければ1日練習できたのに、とかつい考えちゃう自分が憎い。美登里ちゃん、ごめんなさい!

 亜由美先生にもらったアドバイスを胸のうちで繰り返し、迎えにきてくれた車の中で「これも経験。何事も経験」とぶつぶつ呟いていたら、紺ちゃんにドン引きされた。


 「ましろちゃん……。今度はどんな考えに取りつかれてるの?」

 「人生の幅を広げる為に、試行錯誤するつもりなの」

 「そう、なの?」

 「うん。不必要だと思ってもやってみたら、自分の糧になるんだって」


 紺ちゃんにすかさず「こら!」と怒られてしまいました。うう、つい本音が。


 「ここ最近、ずっとピアノ漬けだったでしょう? 美登里ちゃんも私も心配してるのよ。ましろちゃんはすぐ、こうなっちゃうから」


 目の両端に手をあてるポーズをした紺ちゃんに、やっぱりかと苦笑を返す。

 

 「なんでだろう、練習してないと焦っちゃうんだよねえ」

 「ふう……ストイック過ぎ。まあ、それがり」


 紺ちゃんはハッと気づいたように唇を噛んだ。私も知らないふりで窓の外を眺める。


 「ましろちゃんだなって思うけどね」

 「以後、気を付けます」


 りか。

 そう言いかけた紺ちゃんは、見事な精神力で自分を立て直し、何事もなかったかのように言葉を紡いだ。二度と過去の話をしてはならない。あの雪の日の約束は、私もちゃんと守ってる。

 

 ノボル先生の家に到着してチャイムを鳴らすと、すぐに美登里ちゃんが飛び出してきた。


 「わ~い! 2人とも会いたかった~!!」


 ハグされ頬にキスされるという熱烈な歓迎を棒立ちのまま受け、ようやく中に入れてもらえた。長い海外生活ですっかり外国ナイズトされちゃってる美登里ちゃんが、ゲームの進行通りにいけば日本の女子高生になるなんて冗談みたいだ。誰にでもやっちゃダメだよ、って釘さしとかなくて大丈夫かな。


 「ノボル先生は?」

 「今日はアユミとデートなんだって」


 美登里ちゃんの言葉に、私と紺ちゃんは一斉に「うそっ!?」と声を揃えてしまった。美登里ちゃんもでしょ~? びっくりでしょ!? というような顔で頷いている。


 「ランチの場所はばっちり押さえてるの。ねえ、こっそり様子を見に行かない?」


 出たよ。ブラコン。

 美登里ちゃんはお兄さんのことが大好きで、将来はノボル先生みたいな人と結婚したいとまで言っている。浮世離れした天才ピアニスト(実家は大財閥)か。探すのは難しかろうな。

 

 「そんな可哀想なこと、しちゃダメ」


 いつの間にかすっかり美登里ちゃんと仲良くなってる紺ちゃんは、出されたアイスティーにストローをさしながら呆れ顔で窘めた。


 「だって、気になるんだもん! コンだってコウが女の子とデートするって言ったら気になるでしょ?」

 「ならないわ。コウが色んな女の子とデートするのは、日常茶飯事だもの」


 平然と答えた紺ちゃんに、美登里ちゃんは「sugar!」と毒づいた。本当はshitって言いたかったんだろうなあ、と他人事のように2人のやり取りを眺めていると、美登里ちゃんの矛先はこっちに向いた。


 「コウがふらふらしてても、マシロは平気なの?」

 「私? う~ん、紅も相手の子も可哀想だとは思うけど。紺ちゃんの安全を確保する為に動こうとする気持ちも分かるし、部外者の私がとやかく口を出す問題じゃないかな」

 「そっか……。じゃあ、ソウにもまだチャンスはあるってわけね。コウみたいな節操なしは放っておいて、ソウにしときなさいよ。怖いくらいに一途よ。うん、怖いくらいに。マシロ以外の女なんて彼にはゴミなんだから」


 怖いを連発するあたり、本気で推しているのかどうか微妙なところ。あと、人をゴミ扱いする大佐は私もやだな。そんなに婚約がイヤなのかと同情してしまうくらい、彼女は私の顔を見るたび、蒼を勧めてくる。


 「許してもらえたのが不思議なくらい、私は酷い仕打ちを蒼にしちゃったんだよ? 美登里ちゃんも知ってるでしょ。今更、無理だよ」

 「……マシロって、実はものすごく残酷な人?」


 ん? それ、前に紅にも言われた気がする。


 「そうなのかな」

 「私はそういうマシロも好きだけど、あまりにも淡々としてるからさあ。若いうちは、もっと悩んだり迷ったりするもんじゃない?」

 「悩んで迷って答えが出るのならそうするけど、無理なこともあるでしょう。時間がもったいなくない?」


 私の言葉に、美登里ちゃんは紺ちゃんと顔を見合わせて溜息をついた。


 「コウもソウも、完全にピアノに負けてるじゃない」

 「まずそこが問題だよね~」


 やけに気の合っている2人に、私はふんと頬を膨らませてみせた。



 

 そして、美登里ちゃんがイギリスに帰るという二日前。

 彼女とノボルさんを招いて、玄田の家でさよならホームパーティを開くことになった。介入したがるお母様ズを紺ちゃんが必死に阻止し、ありえないくらい大規模なパーティになってしまうのは阻止出来たらしい。ノボル ミサカがくるのなら、オーケストラを呼んで協奏曲を、とか言い出してたんだって。こわっ!! それコンサートだよ!!

 でもまあせっかくだから、と私と紺ちゃんは餞別に連弾をプレゼントすることにした。


 麻のジャケットを羽織り、ちゃんと髭を剃ってきたノボル先生は、いつもの10割増しでカッコよかったんだけど、前に一度酷い目にあった私たちは「今日も素敵です」と言うにとどめた。これで、髪が伸び放題のもじゃもじゃじゃなければ最高なんだけどなという本音はグッとこらえる。

 よく考えたら、あの頭で亜由美先生とデートしたんだよね? す、すごいな。もちろん亜由美先生が。

 


 ラフマニノフ ピアノ組曲第二番 ワルツ


 交響曲第一番の初演を失敗したことで精神的に大ダメージを受けていたラフマニノフが、ようやく自信を取り戻し作曲を再開し始めた頃の作品だ。三拍子と二拍子が入り乱れる独特のリズムには、どこかロシア風の哀愁が漂っている。ダイナミックな和音やアルペジオが華やかに、ロマンティックな主旋律を彩っている。最後の高音の連打は愛らしく。

 紺ちゃんとは、シャンデリアの煌びやかな大ホールで、軽やかに舞い踊る若い恋人たちのイメージだよね、と話し合って練習した。

 コンクール用の曲ばかりに没頭していると、無性に違う曲が弾きたくなる。ちょうどいいタイミングで息抜きが出来たので、私もすごく楽しんで演奏できた。

 紺ちゃんと向い合せのピアノに座るのは、発表会以来3年ぶり。

 彼女と呼吸を合わせ、音色を交わす。内緒話をしてクスクス笑いあった遠い日の記憶に、甘く満たされ涙が出そうになる。クレッシェンドでフォルテッシモに持っていく中盤は、紺ちゃんに手を引かれ明るい空に駆け上がっていくような幻想さえ見えた。


 演奏が終わると、ノボル先生も美登里ちゃんも立ち上がって拍手してくれた。


 「excellent!!」


 美登里ちゃんは頬を上気させて、自分のフルートケースに走り寄った。


 「ね、私もうずうずしてきちゃった。ノボル、合わせて!」

 「いいよ。何にする?」


 「ビゼーのアルルの女がいいな。メヌエットにしよっと」


 手早く純金のフルートを組み立て、軽やかな足取りで私達と入れ替わるようにピアノに近づいていく。

 うっ。黄金の光が眩しい! 500万くらいかな、と値段を推測した。いいなあ、500万あったら家のローンの残額がだいぶ減るだろうなあ。


 「ましろちゃん、口」


 紺ちゃんに肘でつつかれ、キュっと唇を閉じる。

 美登里ちゃんはそんな私をおかしそうに眺め、おもむろにフルートを構えた。


 ゆったりとした美しいメロディを、息継ぎの苦しさなんて感じさせない滑らかさで吹いていく。あくまで美登里ちゃんが主役。ノボル先生は、邪魔にならないように控えめに柔らかく伴奏を寄り添わせた。

 上手い。クリスマスコンサートで聴いた青鸞のフルート専攻の誰よりも、美登里ちゃんは上手かった。音色の柔らかさといい高音の透明感といい、天上の調べみたい。

 私と紺ちゃんは、手が痛くなる程の拍手を惜しみなく送った。


 その後軽食をつまんだり、CDを選んでかけたり、ノボル先生にリクエストしたりと、とても楽しくパーティを過ごし、私は大満足の一日を終えた。


 「空港まで見送りに行けなくて、ごめんね」

 「いいの、気にしないで」


 玄田邸を辞する時、美登里ちゃん達とちょっと早めの別れの挨拶を済ませる。

 

 「ファイナルを見に、10月にまた来るからね、マシロ!」


 美登里ちゃんにバチンとウインクを飛ばされる。その前に、一次予選と準決勝があるのに。勝ち抜くって信じてるからね、というエールの含まれた一言に、私は思わず笑ってしまった。


 「ラヴェルを弾くから、楽しみにしてて」


 そういうと、ノボル先生までにっこり笑ってくれた。


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